4 ゾンビ、豚を食らう
そばまで近づいて気づいたのだが、その女性は遠目で見た印象よりいくぶん若かった。恐らく六十歳に届かない年齢で、「おばあさん」という呼称は不適切、「おばさん」と言った方が適当だと思えた。
ひどく小柄で、ジャージの長ズボンに長靴、上は淡いピンクのTシャツを着ていた。少し腰が曲がっていた。作業用帽子の下に見える顔は輪郭が小さく、化粧をしていなかった。タヌキ顔で目がくりくりし、田舎で永くのんびり生活しているとこうなるのだろうと思わされる、気の抜けた表情をしていた。皺はそれほどないが目の下のたるみが濃く大きい。その目は私を見て明らかに警戒していた。
私はこれ以上無いほどにこやかに、これまで取材で培ってきたコミュニケーション能力をフルに使って、彼女に話しかけた。
「おはようございます。少しよろしいでしょうか? あの、こちら笹井さんのお宅で間違いありませんよね?」
返答はなかった。かまわず私は続けた。
「私、一ノ瀬です。商店街の佐久間金物屋さんの、向かいの一ノ瀬の娘です」
おばさんは二回のんびりと瞬きをした。瞬きをしたことでようやく私の言ったことの意味が脳に浸透したようで、
「ああ、ああ……」
と返事にならない感嘆の声をあげた。
「おはようございます。朝早くに突然すみません」
私はどこまでもまともに見えるよう口角をきゅっと上げていた。
「ああ、一ノ瀬さんのとこの?」
「はい。一ノ瀬真空と言います」
「ああ、覚えていますよ。こんな綺麗になってえ」
そうおだてて笹井のおばさんはへへっと笑った。私の方にはおばさんの記憶は正直無かったが、ようやく得られた好感触に、勢いを得て畳みかけた。
「いえいえ、ありがとうございます。それで、今日はお願いがあって来たのですが」
「お願い」
「はい。昔私の弟が小さかったころ、笹井さんの娘さん、望結さんとよく遊ばせてもらっていたのは覚えてらっしゃいますか」
おばさんは覚えている、と言った。私は今後の交渉がしやすくなるように、いかに当時弟が望結さんと仲が良かったかを語った。おばさんはその通りだと相づちを打ってくれた。
「それで、その美洋なのですが、難しい病気になってしまって」
「へえ、だいじ(栃木の方言で『だいじょうぶ』の意味)なんね?」
「はい、それが……末期のすい臓がんで。もう命がいつまで持つかっていう状態なんです」
「あんやあ」
「最後は家で過ごしたいという本人の希望もあって、今私と住んでいる家に居るのですが、昨日容体が悪化して今日の午後にも病院に再入院するんです。多分もう病院から出られることはないでしょう」
ここで私はちょっと話を切り、出てもいない涙を拭うふりをして見せた。
「それでですね、入院する前に弟がどうしても最後に望結さんに会いたいって言ってるんです」
「望結に?」
「ここだけの話」
私はわざと声を低めた。おばさんはつられて身を乗り出してきた。
「美洋は望結さんが初恋の人なんだそうです」
「……あんやあ!」
予想以上の良い反応だった。私はどれほど弟が望結さんを健気に想っていたかを説明した。今もずっと望結さんを好きでいる、という事実は伏せた。
「大変ご迷惑なのは承知でお願いしたいのですが、今日これから望結さんに、私たちの住む新宮の家まで来ていただいて、ほんの少しでいいですから美洋に会ってやってくれないか、というお願いなんです」
「はあ、今からですか?」
「望結さんはご在宅じゃないんでしょうか? お仕事ですか?」
おばさんは彼女の斜め右後ろにある二階建てのクリーム色の家を振り見た。
「いんや、おります。ただ、この時間はまだ寝ていると思うんで……」
渋り始めた。私はここが正念場だと思った。取材時にインタビュイ―に無理なお願いをし続けてきた交渉力を、今こそ総動員するべきだと思った。
「お願いします!」
深々と頭を下げた。
「弟は、本当にもうあと何日かという命で……。どうしても望結さんに会いたいと、言っているんです」
「ああ、一ノ瀬さん頭上げて。……分かりました、ちょっと起こして、とにかく娘に聞いてみますから」
おばさんはおろおろして私に頭を上げさせた。私はありがとうございます、ありがとうございます、としつこく二度またお辞儀をした。――今彼女から取った言質をひっくり返されないように。




