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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第7話 揺れる灯籠、揺れる心

 夏の気配は、ある日きっぱり来るのではなく、紙の手触りから先に変わった。


 春のあいだは乾きのよかった白札が、朝のうちから少しだけ湿りを含む。墨ののび方も違う。通子が結び紐を広げるたび、色糸が指へからみつき、日依は乾かし台の位置を半歩ずつ風の通るほうへずらした。


 「今日の紙、ふやけるの早くない?」

 通子が眉をしかめる。

 「早いですね」

 恵美子は札の端を持ち上げ、光へ透かした。

 「昼を過ぎたら、台紙を一枚厚くしたほうがよさそうです」

 「夜まで売るんだもんねえ」


 月暁寺の裏を流れる志和川では、その晩、灯籠流しがある。

 春の縁句祭ほどの人出ではない。けれど夏の入り口に川風を浴びようとする人は多く、寺門前には夕方から小さな市が立つ。恋の札より、送り出す札。会えぬ相手へ渡す文句より、胸のうちを静かに流すための一枚。その違いを、恵美子はここ数日で少しずつ覚え始めていた。


 売り場の見本も、朝のうちに掛け替えてある。


 手を振れば

 水にほどける

 夏の暮れ


 通子がその札を見上げて、うん、と頷いた。

 「今日は、きゃあきゃあって感じの恋より、ちょっとしんみり寄りだね」

 「川に流す夜ですから」

 「でも、しんみりだけだと客が寄らないんだよなあ」


 そう言いながらも、彼女は見本札の脇へ細い銀糸を一本だけ足した。日が落ちると灯りを拾って光る糸だ。しんみりした札の横に、その一本があるだけで、急に人が足を止める顔になる。そういう勘を、通子はいつも体で知っている。


 虎哲は朝から川辺へ下りていた。舟着き場の柵を直し、石段へ足を取られぬよう板を渡し、仮の橋の継ぎ目へ楔を打ち込んでいる。寺と町を行き来する近道として使われる細橋だが、雨のあとや夜露の出る時刻はとにかく滑る。


 昼前、その虎哲が額の汗を腕で拭いながら戻ってきた。

 「川沿い、灯籠を見に来る客で夜は混む。売り場の台、いつもより奥へ寄せろ」

 「そんなに?」

 通子が聞く。

 「橋の手前で立ち止まる奴が出る。川見ながら札読むから詰まる」

 「たしかに、読むわね」

 恵美子も頷いた。

 「看板は低くしたほうがよさそうです。視線が上がると余計に足が止まります」

 「そういうこと」

 虎哲はそれだけ言って、台の脚を測り始めた。


 午後、隆冶が見回りの途中で立ち寄った。

 眼鏡の奥の目はいつも通り静かだったが、帳面の端にはすでに何本も細い書き込みがある。灯籠を扱う店、火の番の人数、橋の定員、川辺に下ろす見物客の順路。今日の彼の頭の中には、川と人と火の流れが一緒に入っているのだろう。


