2話 返さなくていい恩
西暦1878年、インド・プネー。
アーシャは六歳になっていた。
前年の飢饉は、幼い彼女から毎日の食事さえ奪いかけた。けれど今は、朝になると学校へ出かけ、帰れば家族と夕食を囲める。
父は以前のように働けるようになり、母も笑うことが増えた。
そしてアーシャには、家族以外にも会いたくて仕方のない人がいた。
「久遠! 見て、見て!」
その日、家を訪ねてきた久遠を見つけるなり、アーシャは石板を抱えて駆け寄った。
「おっと。そんなに走らなくても、私は逃げないよー」
「いいから、これ!」
差し出された石板には、少し曲がった文字が並んでいた。何度も書いては消したらしく、端には白い粉が残っている。
「久遠にお手紙を書いたの!」
「へえ。もう文章が書けるようになったんだねぇ」
久遠はしゃがみ、ゆっくり文字を目で追った。学校が楽しいこと。友達ができたこと。そして、去年の食事がとてもおいしかったこと。
「ちゃんと読めたよ。ありがとう、アーシャ」
「ほんと? 間違ってない?」
「一つだけ、直した方がいいところがあるかな」
「どこ? 教えて!」
久遠が石筆で示すと、アーシャは真剣な顔で文字を書き直した。書き終えるなり、もう一度石板を突き出す。
「これでどう?」
「うん、ばっちりだ」
「えへへ! じゃあ、今度はもっと長いのを書くね!」
「楽しみにしているよ。でも、私への手紙ばかり書いていたら、先生に叱られない?」
「大丈夫! 計算も覚えたし、英語だって少し分かるの!」
「それなら今度、私に教えてもらおうかなぁ」
「久遠が生徒になるの?」
「うん。アーシャ先生、よろしくお願いします」
久遠が大げさに頭を下げると、アーシャは胸を張り、覚えたばかりの英語を披露した。
久遠はわざと一つ間違えてみせる。少女は得意そうに訂正し、二人で声を上げて笑った。
去年、石板を贈られた時には、一本の線さえ思うように書けなかった。その石板で今、久遠に手紙を書ける。
アーシャにとって、それが何より嬉しかった。
「ところで、アーシャ先生。今日の宿題はもう終わったのかな?」
「……あっ」
「おやおや?」
「今からやるもん!」
石板を抱えて家に駆け込む背中を見送り、久遠は声を立てて笑った。
それから数年、久遠は旅の合間にアーシャを訪ねた。
学校で習ったことを披露するのは、二人の習慣になっていた。
アーシャは教師にも驚かれるほど熱心に学び、読める本が増えるたび、世界が少しずつ広がるのを感じていた。
ある年、学校の行事で別の女子学校を訪れたアーシャは、講話を行う女性の名前を聞いて目を輝かせた。
サヴィトリバイ・フーレ。
飢饉の救済施設で、病人や子供たちの世話をしていた女性だった。
あの日、アーシャは久遠から、女の子にも学ぶ機会をつくってきた人だと教えられている。
講話では、文字を読み、自分の考えを持つことの大切さが語られた。アーシャは身を乗り出して耳を傾けた。
終わると、彼女は人の輪が途切れるのを待って声をかけた。
「あの、先生! 私、前に先生を見たことがあるんです」
「あら。どこでかしら?」
「去年よりもっと前、飢饉の時の救済施設です。私もそこでご飯をもらいました!」
アーシャは勢いよく話した。東洋から来た少年が温かな粥を配っていたこと。
家族が助かったこと。今はその人に支えられて学校へ通っていること。
サヴィトリバイは最後まで聞き、優しく頷いた。
「そう。あなたが元気に勉強できているのなら、嬉しいわ」
「先生は、どうして女の子たちに勉強を教えるんですか?」
「学べば、これまで知らなかった道を見つけられるからですよ。文字を読めれば、誰かに読んでもらうのを待たずにすむ。計算ができれば、自分で確かめられることも増えるでしょう?」
「……自分で、できることが増えるんですね」
「ええ。知ったことを、今度は誰かに教えることもできます」
その言葉に、アーシャは久遠が炊き出しの器を自分に運ばせてくれた日を思い出した。あの時も、小さな自分にできる仕事を見つけてくれたのだ。
「私、もっと勉強します!」
「それは素敵ね。でも、何になるかは急いで決めなくていいのよ」
帰宅したアーシャは久遠に手紙を書いた。サヴィトリバイと話したこと、学校がますます好きになったこと、いつか自分も人の役に立ちたいこと。
久遠からの返事には、彼女の成長を喜ぶ言葉と、最後にこんな一文があった。
『勉強もいいけれど、ご飯を抜かないようにね。』
