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不老長寿の久遠と無償の愛  作者: 月見
エリーズ・モロー編 あなたに贈る一皿

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2話 父の味を追いかけて

「塩を足す前に、もう一度味見をしろ」


「……さっきもしたわよ」


「だったら、今の味を説明してみろ」


挿絵(By みてみん)


 西暦1885年、パリ。


 父の店が再開してから数日が過ぎ、エリーズは閉店後の厨房で修業を続けていた。


 今夜の課題は、仔牛肉のブランケットに使う白いソースだった。


 鍋の中では小麦粉とバターを使ったソースが静かに煮えている。そこへ仔牛肉の煮汁を加え、味を整える。


 何度も父が作るところを見ていた料理なのに、いざ自分の手で作るとなると難しい。


「……少し味が薄い気がするわ」


「何が足りない?」


「塩、かしら」


「だから、塩を足す前に確かめろと言っている」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「お前が作るんだ。まずは自分で考えろ」


 エリーズはむっとした。


 父なら、もう少し分かりやすく教えてくれたはずだ。


 アルマンは何でもすぐには答えてくれない。何を尋ねても、まずは自分の考えを言えと返される。


「……意地悪ね」


「料理がうまくなりたいんじゃなかったのか?」


「なりたいわよ!」


「なら、鍋を見ろ」


 エリーズはもう一度ソースを味わった。


 ただ塩気が足りないのではない。肉の煮汁の風味が弱く、全体の味がぼやけている。


「……煮汁の味が足りないのかも」


「そう思うなら、どうする?」


「煮汁を少し加えて、味を確かめる」


「やってみろ」


 エリーズは慎重に調整した。


 もう一度味見をすると、先ほどより風味が豊かになっている。


「……あ、美味しくなった」


「そうだろうな」


「最初から教えてくれればよかったのに」


「自分で分かったなら、次は俺に聞かずに済むだろう」


 エリーズは言い返せなかった。


 悔しいが、確かにそのとおりだった。


 


 それからというもの、エリーズの毎日は忙しくなった。


 朝は厨房の掃除から始まり、野菜の下ごしらえ、食器の準備、仕込みの手伝いと仕事が続く。


 客が来れば料理を運び、皿を下げ、洗い物をする。


 ようやく店が閉まれば、今度は自分の修業が始まる。


 ソースを焦がしてしまう日もあれば、肉を煮込みすぎる日もあった。せっかく仕上げた料理をアルマンに試食してもらい、最初からやり直すことも珍しくない。


「料理長、今日は火の加減を変えてみたいの」


「何のために?」


「昨日より肉を柔らかく仕上げたいから」


「なら、やってみろ。ただし、結果を確かめろよ」


 アルマンは、エリーズが自分で理由を説明できるときには、試すことを許してくれた。


 失敗すれば叱られる。だが、成功したときは、その調理法のどこがよかったのかを教えてくれる。


「料理長って、本当に意地悪よね」


「そうか」


「もう少し優しく教えられないの?」


「料理がうまくなるのと、優しくしてもらうのと、どっちがいい?」


「……料理がうまくなることよ」


「なら、手を動かせ」


 エリーズは文句を言いながら鍋に向き直った。


 それでも、不思議なことがあった。


 アルマンの指摘どおりに調理を見直すと、確かに料理が良くなっていくのだ。


 以前は違いの分からなかったソースの濃さも、少しずつ舌で確かめられるようになった。


 肉の状態を見て火の加減を変えることも覚えた。


 ただ父の手順を真似していた頃より、料理を作っているという実感があった。


 けれど、肝心の父の味には届かなかった。


 


