2話 終わりゆく役目
西暦1885年、明治18年。
林の古道は、7年前よりもさらに草深くなっていた。新しい街道には荷車が行き交い、村の子供たちは、あの道の向こうに町があることを当たり前のように知っている。
古い祠を訪ねる者は、ほとんどいなくなった。
それでも時折、踏み慣れた足音が林に響く。
「守部さま!」
「おお、花。今日はいつもより晴れやかな顔をしておるな」
花は18歳になっていた。初めてここへ迷い込んだ日とは違い、古道を迷わず歩いてくる。小さかった娘は背も伸び、身なりもすっかり大人びていた。
「今日はね、大事な話があるの」
「ほう。何じゃろう?」
「私、結婚したのよ」
「なんと!」
宗継は目を丸くした後、声を上げて笑った。
「めでたいのう! 昨日まで迷子になって泣いていた娘が、もう人妻とは」
「もう! その話はいつまで言うの?」
「ほっほっ。儂にとっては、つい昨日のようなものじゃからな。それで、どんなお人じゃ?」
「働き者で、優しい人よ。私の話をちゃんと聞いてくれるの」
「うむ。それはよい。互いを大事にして、困った時には二人で話し合うのじゃぞ」
花は頷いたが、すぐには笑わなかった。
「それとね、主人と一緒にハワイへ移住することになったの」
「……はわい?」
「海の向こうの島なの。ずっと遠くよ。向こうで働くことになったの」
宗継は林の先へ目を向けた。自分が生きていた頃、村を離れるだけでも大きな決心が必要だった。今では若い夫婦が、海を渡って新しい暮らしを始めようとしている。
「ほう……随分と広い世になったものじゃ。心細くはないか?」
「少しだけ。でも、二人で頑張ってみたいの」
「ならば、行くがよい。儂が守ってきた村から、遠い土地に幸せを探しに行く者が現れた。嬉しいことじゃよ」
「……守部さまは、寂しくない?」
花は古びた祠を見た。七年前より傷みが増している。掃いても掃いても枯れ葉は積もり、雨の日には屋根の端から雫が落ちた。
「私がいなくなったら、もう誰もお参りに来ないでしょう?」
「なあに。儂はこの土地の主じゃ。長いこと、ここで人々の暮らしを見てきた。少しくらい静かでも退屈はせんよ」
「でも、お話しする相手がいなくなるよ?」
「時折、変わり者の少年が訪ねてくれる。昔話の相手には困らん」
「少年のお友達?」
「ほっほっ。儂が生きていた頃からの友じゃよ」
「ええっ! そんなに昔からの?」
「世の中には不思議なこともあるのじゃ」
宗継が笑うと、花もつられて笑った。しかし、彼女の顔にはまだ迷いが残っていた。
「ねえ、守部さま。私、ここに来てよかったと思っているの」
「そうか」
「あの日、迷子になって泣いていた私を助けてくれたでしょう? それから、学校で叱られた日も、家で喧嘩した日も、話を聞いてくれた。……ありがとう」
花は祠の前に花を添え、両手を合わせた。
「どうか、守部さまもお元気で」
「花。お前さんの方こそ、身体を大切にな。向こうで友を作って、よく食べ、よく笑うのじゃぞ」
「うん。行ってきます!」
花は深く頭を下げると、古道を歩き出した。宗継はその姿が木々の向こうへ消えるまで、手を振り続けた。
「……どうか、幸せにな」
林は再び静かになった。
花に知らせなかったことが、ひとつあった。
宗継のような土地神は、その土地に住む人々が祠を参拝し、祈りを捧げることで存在を保っている。
遠い土地から思い出してもらうだけでは足りない。花が村を離れれば、この祠を訪ねる土地の者は、もう誰もいなくなる。
宗継は、そのことを知っていた。
それでも花の新しい人生を、引き留める理由にはしたくなかった。
花を見送って間もなく、久遠が林を訪れた。
「こんにちは、宗継。花が結婚したんだってね」
「おお、那岐様。ええ。海の向こうへ参るそうです。まったく、あの泣き虫が立派になったもので」
「ふふ。よかったねぇ」
久遠は宗継の隣に腰を下ろした。その姿を近くで見ると、以前との違いがはっきり分かった。衣の裾が淡く透け、木の葉の色がかすかに向こう側から見える。
「……宗継。花には、話さなかったんだね」
「ええ。あの娘には、あの娘の人生がありますからな」
「でも、その土地に住む最後の参拝者がいなくなれば、君はもう……」
「わかっております」
