1-2
私はフリーズした。弟も言葉を継がず、私たちの間に気の抜けた沈黙がしばらく漂った。
意味が分からなかった。弟は決して冗談を言うタイプではない。それもわざわざ私を深夜にたたき起こして怒りを買ってまで、くだらない冗談を言うような人間ではないのである。
「えっと――、それは……、うん、ごめんちょっとなに言ってるか分からないんだけど」
私は起こされた苛立ちで引きつった半笑いを片頬に浮かべて、ようやくそう言った。顔が黒々としている弟は、
「うん、だからゾンビに咬まれた」
「うん、それは分かった」
「……」
「……」
弟は働いているレンタルDVDショップの制服を着ていた。制服は青のチェックの半袖シャツだ。その袖から出ている左前腕を彼は胸の高さまで上げて、私に見せてきた。
「ほら、ここ。歯形がついてるでしょ」
よく見えなかったので私は部屋の電気を点けた。そうして弟が見せてきている前腕を改めて眺めた。確かに、人の歯形と思える楕円形の痕があり、青黒く傷となって血がにじんでいた。
「……本当だ」
私はそう確認しながら、(え、でもだからゾンビってなに?)といぶかしんだ。弟はそうして、
「それから顎の下も咬まれた。ほら」
と言うと顔を上に背けてその部分を私に見せてきた。顎と喉の間と言えばいいのか、顎下の柔らかい部分に数センチの傷がありやはり青黒くあざのようになっている。こちらは傷が深く一部肉が裂けて見えた。
「うわ。だいじょうぶ? けっこうひどいじゃん。救急車呼ぶ?」
私が言うと、弟は顔をこちらに戻して、
「いやいい。どっちみちもうゾンビになるのは決まってるし」
と無表情で言った。
「あのさ」
「うん?」
「私、あんたの言ってるそのゾンビっていうのがよく分からないんだけど」
「え、お姉知らないの、ゾンビ? ジョージ・A・ロメロっていう人が作った映画が始まりで、有名な作品だと『バイオハザード』とか『ウォーキングデッド』とかに出てくる――」
私はまた例の長話が始まるぞと思ったので、弟の話を断ち切った。
「いや分かる。分かるけどそれはフィクションの中の話でしょ? それにあんた別にゾンビになってないじゃん。人間のままじゃん。咬まれてはいるけど」
弟は額に手を当てて、はあーっとため息をついた。
「そこ分からない? お姉小説家目指してるんだったら、ゾンビくらい押さえとかないとね。要するにあれだよ、ゾンビに咬まれて感染してからゾンビ化するまで、タイムラグがあるでしょ。いわゆる潜伏期間。『アイアムアヒーロー』に出てくる比呂美とか、『感染家族』の感染者たちとか。あの状態。まあでも比呂美は潜伏期間中っていうか半ゾンビみたいな状態だったから、厳密には――」
とめどなくなった弟を私はまた遮った。
「ああ、分かった分かった。それでどうする? 病院行く? 傷害事件になるんだろうから、警察にも通報しようか」
弟はちょっと黙って、それから頭を軽く左右に振り、言った。
「やれやれ」
そうして弟は、仕事着にしているユニクロの黒のチノパンのポケットからスマホを取り出した。しばらく何かそれを操作していたが、やがて私にスマホに表示されたWEB記事を見せてきた。
「埼玉県さいたま市で傷害事件 複数名の男女が暴徒化 新種のウィルス感染の可能性」
そう書いてある見出しのその記事には、「さいたま市新宮区において、暴徒と化した三名の男女に数名の市民が咬みつかれるなどし、怪我を負った」「加害者たちが暴徒化した原因は、都内の医療研究機関から持ち出された試験中の新型ウィルスの感染症状によるものと思われる」「加害者三名はいずれも駆け付けた警察官により現行犯逮捕された。被害者の数は現在四名確認されているが、今後増える可能性がある」などといったことが書かれていた。
私はその記事を二度読みした。ようやく弟の主張していることを若干受け入れられた。
「分かった?」
弟が言った。
「うん。とりあえず――リビングで詳しく聞くよ。話して」
私はそう返した。




