5話 また明日も食べにおいで
西暦1888年、ナポリ。
トラットリア・リナルディの厨房では、今日も父子の怒鳴り声が響いていた。
「だから、店は俺に任せろって言ってるだろ!」
「何度も言わせるな! 俺の料理を超えてから言え!」
二十二歳のマッテオは仕込みも仕入れも任されていた。それでもロレンツォは、ミラノへの移転準備を進めながら「まだ早い」を繰り返していた。
店員たちが知らん顔で皿を拭いているところへ、久遠が入ってきた。
「こんにちは。今日も賑やかだねぇ」
「那岐様! ちょうどよいところに!」
「久遠、聞いてくれよ! 親父がいつまでも店を譲らねえんだ!」
両側から訴えられた久遠は、面白そうに二人の顔を見比べた。
「前から考えていたんだけど、そんなに料理の腕で決めたいなら、ちゃんと勝負してみたらどうかなぁ?」
「勝負?」
父子の声が重なった。
「うん。二人とも自慢の料理を作って、誰かに食べ比べてもらうんだよ。口で言い合うより分かりやすいでしょ?」
マッテオが先に笑った。
「面白え! 望むところだ!」
「ふん、泣きっ面をかくなよ。俺は手加減しねえぞ!」
「頼んでもしねえよ!」
久遠はさらに、勝負は一皿ではなく三品の総合評価にしようと言った。決まったのは、魚介のスープ、ラグーのマカロニ、サルトゥ・ディ・リーゾ。
いずれも親子が作り慣れたナポリ料理だった。
「で、誰に審査してもらうんだ?」
「それは私に任せてくれる?」
「久遠がやるんじゃねえのか?」
「私も食べるけど、私一人じゃまた決まらないからねぇ」
思い当たる節のあるマッテオは口を閉じた。前に二人分のラグーを出したときも、久遠はどちらも美味しいと言って完食しただけだった。
料理対決の日は、店を休みにした。朝から二組の鍋や食材を並べ、父子はそれぞれの持ち場に立っている。
やがて久遠が連れてきた審査員を見て、ロレンツォの顔が引きつった。
「……那岐様。どうして月読まで呼ぶんですか!」
「ロレンツォのことを昔から知っているし、ちょうどいいと思ってねぇ」
久遠の隣には、いつもどおり涼しい顔の月読と、上品な衣装をまとった娘のエレノアが立っていた。
「何だ、ロレンツォ。私に味を見られると困るのか?」
「そんなことはありません! ですが、あなたとは昔から意見が合わんでしょう!」
「料理の腕を判定するのに、昔の口論を持ち出す必要はない」
「それを持ち出したのはあなたでしょうが!」
マッテオは堪えきれずに吹き出した。
「ははっ、親父! 月読の前じゃ相変わらずだな!」
「お前もそっくりだ。父親の反論の仕方まで同じだな」
「げっ、俺は親父とは違うぞ!」
「だからそっくりなんだよ」
久遠が笑い、エレノアが小さく咳払いした。
「お父様。今日は料理をいただきに来たのでしょう? 勝負が始まる前に疲れてしまいますわ」
月読はようやく口を閉じた。エレノアは、三品を試食して十点満点の総合点をつけると説明する。皿は作り手が分からないように運び、出す順も変える。
「文句は、食べ終えてからにしてくださいね」
マッテオとロレンツォは顔を見合わせ、同時に鼻を鳴らした。
厨房に火が入ると、さっきまでの口喧嘩が嘘のように、二人の手が素早く動き始めた。
ロレンツォは迷いなく魚介を下処理する。マッテオは魚の骨から取った煮汁を確かめ、貝と魚の身を入れる順番を考えた。同じ食材でも仕事ぶりは違った。
「そんなに鍋を覗き込んで、魚に挨拶でもしてんのか?」
「火の通りを見てるんだよ。親父こそ焦がすなよ!」
「誰に向かって言ってやがる!」
調理台の間で言葉は飛び交うが、包丁を動かす手は止まらない。
奥の鍋では早くから煮込んだラグーが静かに泡を立て、別の場所ではサルトゥの米と具材が準備されていた。
三品とも手間のかかる料理だが、勝負となれば二人とも疲れた顔など見せなかった。
食堂の客席では、久遠が香りに誘われて厨房の方を覗いている。
「わあ、いい匂い。もう食べられる?」
「父上、まだ始まったばかりです」
「そうだよねぇ。お腹が空いてきちゃったなぁ」
月読がため息をつき、エレノアが微笑む。マッテオはそのやり取りを聞きながら、久遠には自分の皿を真っ先に食べてほしいと思った。
だが、今回は父との正式な勝負だ。味で黙らせるしかない。
最初に運ばれたのは、魚介のスープだった。
一方は、貝と魚が惜しみなく入った豪快な一皿。
トマトとニンニクの香りが立ち、魚介の旨味が口いっぱいに広がる。もう一方は、煮汁の深い味わいを保ちながら、魚の身が柔らかく、貝にも火が入りすぎていない。