宗継は静かに頷いた。
「花に真実を話せば、きっと悩むでしょう。儂のために夫との旅立ちを諦めるやもしれませぬ。そんなことは望んでおりません」
「……うん」
久遠は膝の上で手を組み、しばらく考えていた。
「ねえ、宗継。それなら別の方法を試せないかな」
「別の方法、でございますか?」
「村の人たちに君のことを伝えるんだ。昔、君が盗賊から村を守ったこと。怪我をしても、みんなの食べ物や暮らしを心配していたこと。私なら、見てきたことを話せるよ」
宗継は黙って久遠を見た。
「祠も直そう。道を整えて、村の人が来やすくする。君のことを知って、また参拝したいと思う人がいるかもしれないでしょう?」
「……那岐様」
「もちろん、無理に信仰してもらうつもりはないよ。ただ、何もしないで君が消えるのを見ているのは、私には辛いんだ」
久遠の声は穏やかだったが、最後の言葉だけは少し震えた。
宗継は長い間、返事をしなかった。遠くで鳥が鳴き、枝が揺れる。やがて老人は、ゆっくり首を横に振った。
「ありがたいお申し出です。しかし、儂のために村の暮らしを動かすのは、どうかおやめください」
「君は本当に村を守ったんだよ。作り話じゃない」
「ええ。ですが、儂が命を懸けたのは、後の世まで祈り続けてもらうためではございませぬ」
宗継は新街道のある方を眺めた。
「昔、この辺りは争いが絶えませんでした。畑を奪われれば食べていけず、水を止められれば作物が枯れる。だから儂は、できるだけ話し合い、どうしても守らねばならぬ時に刀を取ったのです」
「……覚えているよ」
「それが今はどうでしょう。村の者は刀も持たず、便利な道を使って隣村へ行ける。花のように海を越える者までおる。儂には、それが嬉しいのです」
宗継は祠へ目を戻した。
「死んだ後、この祠を建ててもらい、何代にもわたって祈ってもらえました。それだけで、儂には過ぎたる幸せでした。時代が変わり、ここへ来る者がなくなったのなら、それも受け入れたいと思うのです」
「……本当に、それでいいのかい?」
「寂しくはあります。ですが、儂は愛してしまったのです。この土地を、ここで暮らす人々を。儂を知らぬ子供たちが、当たり前のように笑って生きている。それが何より嬉しい」
宗継は久遠に向き直った。
「那岐様。どうか、このままでいさせてください。最後まで、この土地で」
久遠は言葉を失った。
人々のために死んだ武士は、死後も同じ人々の暮らしを守ろうとしている。自分の命をつなぐために、誰かの選択を変えたくないのだ。
「……私は、君がいなくなるのは嫌だよ」
それだけを、久遠はようやく口にした。
「知っております。那岐様は、いつも儂を気にかけてくださいましたからな」
「君が生きていた頃からの付き合いだもの。あの時、君を見送っただけでも辛かったのに。……また、君と別れなきゃいけないんだね」
「ほっほっ。儂は一度死んでからも、長い余生を頂きました。那岐様が時折訪ねてくださったおかげで、退屈もいたしませんでしたぞ」
久遠は目を伏せた。自分がここで祈り続けても、宗継をつなぎ留めることはできない。宗継を支えるのは、この土地に生きる者の参拝だからだ。
力で引き留めることも、本人の望みに反する。
「……わかった。君の望みを尊重するよ」
「ありがとうございます」
「だけど、最後まで会いに来てもいいよね?」
「もちろんですとも。いつものように昔話を聞かせてください」
久遠は小さく笑った。
「そういえば、私が初めて君の家に泊まった時、ずいぶんご飯をおかわりしたね」
「ほっほっ! 覚えておいででしたか。家の者が、あんな小さな身体のどこに入るのかと目を丸くしておりました」
「おいしかったんだもの」
「那岐様は、今も変わりませぬな」
「君だって。昔から人の心配ばかりで、自分のことは後回しなんだから」
二人は笑った。もう、別れの話はしなかった。
宗継は、昔の村で春先に行っていた田起こしの話をした。久遠は鍬を持たされて手に豆を作り、村の子供たちに笑われたのだという。
「那岐様ほどのお方でも、鍬は苦手でしたなぁ」
「そんなことないよ。あの鍬が重かったんだってば」
「ほっほっ。何百年経っても、言い訳は同じですな」
