3話 あなたから受け継いだ優しさ
西暦1893年、インド・プネー。
イギリスのベッドフォード・カレッジで学んだアーシャが、三年ぶりに故郷へ帰ってきた。
二十一歳になった彼女は、持ち帰った本の山を片づける間も惜しんで、学校を訪ね歩いていた。
留学先で学んだのは、文字や計算の教え方だけではない。学校に通いたくても通えない子供が、どうすれば学び続けられるのか。
授業料を払えない家庭、働き手を必要とする家庭、娘には教育など要らないと考える大人たち。事情は一つではなく、助け方も一つではなかった。
そんなある日、久遠がアーシャの家を訪ねた。
「お帰り、アーシャ。三年ぶりだねぇ」
「ふふ、ただいま戻りました、久遠。お久しぶりです!」
「イギリスはどうだった? 寒くなかった?」
「寒かったです! 冬は指がかじかんで、手紙を書くのも大変でした。でも、楽しかった。今まで知らなかった考え方に、たくさん出会えたんです」
アーシャは笑いながら、学校で使った本を一冊差し出した。頁には書き込みがびっしりと並んでいる。
「私、教師になります。それから、学校へ行けない子供たちにも勉強する機会を作りたいんです」
「うん。いいねぇ」
「それだけですか?」
「アーシャが自分で決めたんでしょう? だったら、私は応援するよ」
久遠の返事は、驚くほどいつもどおりだった。
「もう少し驚いてくださってもいいのに」
「あはは。だって、昔から人に何かを教えたがっていたじゃない。六歳の頃には、私に英語を教えてくれたしねぇ」
「もう! それは忘れてください!」
二人は顔を見合わせて笑った。
アーシャが選んだのは、久遠に恩を返すための仕事ではない。自分が子供たちと向き合いたいから選んだ道だった。
教師になって最初の年、アーシャは思い知らされた。知っていることと、教えられることは違う。
「先生、この字、どうしてこう書くの?」
目の前の少女に問われ、アーシャは石板に字を書いてみせた。しかし少女は首を傾げたままだった。
説明を変えても伝わらない。ようやく少女が読めた時には、授業の終わりを告げる声が聞こえていた。
「できた! 先生、読めたよ!」
「ええ、ちゃんと読めたわ!」
少女の笑顔を見た途端、アーシャの疲れは吹き飛んだ。
授業が終われば、家庭の都合で学校に来られない子のために教材を整える。放課後、教師仲間と手分けして読み書きを教えることもあった。
助けたい相手が増えるほど、自分一人では足りないことも分かってきた。
久遠が顔を見せた時、彼女は机いっぱいに石板を並べていた。
「ずいぶん忙しそうだねぇ」
「忙しいです。でも、この仕事が好きなんですよ。昨日まで読めなかった子が、今日は読めるようになるんです」
「そうかぁ。それなら、いい仕事を見つけたんだね」
「ええ。昔、久遠が食事を配っていた時の気持ちが、少し分かるようになりました」
久遠はそれ以上何も言わず、嬉しそうに笑った。アーシャもつられて微笑んだ。
西暦1897年。
プネーではペストが広がり、病に倒れる人々が相次いでいた。アーシャの教え子の中にも、家族の看病のため学校へ来られなくなる者がいた。
三月、アーシャのもとに知らせが届いた。
サヴィトリバイ・フーレが病人の救護に当たり、自らも感染して、三月十日に亡くなったという。
最初に彼女を見たのは、飢饉の救済施設だった。
次に会ったのは、女子教育についての講話の後。女の子が文字を学ぶ意味を尋ねた自分に、サヴィトリバイは真剣に答えてくれた。
アーシャは教室に残り、子供たちの使いかけの石板を見つめていた。
「先生……まだ、お聞きしたいことがあったのに」
訪ねてきた久遠は、彼女の隣に腰を下ろした。
「サヴィトリバイさんのこと、聞いたよ」
「……はい。最後まで、人を助けていたそうです」
「うん」
「立派な教師になった姿を、見ていただきたかった。私、まだ教えるのが下手で……相談したいことだって、いっぱい……」
言葉が途切れ、涙が落ちた。久遠は慰めの言葉を急がず、ただ隣にいた。
やがてアーシャが顔を上げると、久遠は教室を見渡した。
「ここには、あの人から教わったことが残っているんだね」
「……私の中に、ですか?」
「うん。アーシャが誰かに教えれば、その子の中にも残る。亡くなったのは悲しいけれど、してきたことまで消えるわけじゃないでしょう?」
アーシャは、かつての講話で聞いた言葉を思い出した。知識は、誰かに奪われるものではない。