 「今夜、ここは灯籠用の札も扱いますか」

 「はい。流す札ではなく、持ち帰るものですが」

 「火気は使いませんね」

 「使いません。見本も紙札だけにします」

 「結構です」


 それで話が終わるかと思ったが、隆冶は帳面を閉じずに続けた。


 「夜の売り場は、昼より二割ほど高くして構いません」

 「え」

 通子が先に声を上げた。

 「ほんとに?」

 「夜番の人手と提灯代が増えます。昼と同額では、働いた分が抜けます」


 恵美子は思わず手元の値札を見た。昼のままでも売れるだろうとしか考えていなかった。だが、風除けの布、提灯の油、夜露で傷む紙、持ち帰りの箱。夜には夜の経費がある。


 「……三割ではなく、二割でよろしいのですか」

 自分でもおかしい問いだった。だが隆冶は笑わずに答えた。

 「まずは二割で様子を見ましょう。客足が想定より早く落ちるなら戻せばよい」

 「分かりました」


 そのやり取りを聞いていた通子が、隆冶の背中が見えなくなった途端に口笛を吹いた。

 「出たよ。甘い顔しないでちゃんと儲けさせるやつ」

 「甘いのではなく、当然の計算でしょう」

 恵美子が言うと、

 「そこ、もう言い方までうつってる」

 通子はすぐに笑った。


 夕方が近づくと、川から湿った風が上がってきた。

 寺の石畳は昼の熱をまだ残しているのに、風だけが先に夜の匂いを運んでくる。売り場の提灯へ火が入り、銀糸を足した見本札の端が、ほのかな灯りを拾って小さく光った。


 最初の客は、三十を少し過ぎたくらいの男だった。

 着物の襟元がきっちりしているのに、足袋の親指だけが落ち着きなく畳を擦る。役所勤めか帳場の者だろう。人前で大きな声は出さぬが、胸の中だけ騒がしい顔をしていた。


 「恋の札、というより……」

 「はい」

 「別れたわけではないのです。ただ、夏の終わりに相手が王都へ行くもので」

 「送り出す札ですね」

 「そうです」


 男はそこで恥ずかしそうに咳払いをした。

 「泣かせたいわけではないのです。気持ちは伝えたい。でも重いと思われたくはない」

 「重い、と言われたことがあるのですか」

 「あります」

 「その時は、どんな文を」

 「長かったです」


 通子が売り場の外で肩を震わせた。笑いを堪えているのだ。恵美子は見なかったことにした。


 「では、長くしない代わりに、帰る場所があることだけ入れましょう」

 「帰る場所」

 「去る人は、後ろ髪を引かれるより、戻れると思えるほうが歩きやすいことがあります」


 男はじっと聞いていたが、やがて深く頷いた。


 紙へ落とした言葉は、短かった。


 また来いと

 言わずに灯す

 川明かり


 「……いい」

 男は小さく呟いた。

 「また来い、と言わないのが、かえって分かる」


 そう言って札を受け取り、昼より少し高くなった代金を何も言わずに払った。夜の灯りの下だと、客の表情は昼よりも素直に見える。隠したい気持ちが、提灯の色に少し浮くのかもしれない。


 次には、母娘が来た。亡くなった祖母の好きだった花を灯籠へ添えたいという娘に、母親が「それならちゃんとした文がほしい」と言う。恋だけではない願いが、灯りの数だけ川辺へ集まってくる。


 日依は清書の手を昼より少し遅くした。夜の客は読み返す回数が多い。筆を急がせるより、読む時間まで札に残してやったほうがよい。そんなことを、誰にも言われぬまま学んでいる。


 通子は売り場の脇で、色糸のかわりに小さな鈴を一つずつ結んだ。鳴りすぎぬよう、中の玉へ薄紙を巻いた鈴だ。風が通るたび、すず、ではなく、ほ、と息をつくような音が出る。


 「今日の客、泣く人いるかも」

 「泣くのは悪いことではありません」

 「そうなんだけどさ。帰り道で笑って帰れる泣き方がいいよね」


 恵美子はその言い方が少し好きだった。


 陽が落ちきるころ、川辺の灯籠に最初の火が入った。

 一つ、二つ、十、二十。流れへ浮いた灯りは、すぐには遠くへ行かず、川面でためらうように揺れてからゆっくり下る。見物の人々が橋の手前で足を止め、息を呑み、ついでに通路も塞ぐ。虎哲の言った通りだった。


 「通子さん、看板をもう半歩こちらへ」

 「はーい」

 「日依さん、受け渡しは台の内側から。外へ腕を出しすぎると人が寄ります」

 「はい」

 「虎哲さん、橋の入口へ一人立ってもらえますか。二列になりかけています」

 「任せろ」


 恵美子は客の声を聞きながら、半分は流れを見ていた。春の縁句祭で覚えたことが、別の晩にもそのまま使える。立ち止まる場所、灯りに吸われる顔、連れとはぐれる子どもの高さ。売り場の中で筆を持ちながらも、目は少し先の混み具合まで届くようになっていた。


