1話 父の店を守りたい
仔牛肉の煮える匂いがすると、エリーズはどうしても足を止めてしまう。
学校の帰りに店へ立ち寄り、厨房の扉を開けたとたん、その匂いが鼻をくすぐった。
「ただいま、お父さん」
「おう。手を洗ったら、そこの小玉ねぎを頼む」
「帰ってきた娘への言葉が、それ?」
「おかえり。で、小玉ねぎだ」
レオ・モローは鍋から目を離さずに答えた。エリーズは頬を膨らませたが、結局は笑いながら袖をまくった。
西暦1885年、パリ。17歳のエリーズは中等教育の卒業を心待ちにしていた。
卒業すれば父のレストランで正式に働ける。今も放課後は店を手伝っているが、皿洗いや下ごしらえばかりだ。それでも父と同じ厨房に立てるのが嬉しい。
「今日はブランケット?」
「ああ。仔牛肉がよかったからな」
大鍋では仔牛肉が柔らかく煮え、レオは別の鍋で白いソースを仕上げていた。
マッシュルームと小玉ねぎを添える、エリーズが幼い頃から好きだった料理だ。飾り気はないのに、父が作ると特別な味がした。
「ちょっとだけ味見してもいい?」
「さっきも食っただろう」
「さっきは煮汁。今度はソースよ」
「料理人になりたい娘の言うことか、それは」
呆れた顔をしながらも、レオは小さな匙にソースを取って差し出した。
エリーズは口に含み、目を細める。肉の旨味を包み込む濃厚な味。少し塩気が強い気もしたが、仔牛肉と合わせればちょうどいいのだろう。
「やっぱり、お父さんのが一番ね」
「まだほかの料理人の腕をろくに知らんくせに」
「知ってるわよ。お父さんのが一番だってことくらい」
レオは笑った。自慢げな笑顔ではなく、どこか照れくさそうな笑顔だった。
「だったら、お前もいつか俺よりうまいのを作ってみろ」
「もちろん。そのうち、お父さんを厨房から追い出してあげる」
「大きく出たな。まずは小玉ねぎを焦がさず仕上げてみせろ」
エリーズは鍋に向き直った。
父は厳しいが、失敗すれば必ず手元を見せて教えてくれる。いつか父と肩を並べて客を迎える。それが彼女の夢だった。
その日の夕方、常連客がブランケットを注文した。
エリーズは皿を運びながら、客が最初の一口を食べる様子をそっと見守った。
「やっぱり、レオさんのブランケットはいいね」
「ありがとうございます!」
「君も料理人になるんだったかな?」
「ええ。いつか父を追い抜いてみせます!」
客が楽しそうに笑い、厨房にいたレオも苦笑した。
「その前に、明日の仕込みを覚えてもらわんとな」
「もう、お父さんったら!」
店には客の笑い声が響いていた。
エリーズにとって、それはいつまでも続くはずの、ありふれた日常だった。
それから数日後の午後、いつもより早く授業が終わった。
エリーズは鞄を抱えて石畳を急いだ。今日は父に頼まれた仕込みを先に終えて、驚かせてやろう。そう考えながら角を曲がった。
次の瞬間、腹の底を殴られるような轟音が響いた。
空気が震え、窓ガラスが砕け散る。通りの人々が悲鳴を上げて身を伏せた。エリーズの頬を熱い風がかすめ、手から鞄が落ちる。
彼女は音のした方を見た。
父の店だった。
店の正面から黒い煙が噴き出し、窓枠が歪んでいる。入口の扉は外れ、見慣れた看板が傾いていた。
「……お父さん?」
誰かが火事だと叫び、別の誰かが消防を呼びに走る。エリーズは鞄を拾うことも忘れ、店へ駆け出した。
「お父さん! どこ!」
入口から熱気が押し寄せる。煙で目が痛み、むせた。それでも一歩、また一歩と厨房の方へ進む。壁が崩れ、床には割れた皿が散らばっていた。
昨日まで自分が磨いたカウンターさえ、どこにあるのか分からない。
「お父さん! 返事をして!」
奥の方に人影が見えた気がした。手を伸ばそうとしたところで、背後から強く腕をつかまれる。
「駄目だ、戻れ! 崩れるぞ!」
「離して! 父が中にいるの!」
男の腕を振りほどこうとしたが、煙を吸い込んで膝が折れた。外へ運び出されたエリーズは、咳き込みながら叫んだ。
「お願い、父を助けて! まだ中にいるの!」
やがて父が運び出された。
エリーズは駆け寄ったが、レオは目を開けなかった。名前を呼び、手を握り、何度も揺すった。
父の掌は、もう温かくなかった。
誰かが静かに首を横に振る。
「そんなの……嘘よ」
さっきまで、帰ったら何を手伝おうかと考えていた。今朝も父はいつものように店へ向かった。
明日も明後日も、その先も、あの厨房にいるはずだった。
「お父さん、起きて。私、まだ何も……」
