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「それでいったいどういう状況でゾンビに咬まれたりしたわけ」
リビングの食卓の椅子に弟と向かい合わせに座り、私は尋ねた。食卓は四人掛けで、クリーム色のこぢんまりとした木製テーブルだった。弟の席の前に、彼のために私が作り置いていた夕食のおかずが三品載っていた。冷房を点けたばかりのリビングは蒸し暑かった。
「今日、万引き防止週間の一環で、店に警備の人が来てたんだ」
弟が話し始めた。相変わらずの真面目一辺倒な顔をしていた。
「それで、その警備員さんは夜十二時を回った頃に仕事上がった。俺はいつも通り二時の閉店時間に店を閉めて、閉店作業をして上がったんだけど――」
弟は仕事を終えると、店の駐車場に停めてある通勤用の車(ホンダの軽)の中で、ひと休みしたそうだ。仕事の疲れが抜け運転に集中できるようになるまで、十~十五分程度仕事上がりに運転席で休憩をとるのが、弟の習慣になっている。
「で、運転席でスマホ見てたら、運転席のドアが外から『ガンッ』って鳴って。びっくりして窓を見たら、佐藤さん――さっきまで店に来ていた警備員さん――がすぐそこに居たんだ。警備服を着たままだった。帽子は被ってなかったな。
とっくに仕事上がったはずなのに変だな、でも俺に何か用があるんだろう、もしかしたら緊急の用事――万引きとかの――かも知れない、と思ってドアを開けたら、いきなり」
「襲われた?」
「そう。まず顎の下を咬まれて、それから抵抗するために出した左腕。仕事上がりに着替えた私服のTシャツも、すごい力で引っ張られて首元がのびのびになっちゃった。俺は必死で前蹴りを佐藤さんのお腹に食らわして(注:弟は少林寺拳法の有段者である)なんとか車の外に追いやった。すぐドアを閉めて車を発進させて逃げようとした。そしたらさ」
弟はまた額を片手で覆った。これは思い悩んだ時の彼の癖なのだ。一拍置いて手を額から外すと、
「はじめバックしてそれからドライブに入れて、前進したら、『ガンッ』って衝撃が来て。『あ、やった』って思った。佐藤さんを轢いちゃったんだ。よっぽど降りて確認しようかと思ったけど、また襲われたら嫌だったし、そのまま走り始めたんだけどさ……。ふとバックミラーみたら佐藤さんが追いかけてきてたんだよ。轢かれた右? 左? どっちの脚だか忘れたけど、片脚引きずりながら走って追いかけてくるんだよ。道路の脇の街灯の白い光に照らされたその顔の、顔中に赤黒い血管が浮いているのが見えて、それでようやく『これゾンビじゃん!』って分かったんだ」
弟は死ぬ思いで車を加速させ、そのゾンビを振り切って家まで帰ってきたのだそうだ。アパートの駐車場に着くと、まずスマホでニュースをチェックしてゾンビに関する記事を確認した。ゾンビと明記された記事は無かったものの、それと思しき傷害事件のニュースが何件か出てきた。Ⅹもざっと確認した。こちらにもニュースサイトの記事を引用して話題にしている投稿がちらほらあった。それから弟は襟元が伸びて血のついてしまったTシャツを脱ぎ、ひとまず持ってきていた制服のワイシャツに着替えた。数分間車の中に留まって自分の置かれた状況を良く理解し、とにかく姉(私)に報告しようと帰宅した。――とのことだった。
私はリアリティに富む弟の話を聞いて、弟の話が現実であることを改めて納得した。念のためスマホでニュースサイトをチェックし、いくつかのニュースでこの事件に関連すると思われる記事を新たに見つけ、ますます弟が本当にゾンビに咬まれたらしいことを信用した。私はスマホをテーブルに置くと、
「それでさ、今のところ美洋は完全にゾンビ化してるわけじゃないじゃん。その――完全なゾンビになっちゃうまでにはあとどれくらいかかるの?」
弟は顎に手を置いて、少し考えた。
「よく分からないけど、少なくても数時間は時間が残されてるんじゃないかと思う。いろんなゾンビ作品見た限りだと」
「そう。ゾンビになっちゃうのはもう決定なの? なんか、普通じゃんあんた」
「うん、でもちょっと症状らしきものが出てきてるから」
「症状?」
「熱っぽいのと、あと人間を咬んでみたいなっていう衝動がちょっと」
「……そう」
私は若干恐怖を感じた。しかしだからといって「私には咬みつかないでね」などとは言えなかった。弟は何も悪くないのだ。
「やっぱり病院に行かない? もしかしたらワクチンとかあるかも知れないでしょ」
私が言うと、
「嫌だよ病院なんて。どうせ助からないしゾンビ化したらそのあと実験台みたいにされるんだ」
「だからそれはフィクションの話でしょ? ああそれからどうする? 栃木に連絡する?」
「いいよ、こんな時間に。ゾンビ化したら、俺は死んだってお姉からあの人たちには伝えておいて」
「あのね美洋、死んだってことだけ言ったところで、お父さんお母さんが納得するわけが」
「それよりお姉にお願いがあるんだけど」
弟がそう被せぎみに言ってきたので、私はちょっとうれしくなった。ようやくこの暗い会話に、何かポジティブな話題が放り込まれるのではないかと期待したのである。
「なに? なんでも聞くよ、できる範囲で」
弟はすぐには答えず席を立ち、リビングの奥にあるキッチンに行き、大きなフライパンを持ってきた。それを私の前に置いた。
「俺がゾンビになったら、これでお姉が俺を殺して。多分頭にこの縁の部分を振り下ろせば、頭蓋骨が陥没して死ねると思う」
「そんなことできるわけ――」
「お願い。お姉にやってほしいんだ。ゾンビになって誰かを襲うのなんて、俺絶対嫌だよ」
「……」
「頼んだ」
「……分かった」
お通夜みたいになった。弟は自分の左隣の椅子の座面にフライパンを置いた。
私は気を取り直して、
「なんかさ、最後にやりたいことないの? 残された、あと何時間かの間に」
と尋ねてみた。
「うん、実はもう一つお願いがあって。それでお姉を起こさせてもらったわけだけど」
弟はまつ毛の長い目を伏せがちにして言った。表情が読み取りづらかった。いつだって弟はたまに何かわがままを言う時、気まずそうに目を伏せて無表情になる。
「なに?」
「うん。……」
「……」
「いや、最後に朝まで酒でも二人で飲みたいなって」
私はついていた頬杖から顔をずるっと滑らせた。
「ええ? 本当にそれが最後の願い?」
「うん、そう。フルタイムで働き出してから、体調のこと考えて思いっきり飲めなかったから。時間がなかなか合わなくて、お姉ともしばらく飲めてないし。だめかな?」
弟は苦笑いした。私は胸の辺りがじわっと熱くなるのを感じた。
「いいよ。飲むか」
この時にはまだ、弟はともかく自分は飲酒をほどほどにして、徹夜のあと昼までに原稿を完成させればいい、絶対に入稿を遅らせたりはしない、などと考えていたのである。