 その時、橋の向こうで小さな騒ぎが起きた。


 若い娘が、流したばかりの灯籠が岸へ戻ってきてしまったと泣きそうな声を上げている。連れの男は川へ手を出しかけ、橋番の寺男は止めるか手伝うかで迷っていた。


 「通子さん、今の客をお願い」

 「え、恵美子さん?」

 「札は聞き取りの途中です。『待つ』と『行く』のどちらを強くしたいか、そこだけ確認して」


 言いながら、恵美子は売り場を出た。

 橋へ向かう途中で、ちょうど隆冶が逆側から来るのが見えた。眼鏡の縁に灯籠の光がちらちら映る。


 「川へ手を出させないでください」

 恵美子が先に言う。

 「分かっています。あなたは――」

 「戻ってきた灯籠の受け皿を下流側へ。岸へ引っかかる場所があるはずです」


 隆冶は一瞬だけこちらを見た。頷きは短かったが、次の動きは早かった。

 「寺男、竹竿を一本。橋の上は止めろ。娘御、下流の石段へ移動してください」


 泣きそうだった娘は連れに手を引かれ、橋から離れる。戻ってきた灯籠は、岸辺の枝へ軽く当たり、そこでくるりと向きを変えていた。石段の下なら拾い上げずに流し直せる。


 騒ぎそのものはすぐ収まった。

 だが人は、騒ぎの匂いに引かれて立ち止まる。橋の上へ目を向けた者が増え、後ろから押され、細橋の板がみし、と嫌な音を立てた。


 「橋、止めます」

 恵美子が言う。

 「止めます。あなたは売り場へ」

 「板の継ぎ目が浮いています」

 「虎哲を呼びます」


 隆冶の返事は落ち着いていた。落ち着いているから、従ったほうがいい。そう頭では分かるのに、恵美子の足はもう一歩だけ橋へ近づいた。さっき見えた浮きが、本当にただの影だったか確かめたかったのだ。


 その一歩で、板の端が湿りに滑った。


 足袋の裏が、思ったより軽く空を踏む。

 視界がふっと斜めになった。灯籠の明かりが流れではなく空へ浮き、橋板の影がぐらりと持ち上がる。あ、と思った時には、身体が前へ傾いていた。


 「恵美子殿」


 声が、すぐそばで落ちた。


 次の瞬間、右の手首へ硬い熱が来た。

 掴まれた、というより止められた感触だった。引き寄せる力は強いのに、乱暴ではない。体ごと抱き込まれる前に、足の向きを変えられる。恵美子の肩が誰かの胸へぶつかる寸前で、もう一方の手が背中ではなく肘の少し上を支えた。


 「こちらへ」


 それだけ言って、隆冶は橋の中央ではなく、石の欄干に近い安全な足場へ恵美子を導いた。二歩。三歩。足が石の乾いた感触へ戻ったところで、彼の手が離れる。


 離れるのが、早い。


 「立てますか」

 「……はい」


 返事はしたものの、心臓が遅れて大きく鳴り始めた。足を滑らせた恐さもある。だがそれだけではない。手首に残る熱が、妙にくっきりしていた。


 隆冶は確かめるように一度だけ足元を見た。

 「捻ってはいませんか」

 「たぶん、大丈夫です」

 「たぶん、では困ります。二歩、歩いてください」


 言われるままに歩く。石の上をそっと踏みしめると、痛みはない。少し膝が笑うだけだ。


 「……大丈夫です」

 「分かりました」


 そこでやっと、隆冶は息を吐いた。


 ほっとした色は一瞬で消えたが、消えたからこそ見えた。彼はすぐ橋のほうへ振り向き、声を張る。

 「虎哲! 継ぎ目が浮いた。縄を張れ。今ここは止める」

 「おう!」


 虎哲が飛んでくる。寺男も駆け寄る。人の流れは少しずつ橋から離れ、騒ぎはまた、仕事の顔へ戻っていく。ほんの数息前まで自分の手首を掴んでいた人が、もう橋全体の安全へ目を向けている。その切り替わりの早さに、恵美子は何も言えなくなった。


 「売り場へ戻れますか」

 隆冶が問う。

 「戻れます」

 「では、橋には近づかないでください。今夜は石畳側だけ見ていれば足ります」

 「……はい」


 叱られているわけではない。

 だが命じられるより先に、気遣われていると分かってしまう声だった。


 売り場へ戻ると、通子が真っ先に飛んできた。

 「ちょっと、大丈夫?」

 「大丈夫です」

 「ほんとに?」

 「足は捻っていません」

 「そこじゃなくて顔」


 そんなに何か出ているだろうかと思っているうちに、日依が黙って冷やした手拭いを差し出した。恵美子はそれを受け取って、ようやく自分の手首が薄く赤くなっているのに気づく。掴まれた跡ではない。握られた熱が、そこへ残っている気がするだけだった。