言葉の続きは声にならなかった。
事故の原因は、店内で漏れたガスへの引火だったという。
葬儀の日、訪ねてきた人々の言葉をほとんど覚えていない。ただ、誰も父を連れ帰ってはくれなかった。
しばらくして、ようやくエリーズは店の跡に立った。
火災で傷んだ壁、失われた調理器具、煤けた天井。厨房だった場所に踏み込むと、足元で陶器の破片が音を立てた。
修理費用を知らされ、耳を疑った。設備を買い直し、食材を仕入れ、従業員を雇う金も要る。
17歳の彼女には、経営を引き継ぐための手続きさえ難しかった。
「売りません」
「ここは父のお店です。私が続けます」
だが、どうやって続けるのかと問われると答えられない。
父の料理を知っているつもりだった。しかし、父のように作れるかと聞かれれば、胸を張れない。店を経営するために何が必要かも、何一つ分かっていなかった。
店に残された売上帳を開いても、支払いの項目が並ぶばかりで、どこから手をつければよいのか分からない。
従業員たちにも生活がある。いつまでも再開を待ってもらうわけにはいかなかった。
父が一人でどれほど多くのことを引き受けていたのか、失って初めて思い知らされた。
ある夕方、エリーズは壊れた厨房の隅に座り込んだ。
拾い上げた小さなソース鍋には、取っ手が一つ残っていた。
「……お父さん。どうしたらいいの?」
悔しくて、涙が落ちた。店を守りたいという気持ちだけでは、扉一枚直せない。
「エリーズさん、だね」
背後から声がした。
入口に東洋人の少年が立っていた。自分より年下に見える中性的な顔立ちで、煤けた店の中でも不思議なほど落ち着いている。
「……お客さん?」
「うん。以前、何度かレオの料理を食べに来たんだ。覚えているかな」
そういえば、父がこの少年と親しげに話していたことがある。
頻繁ではなかったが、父は彼を見かけると嬉しそうだった。
「伊奈久遠というんだ。レオとは古い友人でね」
「父の……友人?」
「ひどい事故だったね。レオのことは本当に残念だった」
「店を買いたいのなら、お断りします」
「買いたい、というのは少し違うかな」
「どう違うんですか」
「君がこの店を続けたいなら、手伝わせてもらえないかと思って」
「何のために?」
「レオのため。それから、君のためにも」
「そんな理由で、いくらかかるか分からない店を助けるんですか?」
「そうだね。納得しにくいよね」
久遠は彼女の疑いを否定しなかった。
「私が店を買い取って修復する。人も集めて営業を再開する。君は学校を卒業したら、ここで料理を学べばいい」
「それじゃ、父の店はあなたのものになるじゃない!」
「今はね。でも、君から取り上げたいわけじゃない。君が自分で店を背負えるようになるまで、預かるつもりだよ」
あまりに都合のよい話だった。
少年の姿で経営者のような話をすること自体、奇妙だった。父との関係を確かめることもできない。
「どうして、そこまで……」
「昔、レオが料理人になりたいって話してくれたことがあったんだ。嬉しそうだったよ。自分の店を持ったときもね」
久遠は壊れた厨房を見渡した。
「レオの夢がここで終わるのは、私も寂しいんだ」
信じていいか分からない。それでも、店を残す道が目の前にあった。
「……私は、ここで料理を作りたいんです」
「うん」
「父の店を、なくしたくない」
「分かった」
久遠は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、一緒にやってみようか」
それから店の修復が始まった。
職人が煤けた壁を塗り直し、厨房に新しい設備が運び込まれる。
久遠は契約や支払いを手際よく進め、従業員を集めた。外見に驚いた人々も、彼の仕事ぶりには口を挟まなかった。
エリーズは毎日のように店へ通い、できることを手伝った。
新しい調理台が運ばれた日は、何度もその表面を撫でた。父が使っていたものとは違う。それでも、ここでもう一度料理を作れるのだと思うと、胸がいっぱいになった。
エリーズも予定どおり学校を卒業した。
父に見せるはずだった証書を胸に、翌日からは店で働けるのだと自分に言い聞かせた。
再開したレストランでは、料理長としてアルマン・デュヴァルという男が迎えられた。
「お前がエリーズか」
「はい。レオ・モローの娘です」
「それは聞いている。包丁は使えるか」
「ええ、父に教わりました」
「皿洗いは?」
「……できますけど」
「なら、まずそれだ」