 西暦1886年の冬。


 18歳になったエリーズは、厨房の仕事にもようやく慣れてきた。


 店はすっかり以前の賑わいを取り戻していた。アルマンの料理を気に入る常連客も増え、厨房は毎日のように忙しい。


 ある日の昼、突然アルマンがエリーズを呼んだ。


「おい、エリーズ。今日の付け合わせはお前が作れ」


「え?」


「小玉ねぎの仕上げだ。いつも練習しているだろう」


「で、でも……お客さんに出すの?」


「当たり前だ。練習だけして一生終わるつもりか?」


 エリーズは思わず笑顔になった。


「やります!」


「返事はいいから、さっさと取りかかれ」


 初めて客に出す料理の一部を任された。


 嬉しくて仕方がなかった。


 ところが、いざ鍋を前にすると、いつもどおりに手が動かない。


 焦って火を強め、慌てて調整する。時間が気になって、何度も時計を見てしまう。


「何を慌てている」


「だって、お客さんを待たせちゃう!」


「焦ったら早く仕上がるのか?」


「……いいえ」


「だったら鍋を見ろ。客に出せるものを作れ」


 アルマンの言葉で、エリーズはようやく落ち着きを取り戻した。


 小玉ねぎの状態を確かめ、慎重に仕上げる。


 料理長が一口味見をした。


「……よし、使える」


「本当に?」


「二度言わせるな。皿を用意しろ」


 エリーズが仕上げた小玉ねぎは、アルマンの料理に添えられて客の元へ運ばれていった。


 彼女は厨房から客席の方を気にしてばかりいた。


 食べてもらえただろうか。美味しいと思ってもらえただろうか。


 結局、客から特別な感想が届くことはなかった。


 それでも、食べ終わった皿が戻ってきたとき、エリーズは嬉しくてたまらなかった。


挿絵(By みてみん)


「料理長! ちゃんと食べてもらえたわ!」


「そうか。じゃあ、次の仕込みを頼む」


「もう少し喜んでくれてもいいじゃない!」


「一皿出したくらいで浮かれるな。これから何百皿、何千皿と作るんだぞ」


 相変わらず厳しい。


 けれど、エリーズは笑っていた。


 父が生きていた頃、自分は料理を作る側になりたいと何度も思った。


 その夢に、ほんの少し近づけた気がした。


 それからアルマンは、少しずつエリーズに仕事を任せるようになった。


 付け合わせから始まり、簡単な前菜、ソースの仕込みへと仕事が増えていく。


 失敗すれば当然叱られる。しかし、できるようになった仕事を理由もなく取り上げることはなかった。


 エリーズも、自分が厨房の一員になりつつあることを感じていた。


 


 そんなある日、久遠が店を訪れた。


「あら、久遠! 久しぶりね」


「こんにちは、エリーズ。元気そうだね」


「もちろんよ。最近はお客さんに出す料理も任せてもらえるようになったの!」


「それはすごいね」


 久遠は嬉しそうに笑った。


「今日は何を食べようかな」


「私の料理を食べてほしいわ!」


「いいの?」


「ええ。料理長に頼んでくる!」


 エリーズは厨房へ駆け込み、アルマンに頼み込んだ。


 アルマンは少し考えてから、久遠に出す一皿を彼女に任せた。


 エリーズは張り切って調理した。


 何度も練習した仔牛肉のブランケットである。


 肉の火入れも、ソースの仕上げも、以前とは比べものにならないほど上達していた。


 それでも、父の料理と同じ味にはならない。


 久遠なら、自分の成長を分かってくれるだろうか。


「お待たせ、久遠!」


「ありがとう。美味しそうだね」


 久遠は一口食べた。


 エリーズは期待を込めて、その表情を見つめる。


挿絵(By みてみん)


「どう?」


「うん。美味しいよ」


「本当?」


「肉も柔らかいし、ソースも丁寧に作っているね」


 エリーズは嬉しくなった。


「前よりずっと上達したと思うわ!」


「そうだね。きっと、たくさん練習したんだろうね」


「もちろん!」


 久遠はもう一口食べる。


 エリーズは少し迷ってから尋ねた。


「……ねえ、久遠」


「何だい?」


「お父さんのブランケットに、近づいたかしら?」


 久遠は料理を見つめた。


 そして、静かに答える。


「レオの味とは、まだ違うかな」


「……そう」


 エリーズは肩を落とした。


 久遠は慌てて慰めることはしなかった。


「でも、前よりずっと美味しくなっているよ。これは本当だよ」


「ありがとう。でも、私はお父さんの味を作れるようになりたいの」


「うん。エリーズがそれを大切にしていることは分かっているよ」


「久遠は、お父さんの料理をよく食べていたんでしょう?」


「そうだね。ずいぶん昔から食べていたよ」


「だったら、何が違うのか教えてくれない?」


 久遠は少し困ったように笑う。


「私に分かるのは、食べたときの味の違いくらいかな」


「それでもいいわ!」


「でも、それをどう作るかは料理人の仕事だよ。私には、レオみたいに上手にはできないからね」


 久遠はエリーズの皿に目を落とした。


「今の料理にも、いいところがたくさんあると思うけれどね」


「……でも、父の味じゃないわ」


 エリーズは小さく呟いた。


 久遠はそれ以上、何も言わなかった。


 