 「今の客、どうなりました」

 気をそらすように尋ねると、通子は呆れた顔で息を吐く。

 「ちゃんと確認したよ。『待つ』より『行く』だって。だから見本から少し前向きにずらした」

 「ありがとうございます」

 「礼はあと。顔、まだふわふわしてる」


 ふわふわ。

 そう言われるとその通りだった。筆を持てば戻ると思ったのに、半紙へ目を落としても、灯籠の明かりと眼鏡の縁の光が邪魔をする。


 それでも客は待っている。恵美子は手拭いを膝へ置き、次の客の話を聞いた。祖母へ添える花の色。会えない娘へ持たせる送り札。夏の終わりに王都へ向かう弟へ、兄として何を残したいか。耳を澄ませていくうち、少しずつ自分の呼吸が戻ってくる。


 だが、橋のほうから革靴の音が近づくたび、胸の奥がまた一度だけ揺れた。


 夜半までには、川の灯りはかなり下流へ流れていった。

 見物客も薄くなり、売り場の前のざわめきがようやく会話の高さへ戻る。提灯の油も残り少ない。通子が紐をほどき、日依が乾いた札を箱へしまい、虎哲は橋止めの縄を最後にもう一度確かめに行った。


 恵美子は片づけながら、今日の帳面へ売れた枚数を書きつけていた。

 夜用の札は十九枚。送り札が十一。二枚組が二件。昼の二割増しにしたぶん、手元に残る銭の形も少し変わる。数字へすると落ち着くはずなのに、筆先が妙に軽い。


 「はい、お茶」


 通子が湯呑みを置いた。夏の夜なのに熱い茶だ。汗をかいた夜ほど、冷えを後から入れないほうがいいと、いつだったか虎哲が言っていた。


 「ありがとうございます」

 「で?」

 「何がでしょう」

 「何がでしょう、じゃないでしょ」


 通子は向かいへどっかり座る。

 「橋の上で、年上の監察官に助けられた感想」

 「感想を問われる出来事でしたか」

 「問われるよ。ものすごく」


 恵美子は湯呑みへ口をつけた。熱い。熱いのに、さっきから自分の耳のあたりのほうがもっと落ち着かない。


 「助かりました」

 「うん」

 「それで十分では」

 「十分じゃないの。ああいうの、抱き込んだまま“危なかったですね”ってやる人もいるじゃん」

 「……そういう方も、いるかもしれません」

 「でも隆冶さん、違った」


 通子は机へ肘をつき、妙に真面目な顔になる。


 「落ちる前に止めて、ちゃんと足の向きを戻して、安全なとこまで連れてって、立てるって分かったらすぐ離した。あれ、ずるい」

 「ずるい、ですか」

 「うん。余計なことしないのに、ちゃんと助けるから。年上の人って、ああいう余裕がずるい」


 その一言が、まっすぐ胸へ入った。


 年上の人。

 八つの差を、恵美子は今まで数字としてしか考えないようにしていた。落ち着いている。仕事が早い。感情に流されない。そういうふうに、行いで見ていたつもりだった。けれど通子に言われると、その行いの一つ一つが、年を重ねた人の余裕として急に別の輪郭を持ち始める。