父の店で料理を教わっていた自分が、また皿洗いから始めるのか。
「私、料理もできます」
「客に出せる料理が作れるかどうかは、俺が決める」
アルマンはそれだけ言うと、調理場へ戻ってしまった。
不満を訴えたエリーズに、久遠も穏やかに言った。
「エリーズ。店の娘だからって特別扱いをしてもらうのは、レオも喜ばないと思うよ」
「……分かってるわ」
厨房ではアルマンの指示が飛び交う。エリーズは皿を洗い、野菜を刻み、調理台を拭いた。
父と立っていたときより、厨房が遠い場所になった気がした。
それでも店は客を迎えた。
再開初日の夜、エリーズは入口の灯りを見上げる。父の看板が戻り、人々が食事を楽しんでいる。
それが嬉しくて泣きそうになった。
しかし、一つだけ喜べないことがあった。
料理の味が違うのだ。
アルマンの料理は美味しく、客の評判もよかった。経営も軌道に乗り始め、彼の腕前は認めざるを得なかった。
だが、エリーズが口にしたブランケットは、父のものとは違っていた。
肉の柔らかさも、ソースの香りも、調味の加減も違う。
決して不味くはない。むしろ上等な一皿だった。それでも、幼い頃から慣れ親しんだ味ではなかった。
「……料理長」
「何だ」
「これ、父の料理と違います」
「当たり前だ。俺はレオじゃない」
「でも、ここは父のお店です。父の料理を食べたくて来る人だっているのに」
「俺の料理を食いに来る客もいる。今日出した皿は残っていたか?」
「……いいえ」
「なら、何が問題だ」
「父の味がなくなってしまうわ!」
「亡くなった料理人の味にこだわって、店が潰れたらどうする。懐かしさだけじゃ客は腹いっぱいにならん」
店を続けるための言い分だとは分かる。
けれど、あの味まで消えてしまったら、何のために店を残したのだろう。
「私は……父の店を守りたかったのに」
「だったら、まず仕事に戻れ。話はそれからだ」
久遠が店を訪れたのは、その翌日だった。
「久遠。料理長をどうにかして!」
「どうしたの、そんなに怒って」
「父の料理を作ってくれないの。料理長の味は確かに美味しいわ。でも、あれじゃ父のお店じゃなくなる!」
久遠はすぐには答えず、エリーズの話を最後まで聞いた。
「アルマンの言い分も分かるよ。お店が続いていくことは大切だからね」
「……久遠も料理長の味でいいって言うの?」
「そうは言っていないよ。レオの料理を残したいというエリーズの気持ちも分かる」
「だったら……」
「エリーズが作ればいいんじゃないかな」
「……私が?」
「うん。あの味を覚えているのは君も同じだろう? だったら、もう一度作ってみようよ」
「簡単に言わないで。父みたいに作れたら、とっくに……」
エリーズは言葉を止めた。
自分は父の味を誰かに作ってもらおうとしていた。
残したいと言いながら、自分の腕で残すことを考えていなかった。
「営業時間外なら厨房を使えるよう、アルマンに頼んでみるよ。ただし、営業の邪魔はしないこと。材料も無駄にしないようにね」
「……本当に、使わせてもらえる?」
「聞いてみよう。厳しい人だけど、料理を学びたい人を追い払うとは思わないな」
久遠は笑った。
「レオの味を覚えている君が、作ってみる。それはきっと、レオも喜ぶよ」
「分かった。私、やってみる」
その夜、閉店後の厨房にはエリーズとアルマンだけが残った。
エリーズは仔牛肉のブランケットに挑んだ。
父の手順も香りも覚えているつもりだったのに、鍋に向かうと分からないことばかりだった。
煮込んだ肉は思ったより硬い。白いソースは重たく、口に残る。小玉ねぎも火を通しすぎて、食感が失われていた。
「……こんなはずじゃ」
アルマンが黙って近づき、皿から一口食べる。
「肉の火入れが雑だ。ソースも鍋の中で何が起きているか見ちゃいない」
「でも、お父さんはこのくらい煮込んで……」
「レオの手を覚えているだけじゃ、料理は作れん」
「じゃあ、どうすればいいの」
「考えろ。何を間違えたか、自分の舌で確かめろ」
「……教えてくれないの?」
「教えるさ。だが、食べた味まで俺に決めてもらうつもりか?」
エリーズは皿を見つめた。
父の味には遠い。それでも、ここから始めるしかない。
「もう一度、作ります」
「なら、最初からやり直せ」
エリーズは鍋を手に取り、調理台へ戻った。
父がいた厨房で、今度は父のいない厨房で、自分の手で料理を作る。
失われた味を取り戻すための、長い修業が始まった。