「もう! 久遠ったら」
アーシャは笑いながら、手紙を大切にしまった。
西暦1884年。十二歳になったアーシャは、新しく開校したフジュルパガ女子学校へ進んだ。
英語も数学も、以前より難しい。けれど、知らないことを学ぶ喜びは変わらなかった。
そんなある日、仲のよかった友人が学校を辞めると告げた。
「家の仕事を手伝わなくちゃいけないの。もう通えないんだって」
「でも、あなた、勉強を続けたいって……」
「うん。だけど、家のことを放っておけないもの」
友人は困ったように笑った。アーシャは何も言えなかった。
自分が学び続けられるのは、久遠が学費も教材も用意してくれるからだ。
もしあの日、久遠に出会っていなければ、自分も友人と同じ場所に立っていたかもしれない。
ほどなくして久遠が訪ねてくると、アーシャは真っ先にその話をした。
「私、何とかしてあげたいんです。でも、何もできなくて……」
「その子は、学校を辞めたくないんだね」
「はい。久遠なら、助けられませんか?」
「できることはあるかもしれない。でも、まずは本人と家族の話を聞かないとね。学費が足りないのか、家で働く人が必要なのかで、助け方も変わるでしょう?」
「……お金を出せば、済むとは限らないんですね」
「うん。私にも解決できないことはあるよ」
アーシャは俯いた。
「私だけ学校に通っていて、いいんでしょうか」
「アーシャまで勉強をやめたら、その子は学校に戻れるのかな?」
「……戻れません」
「だったら、アーシャは学び続けていいんだよ。友達のことを心配する気持ちまで、なくさなくていいけれどね」
「でも、私には何ができますか?」
久遠は少し考え、彼女の石板を指差した。
「アーシャは勉強が得意でしょう。学校へ来られなくなった友達に、時間のある時だけでも習ったことを教えてあげるのはどうかな。もちろん、その子が望むならだけど」
「……私が、先生に?」
「昔、私の先生になってくれたじゃないかぁ」
「あっ」
六歳の頃、得意になって英語を教えたことを思い出し、アーシャは思わず笑った。
「お金がなくても、今のアーシャに渡せるものはあるんだよ」
それからアーシャは、放課後に時間が合う友人へ授業の内容を伝え始めた。はじめは説明が下手で、相手を困らせることもあった。
だが、分かるまで一緒に考え、友人が笑顔を見せてくれると、アーシャも胸が温かくなった。
友人は学校へ戻れたわけではない。それでも、覚えた文字を一緒に読み、本の続きを話す時間ができた。
ほかの子たちも少しずつ加わり、アーシャが教える日は、小さな学びの場になっていった。
「いつか、また学校で勉強したいな」
友人がそう言うたび、アーシャは「その時まで、一緒に勉強しよう」と答えた。以前なら何もできないと泣いていた。今は、できることが一つある。
あの時の久遠も、こんな気持ちだったのだろうか。
粥をおかわりした自分を、嬉しそうに見ていた久遠の顔が浮かんだ。
西暦1890年。
十八歳となったアーシャに、イギリスのベッドフォード・カレッジで学ぶ話が持ち上がった。
教師たちは彼女の成績と意欲を高く評価し、さらに学問を続ける道を勧めてくれたのだ。
アーシャは胸を躍らせた。もっと多くの本を読み、知らない考え方に触れられる。
いつか学校に通えない子供たちを助けるためにも、学びたいことが山ほどあった。
しかし、渡航費に学費、滞在費。必要な金額を聞いて、彼女は口を閉ざした。
幼い頃から、久遠には助けられてばかりだった。食事、学校、教材、困った時の相談。これ以上頼るのは、あまりにも申し訳ない。
留学を辞退しようと決めた頃、久遠が訪ねてきた。
「アーシャ、イギリスで勉強できるんだって? おめでとう!」
「……ありがとうございます。でも、お断りするつもりです」
「えっ。どうして?」
「お金が、かかりすぎますから」
「ああ、そこなら心配しないで。必要な費用は私が用意するよ」
当然のように言う久遠を見て、アーシャは胸が詰まった。
「……久遠。それが、つらいんです」
「つらい?」
「私は五歳の時、久遠に命を救ってもらいました。学校に通えたのも、ここまで勉強できたのも、久遠のおかげです。なのに、私は何一つお返しできていない……!」
言葉が止まらなかった。
「いつか働いて、お金を返して、恩返しをしなくちゃって思っていました。でも、留学までさせてもらったら、いつになれば返せるんですか? 私、いつまでも久遠に頼ってばかりで……」