 西暦1887年。


 19歳になったエリーズは、厨房でも頼りにされるようになっていた。


 父の事故から二年。


 もう、ただの見習いではない。


 アルマンの指示を受けながら、客に出す料理を一人で仕上げる機会も増えた。


 それでも、父のブランケットを再現する研究だけは続けていた。


 何度も作り直し、記憶と比べ、調味料の量を変える。


 うまくいかない日は、父が使っていた古い調理道具を眺めて考え込んだ。


 父はどうしてあんなに簡単に作れていたのだろう。


 どこが自分と違うのだろう。


 ある日、長年店に通っている常連客がやってきた。


 年配の男性で、レオが生きていた頃からブランケットを好んで注文していた人物だった。


「ここのブランケットを食べると、昔を思い出すよ」


 客の言葉を聞き、エリーズは胸が高鳴った。


 父の料理を覚えている人がいる。


 自分と同じように、あの味を懐かしんでいる人がいるのだ。


 その夜、エリーズはいつも以上に熱心に試作を続けた。


 肉の煮込み加減を変え、ソースの濃さを調整し、記憶にある香りに近づけようとする。


 何度目かの試作で、ようやく納得できる味になった。


「……これよ!」


 エリーズは嬉しくなり、アルマンを呼んだ。


「料理長! ちょっと食べてみて!」


「またブランケットか」


「今度は自信があるの。きっと父の味に近づいたわ!」


 アルマンは皿を受け取り、一口食べた。


 エリーズは胸を高鳴らせる。


 今までで一番うまくできた。少なくとも、そう信じていた。


「……確かに、腕は上がったな」


「でしょう!」


「肉の火入れも悪くない。ソースも以前よりまとまっている」


 エリーズは笑顔になった。


「じゃあ、父の味に近づいたのね!」


「……お前は、それしか考えていないのか?」


 アルマンの声が少し低くなった。


「え?」


「この皿を誰に食わせるつもりだ?」


「もちろん、お客さんよ」


「だったら、その客にどんな料理を食わせたい?」


「父のブランケットよ!」


「……そうか」


 アルマンは皿を置いた。


「お前の料理には、まだなっていないな」


 エリーズは眉をひそめた。


「どういう意味?」


「腕は上がった。それは認める。だが、お前はまだレオの味を追いかけているだけだ」


「それの何が悪いの?」


「俺は悪いとは言っていない。ただ、これがお前の料理なのかと聞いている」


 エリーズは戸惑った。


 自分の料理。


 そんなことは考えたことがなかった。


「父の味を残すために、私はずっと練習してきたのよ」


「ああ。知っている」


「だったら、どうしてそんなことを言うの!」


「お前が料理人だからだ」


 アルマンは静かに答えた。


「レオの娘だからじゃない。今ここで料理を作っているのは、お前だろう」


「……それは、そうだけど」


「だったら、いつまでもレオの背中ばかり見ているな」


 エリーズは何も言えなかった。


 父の背中を追いかけることが、そんなにいけないことなのだろうか。


 父の味を残したいだけなのに。


「……料理長には分からないわ」


「そうかもしれんな」


 アルマンは否定しなかった。


 それが、かえって悔しかった。


 


 その晩、エリーズは一人で厨房に残った。


 目の前には、自分が作った仔牛肉のブランケットがある。


 食べれば美味しい。


 二年前の失敗作とは比べものにならない。


 客に出しても恥ずかしくない料理になっていた。


 それでも、アルマンは認めてくれなかった。


「……私の料理、か」


 エリーズは呟く。


 父が作っていた料理を再現したい。


 それが自分の願いだった。


 しかし、アルマンが言うように、自分はただ父の料理を真似しているだけなのだろうか。


 父は、あのブランケットをどんな思いで作っていたのだろう。


 幼い頃の記憶をたどる。


 父はよく客の顔を見ていた。


 料理を運んだ後、客がどんな表情で食べているのか気にしていた。


 常連客の好みを覚え、味付けを少し変えることもあった。


 だが、それがどういう意味なのか、今のエリーズにはまだ分からなかった。


「お父さん……」


 返事はない。


 父が使っていた厨房は、今ではアルマンが取り仕切っている。


 それでも、父の料理を受け継ぎたいという気持ちは変わらなかった。


 エリーズはもう一度、自分の料理を口に運んだ。


 美味しい。けれど、父の味ではない。


 そして、アルマンの言うように、自分の料理でもないのかもしれない。


「……じゃあ、私は何を作ればいいの?」


 答えは見つからなかった。


 ただ一つ分かっているのは、もっと料理がうまくなりたいということだけだった。


 エリーズは残ったブランケットを片づけ、翌日の仕込みを始めた。


 父の味を追いかける日々は、まだ終わりそうになかった。

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