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不老長寿の久遠と無償の愛  作者: 月見
守部宗継編 最後まで、この土地で

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17/18

1話 小さな参拝者

挿絵(By みてみん)


 西暦1878年、明治11年。


 山あいの小さな村に新しい街道が通って、数年が過ぎていた。以前の道は深い林を回り込み、雨が降ればぬかるむ。


 今では荷車が行き交える道ができ、隣村へ向かう者も、町から品を運んでくる商人も、そちらを利用するようになった。


 古い道は静かになった。草が伸び、折れた枝が落ち、日が傾くと道筋も見分けにくい。


 その林の中で、一人の娘が立ち尽くしていた。


「……あれ? さっきも、この木を見たような……」


 花という名の、11歳の娘だった。村へ戻る近道を探したつもりが、いつの間にか知らない道へ入ってしまった。引き返そうにも、曲がった場所が思い出せない。


「お母さーん! 誰か、いませんかー!」


 返事はなかった。枝葉が擦れる音がするばかりで、人の足音ひとつ聞こえない。


 花は歩き続けたが、見覚えのある家も畑も現れなかった。空の色が変わり始めると、とうとう道端にしゃがみ込んだ。


「……おうちに、帰りたいよぉ……」


 涙を拭いても、次から次へとあふれてくる。


「そこの娘。どうして泣いておるのだ?」


挿絵(By みてみん)


「ひゃっ!」


 顔を上げると、少し離れた木のそばに老人が立っていた。古い時代の武士のような身なりで、背筋は伸びている。けれど声も目元も、穏やかだった。


「迷子になってしもうたか」


「うっ……ここ、どこなの……?」


「昔の街道じゃよ。新しい道ができてからは、誰も通らんようになってな」


「道なのに?」


「ほっほっ。道にも、賑やかな時と静かな時があるのじゃ」


 花にはよく分からなかった。それでも、ようやく人に会えたことが嬉しくて、鼻をすすりながら立ち上がった。


「おじいちゃんは、どうしてこんなところにいるの?」


「儂か? 儂はここの主だからのう」


「主?」


 老人の指す方を見ると、木々の間に小さな祠があった。苔のついた屋根には枯れ葉が積もり、正面の石も草に埋もれかけている。


「あっ、神様のお家だ!」


「うむ。よく知っておるな」


「じゃあ、おじいちゃんは神様なの?」


「昔はそう呼ばれて、随分と祀られたものじゃ。今でも、儂はそのつもりでおるがな」


「昔は? 今は誰も来ないの?」


「最後まで参ってくれていた菊さんも、病で来られなくなってしもうた。もう長くないそうじゃ。……寂しくはあるが、仕方のないことよ」


 老人は笑った。花はその笑顔が、少し悲しそうに見えた。


「私、おじいちゃんのことが見えるよ。神様って、みんな見えるものなの?」


「いや。村の者にも、たまに儂の姿が見える者がおる。お前さんもその一人なのじゃろう」


「ふうん……」


 花は老人と祠を交互に見つめた。怖いという気持ちは、不思議となかった。


「さて、話はそれくらいにして、帰らねばならんぞ。家の者が心配しておる」


「帰り道、分からない……」


「儂についておいで。何百年もこの土地を見ておるのじゃ。村への道くらいは覚えておる」


 老人が歩き出すと、花は慌てて後を追った。枝の張り出したところでは歩みを緩め、足元の石を教えてくれる。


 花が小さな溝を跳び越えられずにいると、老人は迂回できる場所まで案内した。


「おじいちゃん、本当に神様なのに、道案内してくれるんだね」


「神様は道案内をしてはいかんのか?」


「ううん。でも、もっとすごいことをするのかと思った!」


「ほっほっ。それは期待に添えず、すまんのう」


 花も笑った。林を抜ける頃には、もう涙は乾いていた。


「……でも、家に帰ったらお母さんに叱られるかも」


「何と。叱られるのが怖いのか?」


「だって、帰るのが遅くなっちゃったもの」


「心配しておったのじゃろう。お前さんが無事に帰れば、きっと安心する。叱られたら、ちゃんと謝るのじゃぞ」


「守部さまも、お母さんみたいなことを言うね」


「ほっほっ。母御の心配も、もっともじゃからな」


 花は恥ずかしそうにうつむいたが、やがて小さな声で言った。


「でも、私を探してくれてるかな」


「探しておるとも。大切な娘が帰らなければ、誰だって心配するものじゃ」


 その言葉を聞いて、花は少し歩みを速めた。今度は、一刻も早く家へ戻りたかった。


「あっ、うちの村だ!」


 見慣れた屋根が並んでいる。花は駆け出しかけて、振り返った。


「ねえ、神様。お名前は?」


「守部宗継(もりべむねつぐ)という」


「守部さまね! 私は花!」


「うむ、花。もう暗くなる前に帰るのじゃぞ」


「ありがとう、守部さま!」


 花は何度も手を振り、家々の方へ走っていった。


 宗継は娘の姿が見えなくなるまで見送り、それからゆっくり古道を戻った。今日は、随分と久しぶりに誰かと話した気がした。




 翌日、静かな林に歌声が響いた。


「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ……」


 祠の前に座っていた宗継は顔を上げた。


「ほっほっ。儂は天神さまではないぞ」


挿絵(By みてみん)