「……私、明日も授業をします」
「うん。でも、一つお願いがあるんだ」
「何でしょう?」
「病気の人を助けたい気持ちは分かるよ。だけど、自分の命まで差し出そうとしないでね。アーシャが倒れたら、私は悲しい」
いつもの柔らかな声だった。それなのに、ひどく切実に聞こえた。
「……約束します。私一人でできないことは、みんなに頼ります」
「それなら安心だねぇ」
久遠は微笑んだ。アーシャは涙を拭い、明日の授業で使う石板を一枚ずつ揃え始めた。
西暦1900年。
二十八歳のアーシャには、気がかりなことがあった。友人たちが少しずつ年齢を重ねているのに、自分の顔立ちは十八歳の頃からほとんど変わらない。
そして、五歳の時に出会った久遠も、あの頃の少年の姿のままだった。
その日、訪ねてきた久遠は、いつになく真剣な顔で茶碗を置いた。
「アーシャ。今日は、大事な話をしようと思うんだ」
「……私の顔が変わらないことですか?」
「気づいていたんだね」
「ええ。久遠も、ずっと同じ姿ですから」
久遠はゆっくり頷いた。
「君のお父さんは、月読という私の息子の血を引く一族の人なんだ。私たちの子孫には、長く生きる人がいる。妖術を使える人もいるけれど、能力は誰にでも同じように現れるわけじゃない」
「父も、そうなんですか?」
「うん。お父さんも普通の人より長命だよ。そしてアーシャにも、その性質が強く出ているようなんだ。どこまで長く生きるかは、まだ分からないけれどね」
アーシャは湯気の向こうの顔を見つめた。
「では、久遠は何歳なんですか?」
「……二千年以上、かな。紀元前二百十年、徐福という人の実験で、今の身体になったんだ」
久遠は、日本では伊邪那岐という名で伝えられていることも話した。
「神様、だったんですか……?」
「違うよ。私は死なないわけじゃない。長く生きて、少し変わった力を使えるだけなんだ」
アーシャには、すぐには信じられなかった。けれど目の前の姿も、自分自身の変化のなさも、話と矛盾しない。
「……久遠。そんなに長く生きて、寂しくありませんでしたか?」
久遠はしばらく黙っていた。
「寂しかったよ。大事な人を何度も見送った。悲しさに耐えられなくて、何もできなくなった時もある」
「……久遠にも、そんな時が」
「うん。一族の中には、別れが重なって心を壊してしまう人もいるんだ。だから私たちは、普通の人と必要以上に深い関係を結ばないようにしている」
アーシャの胸が冷たくなった。目の前の教師仲間も、今は小さな教え子も、いつか自分より先に老いていくのだろう。
「私……教師を辞めた方がいいのでしょうか」
「いいや。アーシャの仕事まで諦めてほしいわけじゃないよ」
「でも、子供たちを大切に思えば思うほど……」
「辛い別れも増えると思う。だから、一人一人の人生を全部背負おうとしないでほしいんだ。誰かと一緒に仕事をして、苦しくなったら休んで。助ける側のアーシャも、大切にされていいんだよ」
アーシャは両手を握った。長い人生への恐ろしさは消えなかった。それでも、自分が教室で見た笑顔まで失いたくはない。
「……私は、続けたいです」
「うん」
「いつか別れるとしても、あの子たちが文字を覚えた日の喜びは、本当のことですから」
久遠は少し目を伏せ、それから微笑んだ。
「そうだねぇ」
アーシャは久遠の手にそっと触れた。
「辛い時は、私にも話してください。私が小さかった頃、久遠はいつも話を聞いてくださいました。今度は私が聞きたいんです」
「……ありがとう、アーシャ」
久遠はその手を握り返した。年を取らないことへの不安は残る。だが、二人で話せたことで、アーシャは明日も教室へ行こうと思えた。
月日は流れた。
名前や住む場所を変えなければならないこともあったが、アーシャはインドで教育の仕事を続けた。
自分がいつまでも教壇に立つのではなく、教師を育て、運営を任せる道も覚えた。
一九四七年、インドが独立した。七十五歳のアーシャは祝う人々の声を聞きながら、昔の教え子たちのことを思った。
教壇に立つ者もいれば、別の仕事を選んだ者もいる。国が変わっても、学ぶ機会のない子供はまだいる。
彼女は若い教師に教室の鍵を渡し、その背中を見送った。これからの学校を動かしていくのは、自分一人ではない。それが嬉しかった。
二十一世紀。
百三十歳を超えたアーシャは、今も若い女性の姿を保っていた。
