4話 跡を継いでやるって言ってんだろうが!
西暦1885年、ナポリ。
トラットリア・リナルディの厨房では、朝から肉の焼ける香りが立ち込めていた。大鍋の前で腕を組んだマッテオは、煮込み始めたばかりのラグーを睨みつけている。
十九歳になった彼は、父ロレンツォのもとで本格的に料理を学ぶようになり、今では仕込みの多くを任されていた。
パリから戻って以来、父の得意料理を何度も作っている。肉もトマトも玉ねぎも、父が使うものと同じだ。手順を間違えたつもりもない。それなのに、出来上がるラグーはどうしても父の味にならなかった。
「親父、ちょっと味見してくれよ」
ロレンツォは別の鍋から顔を上げ、差し出された匙を口へ運んだ。しばらく黙っていたかと思うと、眉間に皺を寄せる。
「火が強え。肉を急いで焼いただろ」
「ちゃんと焼き色を見たぜ?」
「色だけ見てどうする。鍋の音も聞け。焦って火を強めるから、ここで香りが荒くなるんだ」
「香りが荒いって、分かるように言えよ!」
「だったらもう一度作れ!」
父はそう言って自分の鍋へ戻った。マッテオは唇を尖らせたものの、匙に残ったソースを舐め、もう一度鍋の火を確かめる。
以前の彼なら、こんな古臭い料理を覚えて何になると反発しただろう。だが今は、長年この食堂の客を喜ばせてきた味を、どうしても自分の手で作りたかった。
「くそっ、明日こそ同じ味にしてやる」
「明日じゃなくて今日の客に出す料理を心配しろ!」
振り返りもせずに返す父の声に、マッテオも負けじと声を張り上げた。
「分かってるって!」
開店前からこれでは先が思いやられる。そう言いながらも、店で働く者たちは慣れた様子で皿を並べていた。
父の味を追いかける一方で、マッテオにはどうしても試したいことがあった。パリのレオ・モローの店で学んだ技術を、この食堂の料理に生かすことだ。
肉の焼き方を少し変え、煮汁を丁寧に扱い、仕上がりに合わせて火を調整する。難しい材料を使うわけではない。それでも工程を一つ変えるたびに、ラグーの味は微妙に違ってくる。
ある日、マッテオは納得のいく一皿を作り上げた。皿の中央にマカロニを整え、ソースをほどよくまとわせる。見た目も香りも申し分ない。本人はすっかり自信をつけ、父の前に皿を置いた。
「さあ、食ってみてくれ。今度のは自信作だ!」
「何だ、また妙に気取った盛り付けだな」
「いいから!」
ロレンツォは一口食べ、続けてもう一口運んだ。その顔つきが少しだけ和らぐ。
「……美味えな」
「だろ! パリで覚えたやり方を使ったんだ。肉の旨味が前より出てるだろ?」
「出てる。だが、これじゃ足りねえ」
「何が?」
「量だよ、量! うちの客は腹を空かせて来るんだぞ。こんな小綺麗な一皿で帰せるか!」
「味の話をしてんだろうが!」
「店の料理の話をしてんだ!」
どちらも譲らず、結局、昼の賄いで常連客にも試してもらうことになった。
客たちは口々に美味しいと言った。マッテオが胸を張ったのも束の間、港で荷を運ぶ男が皿を持ち上げ、笑いながら言う。
「これならもう一皿欲しいな。いつもの山盛りのやつで頼むよ」
隣に座る職人も、味は気に入ったが仕事の後にはもっと食べたいと頷いた。
「ほら見ろ」と父は得意げだったが、マッテオも黙ってはいない。
「だったら量を増やせばいいんだろ。味まで元に戻す必要はねえ!」
次の日から、また試作が始まった。客が満足する量を盛っても味が重くなりすぎないようにし、肉とトマトの濃厚さは残す。仕上げの細かな工夫はしても、食堂らしい気取らなさを失わない。
何度も作り直した末、マッテオはようやく自分らしいラグーを作れるようになった。
試食したロレンツォは、皿を空にしてから短く言った。
「これなら、うちの客に出せるな」
「それだけかよ。もっと褒めてもいいだろ!」
「褒められたきゃ、もっと腕を磨け!」
相変わらず厳しい父だったが、翌日からそのラグーを正式に店で出すことを認めてくれた。マッテオは文句を言いながらも、厨房へ戻る足取りを弾ませた。
西暦1886年。二十歳になったマッテオの料理を目当てに、店を訪れる客が増えていた。
昔からの常連はロレンツォのラグーを注文し、若い客の中にはマッテオの味を好む者もいる。どちらが美味しいかという話題が上がるたび、当の親子は真っ先に口を挟んだ。
「もちろん俺の方が上だ!」
「何言ってんだ、親父。もう俺の料理の方が評判いいぜ!」
「誰がそんなことを言った!」
「そこのお客さん!」
「俺を巻き込むなよ!」
