1話 一杯の食事から
西暦1877年、インド・プネー近郊。
雨を待ち続けた畑には深い亀裂が走り、風が吹くたび乾いた土が舞い上がっていた。
村の井戸は水位が下がり、荷車を引いて町へ向かう家族の姿も珍しくない。
穀物の値段は日に日に上がり、わずかな蓄えを取り崩して暮らしていた家々からも、とうとう炊煙が消え始めていた。
五歳のアーシャは、食卓に置かれた器を覗き込んだ。薄い粥の底にはわずかな豆が沈んでいて、以前ならおかわりをねだった量にも満たない。
母が自分の器に手をつけていないことに気づき、アーシャは匙を握ったまま父の顔を見上げた。
「お父さん、今日もこれだけなの?」
「すまないな。もう少し辛抱しておくれ。町へ行けば何か手に入るかもしれないから」
「お母さんの分は?」
「私はあとでいただくわ。アーシャは冷めないうちに食べなさい」
母は笑おうとしたが、その声は疲れていた。アーシャにも、両親が自分よりずっと少なく食べていることは分かっていた。
だから粥をゆっくり口に運び、空になった器を見ても、もう一杯とは言わなかった。
その日の午後、父は町の外れに設けられた救済施設で食事が配られているという話を聞いて帰ってきた。
遠い東洋から来た少年のような姿の人物が、現地の人々と協力して炊き出しを始めたらしい。
父はその話を聞くなり、驚いた顔で何度も詳しい様子を尋ねたという。
「その人を知っているの?」
不思議がるアーシャに、父は少し考えてから答えた。
「昔から、私たちの家族を気にかけてくださる方なんだ。会えるかどうかは分からないが、明日は皆で行ってみよう」
父は月読の血を引く一族の子孫で、普通の人よりも長く生きていた。
けれどアーシャは、まだその意味を知らない。明日には温かいご飯を食べられるかもしれない。そのことだけを胸に、夜が明けるのを待った。
翌朝、救済施設へ続く道には、乳飲み子を抱く母親や杖をついた老人が列を作っていた。
アーシャは父の手を握り、周囲に漂う豆と穀物の匂いを懸命に追いかけた。建物の前には大きな鍋が並び、火の番をする人、水を運ぶ人、器を洗う人が声を掛け合いながら働いている。
「あそこ、いい匂いがするね」
アーシャが囁いた途端、お腹がきゅうと鳴った。近くの女性に笑われて恥ずかしくなり、父の背中へ隠れると、母がそっと肩に手を添えてくれた。
列の先にいたのは、黒髪の東洋人だった。見た目は少年のように若いのに、年上の働き手たちも自然と彼に相談を持ちかけている。
彼は鍋のそばで粥をよそい、老人には器を持ちやすいよう手渡し、小さな子には熱さを確かめるように声をかけていた。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね。食べ終えても足りなかったら、また声をかけてくれるかな」
ようやく順番が来ると、その人は父の顔を見て、ほっとしたように目を細めた。
「おや、無事だったんだね。よかった。ずっと気になっていたんだよ」
「おかげさまで家族も一緒に来られました。本当にありがとうございます」
「お礼は後でいいから、まずは食べよう。……あれ、後ろにいるのは?」
父の服を握りしめたままのアーシャに気づくと、彼はしゃがんで目の高さを合わせた。
「こんにちは。私は久遠。君のお名前は?」
「……アーシャ」
「アーシャかぁ、可愛い名前だね。お腹は空いている?」
「……うん」
「それじゃあ、たくさん食べてね」
差し出された器には、湯気の立つ粥がたっぷりと入っていた。ところがアーシャは受け取れず、両手を胸の前で握り合わせた。父が食べ物を買うお金に困っていたことを思い出したのだ。
「あのね……私、お金を持ってないの」
「お金?」
「こんなにご飯をもらうなら、お金がいるでしょう?」
久遠は一瞬目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「ここではいらないよ。お腹を空かせた人に、食べてもらうために作ったご飯だからね」
「本当に、いいの?」
「もちろん。ほら、冷めないうちに食べてごらん。熱いから、ふうふうしてね」
アーシャは恐る恐る器を受け取り、両手に伝わる温かさに目を見開いた。
息を吹きかけて一口食べると、柔らかな穀物と豆の味が口いっぱいに広がる。
豪華な料理ではない。けれど、空腹のまま幾日も過ごしてきたアーシャには、今までで一番のご馳走だった。
「……おいしい!」
「そう? よかったぁ」
その声が嬉しくて、アーシャはもう一口食べた。久遠は隣の列にも目を配り、父に家族が座れる場所を教えると、次の人の器へと粥をよそい始めた。
アーシャは夢中で食べ、気づけば器を空にしていた。
