1話 小さな参拝者
西暦1878年、明治11年。
山あいの小さな村に新しい街道が通って、数年が過ぎていた。以前の道は深い林を回り込み、雨が降ればぬかるむ。
今では荷車が行き交える道ができ、隣村へ向かう者も、町から品を運んでくる商人も、そちらを利用するようになった。
古い道は静かになった。草が伸び、折れた枝が落ち、日が傾くと道筋も見分けにくい。
その林の中で、一人の娘が立ち尽くしていた。
「……あれ? さっきも、この木を見たような……」
花という名の、11歳の娘だった。村へ戻る近道を探したつもりが、いつの間にか知らない道へ入ってしまった。引き返そうにも、曲がった場所が思い出せない。
「お母さーん! 誰か、いませんかー!」
返事はなかった。枝葉が擦れる音がするばかりで、人の足音ひとつ聞こえない。
花は歩き続けたが、見覚えのある家も畑も現れなかった。空の色が変わり始めると、とうとう道端にしゃがみ込んだ。
「……おうちに、帰りたいよぉ……」
涙を拭いても、次から次へとあふれてくる。
「そこの娘。どうして泣いておるのだ?」
「ひゃっ!」
顔を上げると、少し離れた木のそばに老人が立っていた。古い時代の武士のような身なりで、背筋は伸びている。けれど声も目元も、穏やかだった。
「迷子になってしもうたか」
「うっ……ここ、どこなの……?」
「昔の街道じゃよ。新しい道ができてからは、誰も通らんようになってな」
「道なのに?」
「ほっほっ。道にも、賑やかな時と静かな時があるのじゃ」
花にはよく分からなかった。それでも、ようやく人に会えたことが嬉しくて、鼻をすすりながら立ち上がった。
「おじいちゃんは、どうしてこんなところにいるの?」
「儂か? 儂はここの主だからのう」
「主?」
老人の指す方を見ると、木々の間に小さな祠があった。苔のついた屋根には枯れ葉が積もり、正面の石も草に埋もれかけている。
「あっ、神様のお家だ!」
「うむ。よく知っておるな」
「じゃあ、おじいちゃんは神様なの?」
「昔はそう呼ばれて、随分と祀られたものじゃ。今でも、儂はそのつもりでおるがな」
「昔は? 今は誰も来ないの?」
「最後まで参ってくれていた菊さんも、病で来られなくなってしもうた。もう長くないそうじゃ。……寂しくはあるが、仕方のないことよ」
老人は笑った。花はその笑顔が、少し悲しそうに見えた。
「私、おじいちゃんのことが見えるよ。神様って、みんな見えるものなの?」
「いや。村の者にも、たまに儂の姿が見える者がおる。お前さんもその一人なのじゃろう」
「ふうん……」
花は老人と祠を交互に見つめた。怖いという気持ちは、不思議となかった。
「さて、話はそれくらいにして、帰らねばならんぞ。家の者が心配しておる」
「帰り道、分からない……」
「儂についておいで。何百年もこの土地を見ておるのじゃ。村への道くらいは覚えておる」
老人が歩き出すと、花は慌てて後を追った。枝の張り出したところでは歩みを緩め、足元の石を教えてくれる。
花が小さな溝を跳び越えられずにいると、老人は迂回できる場所まで案内した。
「おじいちゃん、本当に神様なのに、道案内してくれるんだね」
「神様は道案内をしてはいかんのか?」
「ううん。でも、もっとすごいことをするのかと思った!」
「ほっほっ。それは期待に添えず、すまんのう」
花も笑った。林を抜ける頃には、もう涙は乾いていた。
「……でも、家に帰ったらお母さんに叱られるかも」
「何と。叱られるのが怖いのか?」
「だって、帰るのが遅くなっちゃったもの」
「心配しておったのじゃろう。お前さんが無事に帰れば、きっと安心する。叱られたら、ちゃんと謝るのじゃぞ」
「守部さまも、お母さんみたいなことを言うね」
「ほっほっ。母御の心配も、もっともじゃからな」
花は恥ずかしそうにうつむいたが、やがて小さな声で言った。
「でも、私を探してくれてるかな」
「探しておるとも。大切な娘が帰らなければ、誰だって心配するものじゃ」
その言葉を聞いて、花は少し歩みを速めた。今度は、一刻も早く家へ戻りたかった。
「あっ、うちの村だ!」
見慣れた屋根が並んでいる。花は駆け出しかけて、振り返った。
「ねえ、神様。お名前は?」
「守部宗継という」
「守部さまね! 私は花!」
「うむ、花。もう暗くなる前に帰るのじゃぞ」
「ありがとう、守部さま!」
花は何度も手を振り、家々の方へ走っていった。