「あっ、守部さま!」


 花が籠を抱えて駆け寄ってきた。


「今日は迷わず来られたのか?」


「もちろん! 昨日の道をちゃんと覚えたんだから」


「それは感心じゃ。だが、一人で林に入る時は、家の者に知らせてからにするんじゃぞ」


「うん、お母さんに話してきたよ。昨日のお礼をしに行くって」


 花は籠から小さな野の花を取り出した。


「お菓子とかは持ってこられないけど、これならいいでしょう?」


「ほう。綺麗な花じゃな」


「祠の前に置いてもいい?」


「もちろんじゃ。ありがたく頂こう」


 花は祠の前に花を添え、両手を合わせた。目を閉じ、何やら真剣に願っている。


「何を願ったのじゃ?」


「もう迷子になりませんように!」


「それは儂に頼むより、道を覚えた方が確かじゃな」


「もう! 神様なのに意地悪!」


 宗継が声を上げて笑うと、花も頬を膨らませたまま笑った。


 やがて花は祠の屋根を見上げた。


「守部さまのお家、枯れ葉がいっぱい。お掃除してもいい?」


「朽ちた板には触らんようにな。怪我をしては大変じゃ」


「わかった!」


 花は落ち葉を集め、小枝をどけ、石の周りの草を手で引いた。何度もしゃがんでは立ち上がり、汗を額に浮かべている。


「無理はせんでよいぞ」


「あと少し! ほら、ここも綺麗にしたいの」


「ほっほっ。なかなか頑固な娘じゃな」


「守部さまが言ったんでしょう? 昔は人がたくさん来たって。お家が汚れていたら、誰もお参りできないよ」


 その言葉に、宗継は少しだけ黙った。


 祠の前が片づくと、花は胸を張った。


「できた!」


「見違えたのう。ありがとう、花」


「えへへ。じゃあ、また来てあげるね」


「その気持ちだけでも嬉しいぞ。じゃが、無理に来ることはない。友達と遊ぶ日も、家の手伝いをする日もあるじゃろう」


「大丈夫! 来たいから来るんだもの」


 宗継は、返す言葉を探すように祠を見た。


「……そうか。ならば、いつでもおいで」


 花は宗継の横に腰を下ろした。


「ねえ、守部さまは何の神様?」


「この土地の地主神じゃ。生きていた頃は武士でな、この辺りの村を守っておった」


「武士! じゃあ、刀を持って悪い人をやっつけたの?」


「時にはそういうこともあったのう。だが、争わずに済むなら、その方がよい」


「神様になった今も、刀を使うの?」


「もう持っておらんよ。儂が刀を振るわずに済む世になったのなら、それは結構なことじゃ」


「じゃあ、迷子を助ける神様?」


「ほっほっ。それくらいなら、今でもできるな」


「十分すごいよ! 昨日、私、すっごく困ってたんだから」


 宗継は嬉しそうに頷いた。


 花はそれからも、友達が転んだ話、家で叱られた話、近所で子犬が生まれた話を、途切れることなく聞かせた。宗継は合いの手を入れ、ときどき大げさに驚いてみせた。


 日が傾く前に、花は立ち上がった。


「そろそろ帰らなくちゃ。またね、守部さま!」


「うむ。まっすぐ帰るのじゃぞ」


 こうして花は、ときどき祠を訪ねるようになった。


 毎日ではない。雨の日には来られず、家の用事が続けば顔を見せないこともある。


 それでも林に小さな足音が聞こえる日は、宗継の長い一日が少しだけ賑やかになった。


 ある日は村の子らと川辺で遊んだ話をし、またある日は寺子屋で覚えた文字を、木の枝で地面に書いて見せた。


「ほら、守部さま。これ、私の名前よ!」


「おお、立派なものじゃ。儂の名も書けるかの?」


「むずかしそう……むねつぐ、って、どんな字?」


「ほっほっ。急がずともよい。そのうち覚えられるじゃろう」


「じゃあ、今度習ってくる!」


 花はそう言うと、書き損じた字を足で消して、もう一度挑戦した。宗継は横から覗き込み、覚え違いを笑ったりはしなかった。


 別の日には、突然の雨が林を濡らした。花は頭に手拭いをかぶせ、足元を泥だらけにして走ってきた。


「花! こんな日に来るでない。風邪をひくぞ」


「だって、昨日は来るって言ったでしょう?」


「儂との約束より、お前さんの身体の方が大事じゃ。帰って温まるのじゃ」


「……怒ってる?」


「心配しておるのじゃよ」


 花はしばらく口を尖らせていたが、やがて小さく頷いた。


「じゃあ、晴れたらまた来るね」


「うむ。元気な顔を見せてくれれば、それでよい」