突然指さされた客が両手を上げると、店中に笑い声が広がった。騒々しい父子の言い争いも、すっかりこの食堂の日常になっていた。
そんな午後、久遠が店の扉を開けた。
「こんにちは。今日は何か美味しいもの、あるかなぁ?」
「那岐様! よくいらっしゃいました!」
ロレンツォがすぐに席を勧める。その横から、マッテオが顔を覗かせた。
「久遠! ちょうどいいところに来たな。俺の新しいラグーを食ってくれよ!」
「何を言ってる。那岐様にはまず俺の料理をだな――」
「親父のはいつも食ってるだろ!」
久遠は二人を見比べて、楽しそうに笑う。
「あはは。じゃあ、両方もらおうかな」
しばらくして、久遠の前に二皿のマカロニが並んだ。どちらも同じナポリの料理なのに、香りの立ち方も口当たりも少しずつ違う。
久遠はまずロレンツォの料理を食べた。
「うん。やっぱりロレンツォのラグーは美味しいねぇ。食べるとほっとするよ」
「ありがとうございます、那岐様!」
次にマッテオの料理を口に運ぶ。こちらもゆっくり味わってから、嬉しそうに頷いた。
「マッテオのも美味しいね。前よりずっと味がまとまってる。たくさん練習したんだねぇ」
「へへっ、そうだろ!」
親子は互いの顔を見合わせ、ほとんど同時に身を乗り出した。
「それで、どちらの方が美味しいですか!」
「なあ久遠、俺の方だよな!」
「うーん……私はどっちも好きだよー」
「那岐様! それでは答えになっておりません!」
「そうだぜ! どっちか決めてくれよ!」
「ええー? だって本当に両方美味しいんだもの」
久遠は困ったように笑いながら、最後まで二皿を綺麗に平らげた。
帰り際、彼が「ごちそうさま。また食べに来るね」と言うと、親子は揃って嬉しそうな顔をした。だが、扉が閉まった途端、どちらの料理を先に食べたかでまた言い争いを始める。
マッテオには分かっていた。父の料理は確かに美味い。自分が何度挑んでも、長年積み重ねてきた技術に驚かされることがある。それでも、いつまでも父の後ろに立っているつもりはなかった。
翌西暦1887年、マッテオは二十一歳になった。
今では仕入れの手配や店員への指示も任され、ロレンツォが厨房を離れている間は、客の注文を滞りなく捌けるほどになっていた。それでも父は、何かにつけて「まだまだだ」と口にする。
ある日の午後、久遠が訪ねてきた。店の営業がひと段落した頃、ロレンツォは彼を奥の部屋に招き入れる。
マッテオは次の日の仕込みをしていたが、開いた扉の向こうから自分の名前が聞こえて、思わず耳を澄ませた。
「そろそろ移った方がいい頃だねぇ」
「ええ。私もそう思っています。髭を伸ばしても、昔からのお客には顔を覚えられていますからな」
父は四十九歳になる。だが、月読の血を濃く引くその顔は、マッテオが幼い頃からほとんど変わっていなかった。
本人は髭や服装を変えて年相応に見せようとしていたが、同じ街で暮らし続ければ不自然さを隠しきれない。
そのため、一族には時期を見て住む土地や仕事を変える者が少なくなかった。マッテオ自身も事情は知っていたものの、父が具体的に何を考えているかまでは聞いていない。
「ミラノの店は、どうなりそう?」
「よさそうな場所を見つけました。あちらでも一からやってみたいと思っております」
「それは楽しみだねぇ。じゃあ、ナポリのお店は?」
「……そこが悩みどころでして。ここを畳むのは惜しいんですが、誰にでも任せられるものではありませんから」
「マッテオがいるじゃない」
「那岐様、あいつにはまだ早いですよ」
「そうかなぁ。ずいぶん腕を上げたと思うけどねぇ」
「料理が作れるのと、店を背負うのは別の話です。仕入れも金勘定も、客との付き合いもありますからな」
そこまで聞いたマッテオは、もう我慢できなかった。
父がミラノへ移るつもりなのは分かった。だが、どうしてそれを自分に黙っていたのか。毎日この店で働き、客の顔も好みも覚えてきたのに、まだ任せられないと言われるのは納得がいかない。
マッテオは手にしていた布巾を置くと、奥の部屋へ踏み込んだ。
「ちょっと待てよ、親父! ミラノに行くって本当か!?」
「マッテオ! お前、盗み聞きしてたのか!」
「聞こえたんだよ! そんな大事な話、何で俺に黙ってたんだ!」
「まだ決まったわけじゃねえ。店のこともこれから考えるところだ」
「だったら俺に任せりゃいいだろ!」
即答した息子に、ロレンツォは目を丸くした。
「お前、簡単に言うんじゃねえ! この店を何年かけて育ててきたと思ってる!」