宗継は娘の姿が見えなくなるまで見送り、それからゆっくり古道を戻った。今日は、随分と久しぶりに誰かと話した気がした。
翌日、静かな林に歌声が響いた。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ……」
祠の前に座っていた宗継は顔を上げた。
「ほっほっ。儂は天神さまではないぞ」
「あっ、守部さま!」
花が籠を抱えて駆け寄ってきた。
「今日は迷わず来られたのか?」
「もちろん! 昨日の道をちゃんと覚えたんだから」
「それは感心じゃ。だが、一人で林に入る時は、家の者に知らせてからにするんじゃぞ」
「うん、お母さんに話してきたよ。昨日のお礼をしに行くって」
花は籠から小さな野の花を取り出した。
「お菓子とかは持ってこられないけど、これならいいでしょう?」
「ほう。綺麗な花じゃな」
「祠の前に置いてもいい?」
「もちろんじゃ。ありがたく頂こう」
花は祠の前に花を添え、両手を合わせた。目を閉じ、何やら真剣に願っている。
「何を願ったのじゃ?」
「もう迷子になりませんように!」
「それは儂に頼むより、道を覚えた方が確かじゃな」
「もう! 神様なのに意地悪!」
宗継が声を上げて笑うと、花も頬を膨らませたまま笑った。
やがて花は祠の屋根を見上げた。
「守部さまのお家、枯れ葉がいっぱい。お掃除してもいい?」
「朽ちた板には触らんようにな。怪我をしては大変じゃ」
「わかった!」
花は落ち葉を集め、小枝をどけ、石の周りの草を手で引いた。何度もしゃがんでは立ち上がり、汗を額に浮かべている。
「無理はせんでよいぞ」
「あと少し! ほら、ここも綺麗にしたいの」
「ほっほっ。なかなか頑固な娘じゃな」
「守部さまが言ったんでしょう? 昔は人がたくさん来たって。お家が汚れていたら、誰もお参りできないよ」
その言葉に、宗継は少しだけ黙った。
祠の前が片づくと、花は胸を張った。
「できた!」
「見違えたのう。ありがとう、花」
「えへへ。じゃあ、また来てあげるね」
「その気持ちだけでも嬉しいぞ。じゃが、無理に来ることはない。友達と遊ぶ日も、家の手伝いをする日もあるじゃろう」
「大丈夫! 来たいから来るんだもの」
宗継は、返す言葉を探すように祠を見た。
「……そうか。ならば、いつでもおいで」
花は宗継の横に腰を下ろした。
「ねえ、守部さまは何の神様?」
「この土地の地主神じゃ。生きていた頃は武士でな、この辺りの村を守っておった」
「武士! じゃあ、刀を持って悪い人をやっつけたの?」
「時にはそういうこともあったのう。だが、争わずに済むなら、その方がよい」
「神様になった今も、刀を使うの?」
「もう持っておらんよ。儂が刀を振るわずに済む世になったのなら、それは結構なことじゃ」
「じゃあ、迷子を助ける神様?」
「ほっほっ。それくらいなら、今でもできるな」
「十分すごいよ! 昨日、私、すっごく困ってたんだから」
宗継は嬉しそうに頷いた。
花はそれからも、友達が転んだ話、家で叱られた話、近所で子犬が生まれた話を、途切れることなく聞かせた。宗継は合いの手を入れ、ときどき大げさに驚いてみせた。
日が傾く前に、花は立ち上がった。
「そろそろ帰らなくちゃ。またね、守部さま!」
「うむ。まっすぐ帰るのじゃぞ」
こうして花は、ときどき祠を訪ねるようになった。
毎日ではない。雨の日には来られず、家の用事が続けば顔を見せないこともある。
それでも林に小さな足音が聞こえる日は、宗継の長い一日が少しだけ賑やかになった。
ある日は村の子らと川辺で遊んだ話をし、またある日は寺子屋で覚えた文字を、木の枝で地面に書いて見せた。
「ほら、守部さま。これ、私の名前よ!」
「おお、立派なものじゃ。儂の名も書けるかの?」
「むずかしそう……むねつぐ、って、どんな字?」
「ほっほっ。急がずともよい。そのうち覚えられるじゃろう」
「じゃあ、今度習ってくる!」
花はそう言うと、書き損じた字を足で消して、もう一度挑戦した。宗継は横から覗き込み、覚え違いを笑ったりはしなかった。
別の日には、突然の雨が林を濡らした。花は頭に手拭いをかぶせ、足元を泥だらけにして走ってきた。
「花! こんな日に来るでない。風邪をひくぞ」
「だって、昨日は来るって言ったでしょう?」
「儂との約束より、お前さんの身体の方が大事じゃ。帰って温まるのじゃ」
「……怒ってる?」
「心配しておるのじゃよ」