父も母も久しぶりに温かい食事を口にしている。二人の顔が少し穏やかになったことが嬉しかったが、アーシャのお腹はまだ満たされていなかった。
列が短くなったのを見計らって、彼女は空の器を抱え、再び鍋のところへ歩いていった。久遠の服の端をそっと引くと、彼はすぐに振り向いてくれた。
「おや、アーシャ。美味しかった?」
「うん! あのね……もう一杯、食べてもいい?」
最後の言葉は小さくなったが、久遠は鍋の中を確かめ、嬉しそうに頷いた。
「もちろん。まだあるから大丈夫だよ。ちょっと待ってね」
たっぷりよそわれた粥を受け取りかけて、アーシャは久遠の手を見た。朝からずっと働いているのに、彼が何か食べているところを見ていない。
「ねえ、久遠は食べないの?」
「私はもう少し後かな。まだ片づけもあるしねぇ」
「でも、久遠もお腹が空くでしょう?」
「空くよ。いい匂いがして、さっきから困っているくらいだ」
「じゃあ、一緒に食べようよ!」
久遠は意外そうな顔をしたあと、声を立てて笑った。
「それは嬉しいお誘いだね。今並んでいる人たちに配り終えたら、私の分も持ってくるよ」
「約束だよ!」
アーシャは近くの腰掛けに座り、器が冷めないよう両手で包んで待った。
途中で何度も匙を持ち上げそうになったが、久遠が来るまでは食べないと決めていた。しばらくすると、仕事を協力者に引き継いだ久遠が自分の器を持って現れた。
「お待たせ。あれ、まだ一口も食べてないの?」
「一緒に食べるって言ったもん!」
「そうだったね。ありがとう。それじゃあ、いただきます」
二人で並んで粥を食べ始めると、アーシャは久遠の器を覗き込んだ。
同じものが入っていると分かって、ようやく安心したように笑う。しばらくして、彼女はずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、久遠。どうしてみんなにご飯をあげるの?」
「どうして、かぁ。アーシャはお腹が空いていたとき、つらかったでしょう?」
「うん。夜もお腹が鳴って、眠れなかったの」
「じゃあ、今はどう?」
「嬉しい! お腹があったかくなった!」
「私もね、みんなにそうなってほしいんだよ。このご飯を作るのは私だけじゃないし、食べ物を届けてくれる人も、運んでくれる人もいる。
皆で少しずつ頑張れば、こうして誰かに食べてもらえるでしょう?」
アーシャは匙を止め、真剣な顔で考え込んだ。
「でも、久遠は何かもらえるの? お金とか、お菓子とか」
「何ももらわないよ」
「ええっ、どうして?」
「だって、アーシャがさっき『おいしい』って笑ってくれたでしょう。私はあれがとても嬉しかったんだ。それで十分なんだよ」
「……私が笑ったから?」
「うん。もちろん、笑う元気がない人もいるけれど、その人が少しでも楽になれたら嬉しい。そういうことかな」
言葉の全部は分からなかった。それでも、久遠が自分の笑顔を喜んでくれたことは分かった。
アーシャは粥をもう一匙口に運び、今度は久遠に向かってにっこり笑った。
「じゃあ、私、もっと笑うね!」
「あはは、無理に笑わなくてもいいんだよ。美味しいときに笑ってくれたら、それでいいからね」
その日からアーシャは、父に連れられて施設を訪れるたび、久遠の姿を探すようになった。
久遠は一家の窮状を父から聞いて食糧と資金を用意してきたのだが、周辺には同じように困っている人が大勢いたため、現地の協力者と相談して炊き出しを続けていた。
父も母も、体力が戻るにつれて食糧の運搬や片づけを手伝うようになっていた。
「久遠! 今日は私もお手伝いする!」
ある朝、勢いよく駆け寄ったアーシャを見て、久遠は大鍋と少女の背丈を見比べた。
「ありがとう。でも火のそばは熱いから危ないねぇ。あそこにある器を、配る場所まで一つずつ運んでもらえる?」
「うん! 任せて!」
アーシャは何度も往復しながら器を並べた。けれど大人たちが一度にたくさん運ぶ姿を見て、自分も早く終わらせようと器を重ねて抱えてしまう。
歩き出した途端に一番上が傾き、慌てて足を止めたところを久遠が支えた。
「おっと、危ない。怪我はない?」
「……ない。ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも、早く運ぶより、割らずに届ける方が大事なんだ。一つずつで十分だからね」
「……うん。私、ちゃんと運ぶ」
次からは器の縁を両手で持ち、足元を確かめながら歩いた。すべて並べ終えると久遠が「助かったよ」と礼を言ってくれたので、アーシャは胸を張った。
食事をもらうために来た自分が、今度は誰かの食事を用意する手伝いをした。その小さな出来事が、何より誇らしかった。
ある日の午後、手伝いを終えて休んでいると、アーシャは施設の奥で忙しく働く一人の女性に気づいた。