「こちらは力強い味ですわね。魚介をたっぷり使っていて、食べ終えた後まで香りが残ります」
エレノアが一皿目を評すると、月読も頷いた。
「もう一方は、素材ごとの扱いが丁寧だ。スープに旨味がよく出ているのに、身が硬くなっていない」
久遠はどちらも美味しそうに飲み、パンで皿に残った汁まで拭っている。
「うん、温まるねぇ。どっちもおかわりしたくなるよ」
「おかわりは審査が終わってからだぜ、久遠!」
「ええー、そうなの?」
料理を片付けながら、マッテオは父の横顔を盗み見た。ロレンツォは何も言わない。だが、自分の皿もきちんと評価されていると分かり、負ける気はますますなくなった。
続いて出したのは、ナポリ風ラグーをたっぷり絡めたマカロニだった。
ロレンツォのラグーは、長い時間をかけて肉とトマトの旨味を重ねた、どっしりとした味わいだ。腹を空かせて店に来る客が、いつまでも愛してきた味である。
マッテオのラグーも食べ応えは負けていないが、肉の香りやソースの濃さを細かく調整し、最後まで飽きずに食べられるよう仕上げていた。
「この味……」
久遠はマッテオの皿を食べて、嬉しそうに顔を上げた。
「前に食べたときより、もっと美味しくなったねぇ。マッテオ、たくさん工夫したんだね」
「へへっ、もちろんだ!」
「那岐様、私の方も負けておりませんぞ!」
「うん。ロレンツォのも美味しいよ。昔からこの味が好きなんだぁ」
父子はなおも言い争おうとしたが、月読が皿を置いて一言だけ告げた。
「二人とも、審査が終わるまで黙っていろ」
それでもマッテオは、父に自分のラグーを食べてもらいたくてたまらなかった。審査員への提供が済むと、小皿に一口分を取り、ロレンツォの前へ差し出す。
「なあ親父。ちょっと食ってみろよ」
「勝負の途中だぞ」
「俺たちも互いの味ぐらい分かってた方がいいだろ」
ロレンツォは渋い顔をしながら口に運び、ゆっくり噛んだ。そのまましばらく黙っている。
「……どうだよ?」
「悪くねえ」
「それだけかよ!」
「まだ勝ったわけじゃねえだろ!」
すぐに怒鳴り返され、マッテオも声を張り上げた。だが、父が小皿を空にしたことが、妙に嬉しかった。
三品目は、サルトゥ・ディ・リーゾ。型から外した焼き米料理を切り分けると、中から肉団子やチーズ、豆などの具材が顔を出した。
ロレンツォのサルトゥは、具が惜しみなく詰まり、香ばしい米と濃い味付けがよく合う。
マッテオの方は、米の硬さや具の水分を細かく調整し、切り口まで綺麗に整えていた。どちらもナポリの料理として親しみのある味であり、食べる楽しさがあった。
「こちらは見事な焼き上がりですわ。切っても崩れず、具の味がよくまとまっています」
エレノアがマッテオの皿に感心すると、ロレンツォが腕を組む。
「俺のは具の量で負けちゃいねえぞ!」
「ええ、こちらも食べ応えがあって素晴らしいですわ。でも、審査中に口を出さないでくださる?」
「……はい」
滅多にない父の素直な返事に、マッテオは吹き出しそうになる。久遠は最後の一口まで楽しそうに食べ終え、両手を合わせた。
「ごちそうさま。いやぁ、今日は本当に幸せだねぇ」
採点の間、厨房では父子が落ち着きなく動き回っていた。
「親父、今のうちに負けたときの挨拶でも考えとけよ」
「お前こそ、皿洗いに戻る覚悟をしとけ!」
やがて客席に呼ばれ、二人は審査員の前へ立つ。
「では、総合点を発表しますわ。最初は那岐様からお願いします」
久遠は迷いなく答えた。
「私は二人とも十点かなぁ」
「那岐様!」
「久遠!」
また父子の声が重なった。
「だって、どちらも本当に美味しかったんだもの。私には決められないよー」
久遠は悪びれもせず笑っている。
次に月読が告げた。
「ロレンツォ、十点。マッテオ、九点」
「よし!」
ロレンツォが拳を握り、マッテオは露骨に顔をしかめる。
「何で親父の方が上なんだよ!」
「長く作り続けた料理の完成度に、一日の長がある。ただし、お前の工夫も評価している。九点は低い点ではない」
「ふん、まだまだだな!」
「親父、うるせえ!」
最後にエレノアが口を開いた。
「私はロレンツォに九点、マッテオに十点をつけます」
マッテオは目を見開く。エレノアは落ち着いた声で続けた。
「ロレンツォの料理は素晴らしいですわ。ただ、マッテオは伝統の味を損なわず、新しい技術を生かしていました。その工夫に十点を差し上げたいと思います」