 雨の中を走って帰る小さな背中を、宗継は祠の前から見送った。


 彼女にとって、ここは誰にも叱られず話を聞いてもらえる場所になりつつあった。


 宗継にとっては、自分が守ってきた村の今を知ることのできる場所でもあった。


 だが宗継は、次にいつ来るかを尋ねたことがなかった。花の声を聞ける日が嬉しいからこそ、その足を自分のために縛りたくはなかったのである。




 花が通うようになってしばらくした頃、一人の少年が祠を訪れた。


「こんにちは、宗継。久しぶりだねぇ」


「おお、那岐様! よくぞお越しくださいました」


 黒髪の少年は伊奈久遠。かつて伊邪那岐と呼ばれた、不老長寿の一族の祖だった。宗継がまだ武士として生きていた頃からの旧知である。


 久遠は祠の前にしゃがみ、添えられた花に気づいた。


「綺麗な花だね。誰かがお参りしてくれたの?」


「花という娘です。先日迷い込んだのを送ってやりましてな。それから時折、顔を見せてくれるのです」


「花という子が花を持ってきてくれたんだ。ふふ、いいねぇ」


「ほっほっ。元気のよい娘で、儂が悪人を退治できるのかと聞きますのじゃ」


挿絵(By みてみん)


「君の昔を知ったら、きっと目を丸くするだろうね」


「幼い子に血なまぐさい話など、聞かせたくありませんからな」


 二人は祠の傍らに腰を下ろした。


「昔の君は忙しかったね。水争いの仲裁をしたかと思えば、盗賊の知らせが来れば走っていった。私は何度、少し休むよう言ったことか」


「ほっほっ。放っておけば田畑を荒らされ、村の者が飢えてしまいますからな。やれることをするしかありませんでした」


「それで、最後には大勢の盗賊を相手にした」


 宗継の笑顔が少し静かになった。


 平安の末、盗賊団が周囲の村を襲った。宗継は人々を逃がし、村の男たちと道を守り抜いた。


 盗賊を退けたものの、宗継自身は深手を負い、まもなく息を引き取った。


「私が見舞いに行った時も、君は怪我人に食べ物が行き渡ったかと、そればかり聞いていたね」


「……そうでしたか。自分のことは、あまり覚えておりませぬ」


「君らしいよ」


 村人たちは命を守ってくれた武士を忘れず、林の道端に小さな祠を建てた。以来、幾世代にもわたって参拝が続き、宗継は土地を見守る存在としてそこにとどまってきた。


「祭りの日などは賑やかでしたぞ。子供らが走り回って、年寄りが叱って。儂には、あれほど嬉しいことはありませなんだ」


「うん。覚えているよ」


 久遠が微笑むと、宗継も昔を懐かしんで笑った。


 やがて久遠は、木々の間に続く道へ目を向けた。


「新しい街道、便利になったね。荷車も通れるし、村の人たちも助かるだろうなぁ」


「ええ。それは喜ばしいことです」


「この祠へ来る人は減ってしまったけど……寂しくない?」


「寂しくないと言えば嘘になりますな。しかし、儂が守りたかったのは、古道を通る人の数ではありませぬ。村の者の暮らしです。あちらの道が便利なら、それでよいのです」


 久遠は何も言わず、宗継の顔を見た。


 その輪郭が、以前よりもかすかに淡い。生者のようにはっきりと見えていた姿が、木漏れ日の中で少し頼りなく映った。


「……宗継。調子はどうだい?」


「まだこうして話せますぞ。花も来てくれますしな」


「そうだね」


「お気遣い、ありがとうございます。那岐様の方こそ、お身体を大切になさってください」


「私は大丈夫だよ。……また来るからね」


 久遠は立ち上がった。宗継も見送りのため、古道の入り口まで歩いた。


「那岐様。今日はありがとうございました」


「こちらこそ。君と話すと、私も昔を思い出せて嬉しいよ」


「ほっほっ。それなら、次は昔の失敗談でもお聞かせしましょうかな」


「君の失敗談? それは楽しみだなぁ」


 二人は笑い合い、久遠は手を振って林を去った。


 宗継は、少年の姿が見えなくなってもしばらく道を見つめていた。


 生きていた頃の知人も、祠に集った村人たちも、もうほとんど残っていない。それでも久遠は、何百年もの間、時折ここへ来てくれる。


 そして今は、花もいる。


 祠の前には、娘が拾った小さな野の花が揺れていた。


「……ありがたいことじゃなぁ」


 宗継はそれを眺め、静かに笑った。


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