疲れた人に腰掛けを勧め、病人の様子を尋ね、ときには手伝いの人々へ落ち着いた声で指示を出している。
子供たちが近づくと、その人は仕事の手を止め、目線を合わせて話を聞いていた。
「ねえ、久遠。あの人、誰?」
「ああ、サヴィトリバイさんだよ。女の子も学校で学べるように、長い間頑張ってきた人なんだ」
「女の子も、学校に行くの?」
「もちろん。アーシャだって文字を覚えたり、計算を習ったりできるんだよ」
アーシャは驚いた。自分の知らないことをたくさん知っている大人たちは、どうやってそれを覚えたのだろう。
久遠が文字を読めることも、食糧の数を数えながら仕事を進めることも、今まではただ不思議だった。
「学校に行ったら、私も久遠みたいになれる?」
「私みたいにならなくてもいいけれど、できることはたくさん増えると思うよ。勉強して、どんな人になりたいかはアーシャが決めればいいんだ」
「私ね、困ってる人にご飯をあげられる人になりたい。今日みたいに、お手伝いもするの!」
「そうかぁ。それは素敵だね。でも、今はまず元気に遊んで、いろいろなことを覚えよう。将来のことは、ゆっくり考えればいいからね」
久遠にそう言われても、アーシャの気持ちは変わらなかった。
自分がもらった温かい食事を、いつか誰かにも渡したい。そのために何を学べばいいのかは分からないが、学校へ行くのが楽しみになった。
ほどなくして、久遠は父母と話し合い、アーシャの学費や教材を援助することを決めた。ある日、施設を訪ねた少女を呼び止め、布に包んだ小さな石板と石筆を手渡した。
「はい、アーシャに贈り物だよ」
「お菓子?」
「残念、お菓子じゃないんだ。学校で文字を書くときに使う道具だよ」
「……これ、私の?」
「うん。大切に使ってね。学校へ通うためのことも、お父さんとお母さんと相談してあるから、安心して勉強しておいで」
アーシャは石板を抱きしめたが、すぐに心配そうな顔をした。
「久遠、こんなにいろいろくれて、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。アーシャが元気に通って、楽しいことをたくさん見つけてくれたら、私は嬉しいからね」
それなら何か書いてみようと石筆を走らせたものの、石板には曲がった線しか残らない。困った顔をしていると、久遠が隣に座り、簡単な文字を一つ書いてみせた。
「これも、練習したら書けるようになるよ」
「私も書けるようになったら、久遠に見せる!」
「うん。楽しみにしているよ」
その後、施設の仕事は少しずつ現地の協力者へ引き継がれていった。
飢饉が終わったわけではないが、食糧を運ぶ手段や配給のための資金は整えられ、久遠が別の土地へ向かっても活動を続けられるよう準備が進んでいた。
ある夕方、片づけをする久遠のところへアーシャが駆けてきた。石板の入った包みを大事そうに抱え、なぜかいつもより真剣な顔をしている。
「久遠、明日もここにいる?」
「うん、明日はいるよ」
「じゃあ、ずっといる?」
「ずっとは難しいかな。ほかにも行かなきゃいけない場所があるからね」
「……もう会えないの?」
「そんなことないよ。また様子を見に来るし、お父さんを通して手紙をもらうこともできるよ」
アーシャはしばらく黙っていたが、思いついたように包みをぎゅっと抱き直した。
「じゃあ、私が字を書けるようになったら、久遠にお手紙を書く。ありがとうって書くの!」
「それは嬉しいね。届いたら大切に読むよ」
「約束だからね!」
「うん、約束する」
久遠がしゃがむと、アーシャはその首に両腕を回して抱きついた。小さな身体をそっと受け止めながら、久遠は「元気でいてね」と囁く。アーシャは何度も頷き、ようやく腕をほどいた。
「久遠、大好き! またね!」
「ありがとう、アーシャ。またね」
父に手を引かれて帰る途中も、アーシャは何度も振り返った。久遠は仕事に戻ることなく、少女が見えなくなるまで手を振っていた。
やがて夕暮れの道に小さな姿が消えると、久遠は積み上げられた空の器へと目を向けた。飢えに苦しむ人を全員救うことはできない。
それでも、昨日まで明日の食事さえ心配していた少女が、今は学校で何を習おうかと胸を躍らせている。
久遠はそのことを静かに喜び、残っていた器を一つ手に取った。
一方のアーシャは、石板を胸に抱いて歩いていた。
最初に覚える文字は何だろう。久遠に宛てた手紙には、どんなことを書こう。そんな想像をしているうちに、口元が自然とほころんだ。
あの日、差し出された一杯の温かな食事。
アーシャはまだ知らなかったが、その優しさは、これから彼女が誰かに手を差し伸べるときの、小さく確かな始まりになっていた。