「じゃあ……」
「合計は、二十九点対二十九点。同点ですわ」
「何だよ! 同点かよ!」
「ふん、結局俺を超えられなかったな!」
「親父だって俺に勝ってねえだろ!」
勝負が終わった途端、二人はまた言い争いを始める。月読は呆れたように眉を寄せたが、エレノアは微笑んでいた。
「どちらも立派な料理人だということでしょう。いい加減、お互いの腕を認めたらどうですの?」
「認めてるよ! だから勝ちてえんだ!」
マッテオがそう言うと、ロレンツォも腕を組んだまま頷いた。
「俺だって、こいつが下手だとは言ってねえ!」
久遠は二人を見比べ、ひときわ楽しそうに笑った。
「あはは。やっぱりそっくりだねぇ」
審査員たちが帰った後、ロレンツォはマッテオを厨房へ呼んだ。
親子で片付けを始めると、ロレンツォは残しておいた息子のラグーをもう一度口にした。
「……お前、これをどうやって作った?」
「前に教えたろ。親父のやり方を基本にして、パリで習った火の入れ方やソースの作り方を少し変えたんだ」
「フランス料理にしたかったわけじゃねえんだな」
「当たり前だろ。ここはナポリだぜ。うちの客が腹いっぱい食って、また来たくなる料理じゃなきゃ意味ねえよ」
ロレンツォは空になった皿を見つめた。マッテオは、父が黙っている理由が分からず、少し居心地が悪くなる。
「……何だよ。まだ文句があるのか?」
「いや」
父は皿を置き、息子の顔をまっすぐ見た。
「ナポリの店は、お前に任せる」
「……え?」
「料理の腕はもちろんだが、お前は客のことも店のこともよく見てる。俺がいなくても、やっていけるだろう」
マッテオはすぐに返事ができなかった。何年も欲しかった言葉なのに、実際に聞くと胸の奥が熱くなり、気の利いたことが何一つ浮かばない。
「……本当か、親父?」
「ああ。ただし勘違いするな。俺の料理を超えたわけじゃねえからな!」
その言葉を聞いた途端、マッテオはいつもの調子を取り戻した。
「分かってるよ! 次は絶対に勝ってやる!」
「十年早え!」
「十年もかけねえよ!」
気づけば二人とも笑っていた。
それからロレンツォは予定どおりミラノへ移り、新しい店を開くことになった。
長く親しんだナポリの食堂を離れるのは寂しくないはずがなかったが、息子に任せると決めた以上、細かな口出しはしないつもりだった。
もっとも、別れ際まで厨房の鍋の置き方には文句を言っていた。
「それから、二十年ほどしたらまた店のことを相談するぞ。俺たちは普通の人間みたいに歳を取らねえんだからな」
「分かってるって。そっちの店も、俺が見に行ってやるよ」
「客として来るなら歓迎するが、勝手に厨房へ入るなよ!」
「親父こそ、うちに来て仕込みに口出すなよ!」
結局、最後まで喧嘩をしていたが、荷車が動き出すとマッテオは大きく手を振った。父も振り返り、いつものように片手を上げた。
ロレンツォがミラノへ移ってからも、トラットリア・リナルディには毎日客が訪れた。
最初のうちは、昔からの常連が「親父さんは元気か」と尋ねてきた。マッテオが「向こうでも偉そうに鍋を振ってるよ」と答えると、みんな声を上げて笑った。
厨房には今日もラグーの香りが満ちている。父から教わった作り方を大切にしながら、自分の技術で仕上げる一皿は、今では店の自慢の料理になっていた。
夕暮れ時、食事を終えた家族連れが席を立った。母親に手を引かれた小さな子供が、出入り口のところでマッテオを振り返る。
「ねえ、お兄ちゃん。今日のマカロニ、すごく美味しかった!」
「おう、ありがとな!」
「また食べに来てもいい?」
「もちろんだ!」
子供は嬉しそうに笑った。その顔を見たとき、マッテオは幼い頃の父を思い出した。ロレンツォはいつも、食事を終えた客へ大きな声をかけていた。
あの頃は、毎日同じようなことを繰り返す父の何がそんなに楽しいのか分からなかった。
今なら分かる。自分の作った料理を喜んで食べてくれる人がいて、また来たいと言ってくれる。それはどんな立派な店の評判にも負けないほど、嬉しいことだった。
マッテオは腰に手を当て、父譲りの大きな声で呼びかけた。
「おう! また明日も食べにおいで!」
子供が元気よく手を振り、家族と一緒に通りを歩いていく。マッテオはその背中を見送ると、次の注文を告げる店員の声に振り返った。
「はいよ! 今作るからな!」
鍋の蓋を取ると、温かな湯気とともに、いつものナポリの香りが立ち上った。