花はしばらく口を尖らせていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、晴れたらまた来るね」
「うむ。元気な顔を見せてくれれば、それでよい」
雨の中を走って帰る小さな背中を、宗継は祠の前から見送った。
彼女にとって、ここは誰にも叱られず話を聞いてもらえる場所になりつつあった。
宗継にとっては、自分が守ってきた村の今を知ることのできる場所でもあった。
だが宗継は、次にいつ来るかを尋ねたことがなかった。花の声を聞ける日が嬉しいからこそ、その足を自分のために縛りたくはなかったのである。
花が通うようになってしばらくした頃、一人の少年が祠を訪れた。
「こんにちは、宗継。久しぶりだねぇ」
「おお、那岐様! よくぞお越しくださいました」
黒髪の少年は伊奈久遠。かつて伊邪那岐と呼ばれた、不老長寿の一族の祖だった。宗継がまだ武士として生きていた頃からの旧知である。
久遠は祠の前にしゃがみ、添えられた花に気づいた。
「綺麗な花だね。誰かがお参りしてくれたの?」
「花という娘です。先日迷い込んだのを送ってやりましてな。それから時折、顔を見せてくれるのです」
「花という子が花を持ってきてくれたんだ。ふふ、いいねぇ」
「ほっほっ。元気のよい娘で、儂が悪人を退治できるのかと聞きますのじゃ」
「君の昔を知ったら、きっと目を丸くするだろうね」
「幼い子に血なまぐさい話など、聞かせたくありませんからな」
二人は祠の傍らに腰を下ろした。
「昔の君は忙しかったね。水争いの仲裁をしたかと思えば、盗賊の知らせが来れば走っていった。私は何度、少し休むよう言ったことか」
「ほっほっ。放っておけば田畑を荒らされ、村の者が飢えてしまいますからな。やれることをするしかありませんでした」
「それで、最後には大勢の盗賊を相手にした」
宗継の笑顔が少し静かになった。
平安の末、盗賊団が周囲の村を襲った。宗継は人々を逃がし、村の男たちと道を守り抜いた。
盗賊を退けたものの、宗継自身は深手を負い、まもなく息を引き取った。
「私が見舞いに行った時も、君は怪我人に食べ物が行き渡ったかと、そればかり聞いていたね」
「……そうでしたか。自分のことは、あまり覚えておりませぬ」
「君らしいよ」
村人たちは命を守ってくれた武士を忘れず、林の道端に小さな祠を建てた。以来、幾世代にもわたって参拝が続き、宗継は土地を見守る存在としてそこにとどまってきた。
「祭りの日などは賑やかでしたぞ。子供らが走り回って、年寄りが叱って。儂には、あれほど嬉しいことはありませなんだ」
「うん。覚えているよ」
久遠が微笑むと、宗継も昔を懐かしんで笑った。
やがて久遠は、木々の間に続く道へ目を向けた。
「新しい街道、便利になったね。荷車も通れるし、村の人たちも助かるだろうなぁ」
「ええ。それは喜ばしいことです」
「この祠へ来る人は減ってしまったけど……寂しくない?」
「寂しくないと言えば嘘になりますな。しかし、儂が守りたかったのは、古道を通る人の数ではありませぬ。村の者の暮らしです。あちらの道が便利なら、それでよいのです」
久遠は何も言わず、宗継の顔を見た。
その輪郭が、以前よりもかすかに淡い。生者のようにはっきりと見えていた姿が、木漏れ日の中で少し頼りなく映った。
「……宗継。調子はどうだい?」
「まだこうして話せますぞ。花も来てくれますしな」
「そうだね」
「お気遣い、ありがとうございます。那岐様の方こそ、お身体を大切になさってください」
「私は大丈夫だよ。……また来るからね」
久遠は立ち上がった。宗継も見送りのため、古道の入り口まで歩いた。
「那岐様。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。君と話すと、私も昔を思い出せて嬉しいよ」
「ほっほっ。それなら、次は昔の失敗談でもお聞かせしましょうかな」
「君の失敗談? それは楽しみだなぁ」
二人は笑い合い、久遠は手を振って林を去った。
宗継は、少年の姿が見えなくなってもしばらく道を見つめていた。
生きていた頃の知人も、祠に集った村人たちも、もうほとんど残っていない。それでも久遠は、何百年もの間、時折ここへ来てくれる。
そして今は、花もいる。
祠の前には、娘が拾った小さな野の花が揺れていた。
「……ありがたいことじゃなぁ」
宗継はそれを眺め、静かに笑った。