「知ってるよ! 俺だってここで育ったんだ!」
「料理が作れるだけで店を任せられるか!」
「仕入れもやってる! 客の注文だって覚えてる! 親父がいなくても店を回してきただろ!」
「まだ経験が足りねえんだよ!」
「じゃあ、いつになったら足りるんだ! 俺が五十になったらか!?」
父は答えに詰まり、それがかえって腹立たしかったのか、顔を真っ赤にした。久遠は二人の間で茶を飲みながら、口元を緩めている。
「ロレンツォも昔は、月読に似たようなことを言っていたよねぇ」
「那岐様! それとこれとは話が違います!」
「そうかなぁ? 自分で生き方を決めたいって怒っていたでしょ?」
「それはそうですが……!」
マッテオは思わず吹き出した。
「ははっ! 親父も同じだったんじゃねえか!」
「お前は黙ってろ!」
「久遠だって俺の気持ちは分かるってよ!」
「いやいや、私はどちらの味方でもないよー」
久遠が手を振ると、親子はますます騒がしくなった。だがマッテオにとって、これは笑って済ませられる話ではなかった。
昔は、いつか有名な料理人になって、この小さな食堂を出ていくのが夢だった。今でも腕を磨き、父を超えたいという気持ちは変わっていない。
けれども、ここで働くうちに、毎日通ってくる客が何を楽しみにしているのかを知った。
腹を空かせて席につき、温かい料理を食べて笑顔になる。そんな客を迎える仕事が、今ではたまらなく好きだった。
「俺はこの店が好きなんだよ! だから跡を継いでやるって言ってんだろうが!」
ロレンツォの表情が変わった。
かつて自分の料理を古臭いと笑い、パリの店に憧れて飛び出していった息子が、今は目の前でこの食堂を継ぎたいと言っている。父はしばらく黙り、何か言いかけては口を閉じた。
しかし、次に出てきたのは、やはり父らしい言葉だった。
「……だったら、まず俺の料理を超えてみろ!」
「上等だ! 絶対に超えてやる!」
「口だけは一人前だな!」
「親父こそ、負けたときの言い訳を考えとけよ!」
「ああ!? 誰が負けるって!?」
また始まった言い争いに、久遠はとうとう声を上げて笑った。
その夜、閉店後の厨房には二つの鍋がかかっていた。
マッテオは自分のラグーを作り直している。火加減を確かめる手つきは落ち着いていたが、口を開けば父への文句が止まらない。
「まったく、いつまで俺を子供扱いするんだよ……」
一方のロレンツォも、奥で翌日の仕込みを続けていた。久遠がそちらへ顔を出すと、父はまだ腹を立てているらしく、黙って肉を切っている。
「マッテオ、ずいぶん立派になったねぇ」
「まだまだですよ。あいつは腕が上がると、すぐ調子に乗りますから」
「でも、自分から店を継ぎたいって言われたのは嬉しかったんじゃない?」
包丁の動きが止まった。
「……まあ、嬉しくないと言えば嘘になりますが」
「うん」
「ですが、そう簡単に渡すわけにはいきません。料理も店も、半端な覚悟じゃ続きませんからな」
「ロレンツォも、このお店が大好きなんだねぇ」
父は返事をせず、また肉を切り始めた。その口元が少しだけ緩んだのを、久遠は見逃さなかった。
今度はマッテオの鍋を覗きに行く。
「いい香りだね。まだ練習してるの?」
「ああ。今度こそ親父に文句を言わせねえんだ」
「ロレンツォの料理が好きだからこそ、超えたいんだねぇ」
「そりゃそうだよ。あいつの料理は美味え。でも、だからって一生負けっぱなしじゃいられねえだろ!」
「そっかぁ。二人とも似てるね」
「どこがだよ!」
即座に返された言葉に、久遠はまた笑う。マッテオは出来上がったソースを小皿に取り、久遠へ差し出した。
「なあ、食ってみてくれよ。これなら親父より美味えと思わねえか?」
久遠は一口味わい、満足そうに頷いた。
「うん、美味しいよ。さっきより香りがいいねぇ」
「だろ! で、親父のより上か?」
「うーん。ロレンツォのも美味しいからなぁ」
「またそれかよ!」
厨房にマッテオの声が響き、奥からロレンツォが「騒いでねえで手を動かせ!」と怒鳴った。マッテオも負けじと怒鳴り返す。
久遠は二人の声を聞きながら、すっかり冷めた茶を飲み干した。店を継ぐのはどちらにとっても大切な話で、言葉だけでは決着がつきそうにない。
だったら、料理人らしく料理で決めてもらうのが一番かもしれない。
思いついた途端、久遠は楽しそうに笑った。奥の厨房と手前の鍋から、今日も同じように食欲をそそる香りが立ち上っていた。