写真や映像で正体を知られぬよう表には出ず、信頼できる仲間に施設の運営を任せ、資金面や相談役として支えていた。
ある日、教育施設を訪ねた久遠は、廊下の奥から聞こえる授業の声に耳を澄ませた。
「こんにちはー。アーシャ、いるかなぁ?」
「まあ、久遠! また『近くまで来たから』ですか?」
「あれ、まだ何も言ってないよー」
「百年以上、同じ言い訳なんですもの」
二人は笑いながら、古い教材を保管した小部屋へ入った。棚には帳面や本が並び、その隅に、使い込まれた一枚の石板があった。
「……これ、まだ持っていたの?」
「ええ。久遠がくださった石板です」
アーシャは棚から取り出し、石筆の跡が残る表面を撫でた。
「六歳の時、初めて書いた手紙を見せたら、久遠は間違いを直してくださったでしょう?」
「覚えているよ。今度は私に英語を教えるって、先生になってくれたねぇ」
「ふふ。あの頃の私、ずいぶん得意そうでしたね」
「立派なアーシャ先生だったよ」
久遠は懐かしそうに笑った。アーシャも笑ったが、石板を戻す手つきは丁寧だった。
「久遠。今は私が直接教えている子は、ほんの少しなんです」
「そうなんだね」
「でも、私が教えた人たちが先生になって、今度は別の子供たちを教えてくれています。私が名前も知らない子たちにまで、学ぶ機会が届くようになりました」
窓の外では、若い教師が子供たちに文字を教えていた。
「そうかぁ……」
久遠は小さく息をついた。
「アーシャが続けてきたから、ここまで広がったんだね」
「私一人ではありません。手を貸してくれた人たちが大勢いました。それに……久遠が最初の一歩をくださったんです」
「私は石板を一枚あげただけだよ」
「それだけではありませんよ」
アーシャは微笑み、久遠の目を見た。
「でも、今日は昔の恩を数えるつもりはないんです。久遠、最近はちゃんと休んでいますか?」
「……私?」
「はい。人の心配ばかりして、ご自分のことは話してくださらないでしょう。私だって、もう小さな子供ではありません。辛いことがあったら聞かせてくださいね」
久遠は驚いたように瞬きをした。
「……そうだね。いつか、甘えさせてもらおうかな」
「いつか、ではなくて、いつでもですよ」
「うん。ありがとう」
アーシャは石板を棚に戻した。古い道具は、もう誰かに文字を教えるためには使われない。それでも、あの日から続いてきた時間が、そこに静かに残っていた。
午後、施設では子供たちに温かな食事が配られていた。
勉強をしたくても、お腹が空いていては身が入らない。だから食事も出す。それはアーシャが長年、大切にしてきたことだった。
久遠と一緒に配膳の様子を眺めていると、一人の少女が空になった器を持って近づいてきた。
「あの……お姉さん」
「なあに?」
「……もう一杯、食べてもいい?」
アーシャは思わず息を止めた。
ひび割れた大地。救済施設に漂う粥の匂い。両手で器を抱え、東洋の少年の服をそっと引いた五歳の自分。
隣を見ると、久遠も少女を見つめていた。二人の目が合う。
アーシャはしゃがみ込み、少女に微笑んだ。
「もちろん。まだお腹が空いているのね?」
「うん!」
「じゃあ、よそってあげるわ。熱いから、ふうふうして食べてね」
器に食事をよそうと、少女は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
少女は友達のところへ駆けていった。小さな背中を見送りながら、アーシャは目元を押さえた。
「……久遠。私も、あんなふうにお願いしましたね」
「うん。覚えているよ」
「あの時は、どうして久遠があんなに嬉しそうなのか、分かりませんでした」
アーシャは、食事を頬張る少女を見つめた。
「今なら分かります。あの子が喜んでくれたら、私も嬉しい。……本当に、それだけでいいんですね」
「そうだねぇ」
久遠の声は、少しだけ震えていた。
「大きくなったね、アーシャ」
「百三十歳を超えていますけど?」
「あはは。そうだったねぇ」
アーシャも笑った。頬に残った涙を拭うと、今度は久遠の手を取った。
「久遠。あの日のご飯、とても美味しかったです」
「うん。私も、アーシャと食べられて嬉しかったよ」
教室から、子供たちの声が聞こえた。食堂では、もう一杯をもらった少女が満足そうに笑っている。
久遠が差し出した一杯の食事は、長い年月を経て、別の少女の手にも届いた。
アーシャは久遠と並んで、その笑顔をいつまでも眺めていた。