「アーシャ」
久遠は椅子を引き、彼女の前に座った。
「一つ、聞いてもいいかな。アーシャは、本当は留学したいんだね?」
「……はい。とても」
「だったら、諦める理由が私への遠慮だけなら、諦めないでほしいな」
「でも……!」
「私はね、返してもらうためにアーシャを助けたんじゃないんだよ」
久遠の声は、昔と変わらず穏やかだった。
「子供は大人から、いろいろなものを受け取って育つでしょう。ご飯を食べさせてもらい、文字を教わって、困った時には手を貸してもらう。全部を一人ずつに返そうとしたら、きりがないよ」
「それでも、感謝しているんです。何かお返しがしたいんです」
「うん。ありがとう。その気持ちは嬉しいよ。でも、恩返しをしないと先へ進めないなんて、思わないで」
アーシャは顔を上げた。
「もし、どうしても何かしたいのなら……いつかアーシャが、自分の子供や次の世代の子たちにしてあげてほしいな。学びたい子がいたら、学べるように。困っている人がいたら、できる範囲で手を貸してあげる。それで十分だよ」
「……久遠に、返さなくてもいいんですか?」
「うん。返さなくていいよ」
あまりにもあっさりした返事だった。
アーシャは久遠の顔を見つめた。五歳の時、空腹で震えていた自分に、温かな器を渡してくれた人。お金がないと打ち明けた時も、困った顔ひとつしなかった人。
「……どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?」
「アーシャが元気でいてくれると、私も嬉しいからねぇ」
久遠は笑った。
「覚えているかな。あの時、アーシャはおかわりをもらいに来たでしょう? あんなに美味しそうに食べてくれて、私は嬉しかったんだ。学校の石板に初めて手紙を書いてくれた時もね」
アーシャの目から涙がこぼれた。
「私は、もらってばかりだと思っていました……」
「そうだったの? 私は、アーシャからたくさん嬉しい気持ちをもらってきたよ」
「……ありがとう、久遠……」
「どういたしまして。だから、今度はアーシャが自分のために選んでいいんだよ」
アーシャは涙を拭い、しばらく考えた。学校を辞めた友人の顔が浮かぶ。話を聞いてくれたサヴィトリバイの言葉も思い出した。
学んだことを誰かに教える喜びを、彼女はもう知っている。しかし、知らないこともまだ多い。
久遠のお金を返すために働くのではなく、自分の力でできることを増やしたい。その気持ちが、今ははっきりしていた。
「……私、留学したいです」
「うん」
「もっと学びたい。いつか、学びたいのに学べない子供たちに、私ができることをしたいんです」
「素敵な夢だねぇ」
「久遠に頼まれたからじゃありません。私が、そうしたいんです」
「それなら、なおさら応援したいな」
久遠はそう言って、いつもの調子で付け加えた。
「ただし、勉強に夢中になってご飯を抜かないこと。そこは約束してね」
アーシャは涙を残したまま、吹き出してしまった。
「もう……。久遠は昔から、そればかり!」
「大事なことだからねぇ」
「はい。ちゃんと食べます!」
やがて、イギリスへ旅立つ日が来た。
家族や教師に見送られ、荷物を持ったアーシャは久遠の前に立った。
「着いたら手紙を書きます。今度は石板じゃなくて、本当の手紙を」
「うん。楽しみにしているよ」
「勉強のことも、見つけたものも、いっぱい書きますね」
「あんまり難しい話だと、私が教わることになるかもしれないなぁ」
「ふふ。それなら私が先生ですね」
「そうだね、アーシャ先生」
六歳の頃と同じやり取りに、二人は笑った。
出発の時刻が近づく。アーシャは一度だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「久遠。私、行ってきます」
「うん。いってらっしゃい、アーシャ」
アーシャは大きく手を振り、歩き出した。
久遠はその背中が見えなくなるまで見送った。
かつて一杯の粥を受け取った少女が、今は自分の望む未来へ向かっている。
いつの日か彼女が誰かに差し出すものは、食事かもしれないし、学ぶための一冊の本かもしれない。
何を贈るかは、アーシャ自身が決めることだ。
久遠は穏やかに微笑み、彼女の旅路に幸いがあるよう願った。
受け取った優しさを、返さなくてもいい。
けれど、それを誰かへ渡すことはできる。
アーシャはそのことを胸に、新しい世界へと旅立っていった。