久遠も笑った。あの頃の畑はもう形を変え、そこにいた者の名を知る村人も少ない。それでも、宗継と話している間は、懐かしい昼下がりが目の前によみがえるようだった。
「また、その話をしようね」
久遠がそう言うと、宗継は小さく頷いた。
「ええ。お待ちしておりますよ」
約束がいつまで果たせるのかは、どちらも口にしなかった。
残された時間も、いつもと同じ友人同士でいたかった。
数日後。
久遠は小さな箒を手に、古道を歩いていた。
「こんにちは、宗継。今日は掃除をしようと思ってね」
「那岐様に祠の掃除をしていただくとは、恐れ多いことですな」
「いいんだよ。花がしてくれたみたいに、私も綺麗にしてあげたいんだ」
祠の前には、花が最後に添えた野の花がまだ残っていた。少し萎れていたが、久遠はそのままにしておいた。
屋根の枯れ葉を払い、入口の草を抜く。宗継はそばに座って、久遠の手際を見ていた。
「昔の祭りの日には、村の子らが先を争って掃除をしてくれましてな」
「ふふ。誰が一番綺麗にしたか、言い合いになったこともあったね」
「ええ。ほうびに団子を出したら、今度は取り合いになりましたわ」
「相変わらず賑やかな思い出だねぇ」
久遠が笑いながら立ち上がった、その時だった。
「……宗継?」
老人の足元が、薄く透けていた。草も地面も、その向こうに見える。やがて足先が淡い光となって、静かにほどけ始めた。
宗継は自分の足を見下ろし、小さく頷いた。
「……花が、村を発ったのでしょうな」
「宗継……」
久遠は思わず近寄った。何かできることを探すように手を伸ばし、けれど、その手を途中で止めた。
「……怖くないかい?」
「少しは怖いですな。ですが、それよりも、花が無事に海を渡れるとよいと思っております」
宗継は祠を見て、また林を見た。何百年もの間、そこから村人たちの暮らしを眺めてきたのだ。
「儂は、この地でよい時を過ごしました。守るために戦い、死んでからも、子が育ち、田畑が実るのを見てこられた。……十分です」
足元からの光は、ゆっくり腰のあたりまで昇っていた。
「那岐様。長いこと、ありがとうございました」
「……こちらこそ。君がいてくれて、私は嬉しかったよ」
「儂は、那岐様に初めて会った時、腹を空かせた旅の少年だと思ったものでした。まさか、こんなに長い付き合いになるとは」
「私も、あの時は君にご飯を食べさせてもらえて嬉しかったなぁ」
久遠は笑おうとしたが、声がうまく出なかった。
宗継の肩が透け始める。林の向こうから、遠く村の人の笑い声が聞こえた。
「……那岐様。一つ、お願いしてもよろしいかな」
「何だい?」
「儂が、この地に生きたことを……覚えていてくださいますかな」
久遠は宗継を見つめた。
「もちろん。忘れるわけないじゃないか。君が守った村も、君が笑っていたことも、私は覚えているよ」
「……ありがたいことですなぁ」
宗継は穏やかな笑みを浮かべた。
「花にも、よい人生がありますように」
「うん。……きっと、幸せに暮らすよ」
「ほっほっ。それを聞けて安心しました」
最後まで背筋を伸ばし、宗継は久遠に頭を下げた。
「よき余生でした。那岐様、どうかお達者で」
「……さようなら、宗継」
老人の姿は、小さな光の粒となって林に溶けていった。
その場には、風の音だけが残った。
久遠は、しばらく動けなかった。
宗継が武士だった頃、泥にまみれて村へ戻ってきた姿。祠が建てられた日の、村人たちの祈り。花の来訪を照れくさそうに喜んでいた顔。
呼べば、いつでも「那岐様」と答えてくれた声は、もう聞こえない。
久遠は祠の前にしゃがみ、そっと手を合わせた。
「……お疲れさま、宗継。今までありがとう」
長い祈りではなかった。返事を期待したわけでもない。ただ、友に別れを告げたかった。
やがて立ち上がると、久遠は花の置いた野の花を見た。萎れた花弁の向こうで、村へ続く古道は、静かに木漏れ日を受けている。
宗継がいなくなっても、村の暮らしは続く。花も今頃は、夫と新しい土地へ向かう旅の途中だろう。
久遠は祠に背を向け、一歩を踏み出した。
あの武士が守ろうとしたものは、これからも人々の暮らしの中にある。
「……忘れないよ、宗継」
少年は一度だけ振り返り、また前を向いた。
林の向こうから、新しい街道を行く荷車の音が聞こえてきた。




