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アパートに帰りリビングに戻った。すると弟は部屋の奥の二人掛けのソファーに寝ころんでいた。
「美洋? 寝てる?」
私がソファーへ近づくと、弟は呻き声をあげて上半身を起こした。
白の無地のワイシャツに着替えていた。なぜかズボンを脱ぎ、下はトランクス一枚だった。ソファーの背もたれに紺のスーツの上下が掛けてあった。眼鏡は外していた。
「ああ、お姉。プレゼント買ってきてくれた?」
弟が聞くので、
「いちおう買ってきたよ。なにしてんのあんた」
弟は、はっはっと息を切らしていた。
「うん、きちんとした格好で望結ちゃんと会いたいから、スーツに着替えたんだ。だけどズボンのウエストが入らなくて」
弟は起き上がってソファーに座り、こちらを見て言った。やはり息を切らしている。と――、その左の耳の手前から頬にかけて、赤黒い血管が、枝分かれして皮膚の表面に浮いていた。
私はぎょっと固まった。よく見るとその血管が近くを通っている左眼も、白目が真っ赤に充血していた。
(やっぱりゾンビ化が近づいているんだ)
私は改めて彼の直面している状況の重大さを感じ取った。血管について言おうかどうか一瞬悩んだが、とりあえず言わずにおこうと決めた。
「そう。じゃあ仕事着のチノパンにスーツのジャケットを着て会えば? それでもおかしくはないと思うよ」
そう優しく言った。弟は不安げに、
「そうかな? それでいいのかなあ、正装って。まあでも公的な場ってわけでもないし……。分かった、そうするよ。それでローソンでなに買ってきてくれたの?」
私はエコバッグからプレゼントの入った紙袋を取り出し、弟に示した。
「これ。無印良品の化粧水と乳液と、高めのチョコ。おつりと一緒にここに置いておくね」
私がソファーの前のローテーブルにそれを置くと、弟は紙袋を手に取って中身の感触を確かめた。
「無印の?」
「そう」
「俺あんまり無印好きじゃないんだよね、個人的に」
「……。でも他の化粧品は本当に安いものしか置いてなかったから、仕方ないでしょ」
「チョコも無印の?」
「いや違う。ちゃんとしたブランドのやつだよ。リ、リー、なんだっけな、ブランド名忘れちゃったけど。リ、なんとかのやつ」
「そう。望結ちゃん喜んでくれるかな」
「無いよりはいいんじゃない? 無駄にならないものをと思って選んだんだけど。気持ちは伝わると思うよ」
「……ありがとう。チョコ、暑さで溶けないかな」
弟がそう文句らしきことを呟くので、私は内心いらっとしながら、話題を変えた。
「それで美洋」
思い切って顔の左半面に血管が浮いていることを指摘した。案の定弟はそれに気づいていなかった。私は手鏡を持ってきて彼の顔を映した。
「わ、本当だ。ふうん」
どういう感じ方をしているのか、弟はしげしげ血管の這った自分の顔を眺めていた。そして私に、ファンデーションを塗って血管を隠してほしい、と言い出した。あるゾンビ映画にそのようにして周囲からゾンビ化を隠す場面があるのだという。
私はそれに従って、弟の顔にファンデーションを塗ってやった。左半分だけ塗るとバランスがおかしくなるので、顔全体にファンデーションを塗った。その間も弟は息苦しそうにしていた。思ったより血管は目立たなくなった。
「それから生ハム買ってきたよ。帰ってからほとんど食べてないんだから、食べられたら食べて」
化粧を終えると私はエコバッグから生ハムを出して弟に見せた。
ファンデーションを塗りたくられた弟はソファーに座ったまま生ハムをじっと見た。彼の隣に座っていた私は生ハムをローテーブルに置いた。そしてファンデーションとエコバッグを持って立ち上がった。
「じゃあ私そろそろ藤尾に行く準備するから。シャワー浴びるね」
そう言って彼のことを見ると、弟はまだ生ハムのパックを手に取ってじっと見つめていた。
風呂に入り体と髪を洗って、洗面所で髪を乾かし、ヘアアイロンで髪先にウェーブをつけ、念入りに歯を磨いた。先ほど着ていた服から、更に仕事着(ベージュの細身のスラックス、濃い青の三分丈ブラウス、シンプルな銀のネックレス)に着替えた。メイクをしようと洗面所を出てリビングに入ると、弟がソファーに座ったまま生ハムに手づかみでむしゃぶりついて、ぐっちゃぐっちゃと咀嚼しているところだった。生ハムを手で引きちぎり、噛むと、おいしいのか「うううう」と呻き声をあげる。ひとしきり呻き声をあげると、喉を鳴らして生ハムを飲み込み、また残りのハムを口に入れ、「ううう……」とうなる。
「美洋……」
着替えた服を両手に持った私が思わず呟くと、はっとこちらを向いた。ローテーブルの上の、生ハムの入っていたビニールパックにハムの残りを置いて、
「お姉違うんだ、これは……なんていうかがまんできなくて」
とおどおどして言った。
私はショックを押し隠してなんでもなさそうに言った。
「あんた、皿と箸くらい使いなよ。それと食べ終えたら歯磨きしてね。女性に会うんだから。じゃないと嫌われるよ?」
弟はしゅんとなって、うん、と返事をした。
「じゃあ私メイクして行くから。――もう一度聞くけど、本当にだいじょうぶ? 救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「いやいい。残された時間も少ないみたいだから、病院なんかに行くより最後に望結ちゃんに会いたい」
弟は顔にファンデーションを塗られ顎にガムテープを貼られて、ワイシャツにトランクスという格好でそう神妙に言うのである。すね毛が濃かった。
「分かった。じゃあ私メイクしに部屋行くから」
「うん。じゃあ俺も、これ食べたら部屋で望結ちゃんが来るまで休んでる。なんだかすごくだるいよ。はは」
弟は力なく笑った。
無理に笑い返して、私は部屋に向かった。