 「私は、別に……」

 「別に、何」

 「橋で転びかけて、驚いただけです」

 「ふうん」


 通子はにやりとした。

 「じゃあ今、売上帳に同じ数字二回書いたのも、驚いただけってことにしとく」

 「え」


 見れば、本当に同じ十九を二度並べていた。恵美子は慌てて帳面を閉じる。通子はとうとう笑い出した。


 「大丈夫大丈夫。誰にも言わない」

 「言っているではありませんか」

 「私にしか聞こえてないもん」


 日依は箱を抱えたまま、少し考えるような顔をした。

 「でも、隆冶さま、手を離すのが早かったですね」

 「日依さんまで」

 「はい。あれは……たぶん、近づきすぎないようにされたのだと思います」


 通子が勢いよく頷いた。

 「そう、それ。そこが余計にずるいの」


 恵美子は返す言葉を失った。


 近づきすぎないように。

 そんな配慮をされたと思うと、さっきよりさらに落ち着かない。抱きしめられなかったことにほっとしたのか、惜しいと思ったのか、自分でも分からないから余計に困る。


 そこへ、戸口の外で足音が止まった。


 三人とも一瞬だけ黙る。

 恵美子は咳払いをして姿勢を正した。


 「……どなたでしょう」

 「今のは分かるでしょ」

 通子が小声で囁く。


 戸は叩かれない。

 代わりに、聞き慣れた声が外から落ちた。


 「隆冶です。片づけの確認をします」

 「どうぞ――いえ」

 恵美子は慌てて言い直した。

 「少々、お待ちください」


 通子が肩を震わせ、日依は俯いている。虎哲まで戻ってきていたらきっと面倒だった。幸い、今ここにいるのは二人だけである。


 恵美子は息を整えてから戸を開けた。


 隆冶は提灯を一つ手にして立っていた。灯りが眼鏡の下半分を淡く曇らせている。


 「お疲れさまでした」

 「お疲れさまでした」

 「橋は今夜じゅう閉めます。明朝、虎哲と確認します」

 「はい」

 「あなたの足は」

 「大丈夫です。痛みはありません」


 隆冶はその返事を聞いてから、ほんの少しだけ頷いた。


 「それなら結構です」


 それだけで去るのかと思ったが、彼は提灯を持つ手をわずかに下ろし、言葉を足した。


 「先ほど、あなたを強く掴みました」


 恵美子の喉が、ひどく小さく鳴った。

 「……はい」

 「痣になるほどではないと思いますが、もし明日、痛みが出たら隠さず言ってください」


 近づかないまま、必要なことだけ言う。

 その距離が、さっき橋の上で離された時と同じで、かえって胸の内側を掻き乱した。


 「助けていただいたのですから、気になさらないでください」

 「気にします」


 静かな声だった。


 「あなたは今、寺の許可を受けた売り場の責任者です。怪我をされると困る」

 「……それは、仕事のうえで」

 「仕事のうえで、まず困ります」


 まず。

 その一語が、湯飲みより熱かった。


 恵美子が答えられずにいると、隆冶はそれ以上踏み込まなかった。踏み込まないくせに、置いていく言葉だけは薄く残る。


 「今夜はもう帳面を閉じてください。字は明朝でも逃げません」

 「はい」

 「では」


 彼は一礼し、ほんとうにそれだけで去っていった。足音が遠ざかるまで、恵美子は戸口に立ったまま動けなかった。


 背後で、通子が長い息を吐く。

 「ほら。ずるい」

 「……どこがですか」

 「“まず困る”のところ」

 「聞いていたのですか」

 「聞こえたの」


 日依は箱を抱え直しながら、やわらかく言う。

 「恵美子さん、今日はもう、よくお休みになったほうがよいです」

 「日依さんまで」

 「だって、字が朝の恵美子さんの字ではありません」


 恵美子は反射的に帳面を隠した。二人の視線があまりに温かくて、返って逃げ場がない。


 その晩、寝台へ横になっても、川の灯りが瞼の裏からなかなか消えなかった。


 流れていく灯籠。

 湿った板の感触。

 手首を止めた硬い熱。

 そして、安全な場所へ着いたとたん、きっぱり離れた手。


 怖かったはずなのに、思い出すたびに胸の奥の別のところがざわつく。

 徳博といた頃にも、誰かが近づく気配へ身構えることはあった。だが今のざわめきは、それとは違う。嫌ではない。むしろ、思い返してしまう自分に困っている。


 通子の言葉が、頭の中で何度も跳ね返った。


 年上の人って、ああいう余裕がずるい。


 「……ずるい、なんて」


 小さく口に出してから、恵美子は布団の端をつかんだ。


 あれは余裕だったのだろうか。

 橋の上で、彼の声は少しだけ低かった。

 手を離した時、息も一度深く落ちていた。

 もし本当に余裕ばかりなら、あんな呼び方はしないのではないか。

 そんなふうに考え始めると、今度は自分のほうが落ち着かなくなる。


 起き上がり、机の上の紙片を一枚引き寄せる。

 眠れぬ夜に、言葉へ逃げ込むのは昔からの癖だ。


 揺れた橋

 離れた熱の

 行方知れず


 書いてから、恵美子はすぐに顔をしかめた。

 「何を書いているの、わたしは」


 こんなもの、人に見せられない。

 見本札にも、売り物にもできない。

 紙片を二つに折り、さらに折って箱の底へ押し込む。なのに捨てることまではできなかった。


 外では、遅く流れた灯籠がまだどこかで川面を照らしているのかもしれない。


 橋よりも揺れていたのは、自分の心のほうだった。

 そのことを認めるまで、恵美子はもうしばらく、寝返りを重ねることになった。



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