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私の十年を「誰にでもできた」と仰るのなら、どうぞご自由に  作者: 九葉(くずは)


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第九話「あなたはそれだけの人ではない」

 知らせが届いたのは、冬の最初の雪が屋根に薄く積もった朝だった。


 ディーターが朝食の場に持ってきた書簡の束の中に、王都の紋章が入った公文書が一通。レティシアではなく、クラウス宛て。だが食卓で封を切ったクラウスが、読み終えた紙面をそのままレティシアのほうへ滑らせた。


 読め、ということだろう。


 王都騎士団に対し、王宮監査局が業務監査に入ったという通達だった。


 理由が三つ列挙されている。同盟国ベルクラント公国との条約交渉の決裂。北方防衛共同演習の白紙撤回。隊員の離反——第二中隊の副長以下六名が辞表を提出し、うち三名はすでに他領の騎士団に移ったとある。


 レティシアは書面を読み終え、静かに卓上に戻した。


 知っている名前が並んでいる。第二中隊の副長はベルント。真面目で寡黙な男だった。装備点検のたびに几帳面な報告書を出してくれた人だ。辞表を出した三名の中にも、顔と名前が一致する者がいる。ライナー二等兵の名がある。蕎麦粉に気をつけなければいけない兵だ。彼の食糧配分を毎回調整していた。


 条約交渉の決裂という一行を、もう一度目で追った。ヘルマン氏だろう。敬称を間違えたら二週間返書が遅れる、あの担当官。文面の乱れ一つで信頼を削る人だ。後任が書いた書簡が、どんなものだったかは想像がつく。


 胸の奥が、鈍く痛む。


 あの場所は、自分が十年いた場所だ。崩れていくのを聞いて、何も感じないはずがない。あの棚の台帳に名前を書いた人たちが、一人、また一人と去っていく。


 だが——もう、自分の場所ではない。


 その一行を、心の中で繰り返す。痛みは消えない。消えないが、足元は揺らがなかった。


 クラウスは何も言わなかった。書面を受け取り直し、四つに畳んで懐にしまう。朝食の残りのパンをちぎり、スープに浸して口に運ぶ。いつもと同じ所作。何も変わらない。ただ、パンをちぎる指先が、いつもより少しだけ力を込めていたように見えたのは、気のせいかもしれない。


 その日は普段通りに仕事をした。冬季の備蓄拠点の運用報告、各村への物資配送スケジュールの調整、レーゲンスドルフ村長からの礼状への返信。手を動かしている間は考えずに済む。考えずに済むことが、今はありがたかった。


 昼過ぎ、クラウスの執務室に報告書を持参した。彼は受け取って読み、いつものように二つ質問を返す。レーゲンスドルフへの次回配送日程と、備蓄拠点の屋根修繕の進捗。いつものように「問題ない」と言い、朝の通達について触れることはない。


 ただ、報告書を返す際に「——今日は早く上がれ」と付け加える。


 レティシアは小さく頷いた。彼なりの気遣いだろう。気遣いの中身を言葉にしないのも、彼らしい。「大丈夫か」とは聞かない。聞けば、レティシアは「ええ、構いません」と答えるしかなくなる。それを知っているから聞かないのだ。代わりに、仕事の量だけを減らす。


 夕食のあと、自室に戻らず廊下を歩いた。


 屋敷の西棟は夜になると人が少ない。石壁の廊下に、等間隔に燭台が灯っている。窓の外は雪。音がない。自分の足音と、燭台の炎が揺れるかすかな音だけ。


 歩きながら考える。考えまいとしても、浮かんでくる。


 騎士団は変わるだろう。監査が入り、組織が見直され、誰かが新しい仕組みを作る。自分がいなくても、あの場所は別の形で動き始める。それでいい。いや——それがいいのだ。自分がいなければ回らない組織は、そもそも健全ではなかった。一人の人間に十年分の業務を背負わせて、その一人が消えたら崩壊する。それは組織の欠陥であって、自分の価値の証明ではない。


 ただ、ベルントの名前が頭から離れない。あの几帳面な副長は、どんな思いで辞表を書いただろう。リーゼロッテはどうしているだろうか。彼女もまた、知らされないまま放り込まれた側の人間だ。


 廊下の突き当たりに、窓がある。北向きの窓。月は出ていないが、雪明かりが窓硝子を白く照らしていた。そこで足を止め、額を硝子につけた。冷たい。頬骨から奥歯の根まで冷気が伝わっていく。


 蝋燭の匂い。台帳の革の手触り。空のインク壺。ヴェルナーの声。隣にいるだけでいい——。あの言葉が、雪明かりの中で遠く反響する。もう痛みはない。ただ、遠い。


 背後に、気配がした。


 足音はない。だが空気が動く。振り返ると、廊下の暗がりにクラウスが立っている。


 上着の襟が少し乱れていた。珍しい。彼はいつも身なりに隙がない。手に何も持っていない。燭台も、書類も。ただ立っている。


 目が合った。


 クラウスの表情はいつもと同じに見える。無表情で、感情の読めない顔。だがレティシアにはわかった。二ヶ月一緒に仕事をしてきた。彼の表情が動くのは、声ではなく目だ。今、その目が——揺れている。


「何か」


 レティシアが聞いた。


 クラウスは答えない。唇が動きかけて、止まる。もう一度、開こうとして——声が、ようやく形になる。


「——隣にいてくれるだけでいい」


 レティシアの背筋が、凍った。


 呼吸が止まる。同じ言葉だ。あの夜、ヴェルナーが笑顔で言った言葉と、一字一句同じ。隣にいるだけでいい。君の仕事は要らない。君の十年は要らない。あの五文字が鼓膜の奥で増幅されて、廊下の冷気が一瞬で刃になる。


 足が一歩、後ろに下がった。


 ——また、同じことを言われるのか。この人にも。


 顔が強張る。目の焦点が合わなくなりかけている。自分でもわかった。身体が覚えている。この言葉を聞いたときの反応を、身体がそのまま再現しようとしている。


 だがクラウスは、続けた。


「だが——あなたは、それだけの人ではない」


 声が低い。いつもの低さとは違う。絞り出すような、慎重に言葉を選んでいる声。彼の目がレティシアをまっすぐに見ている。揺れていた瞳が、今は据わっている。


「あなたの仕事を見てきた。台帳の一行目から、昨日の報告書まで」


 台帳の——一行目。


 三年前に騎士団で書き写した、あの写し。最初の頁。十六歳の拙い字。そこから、全部。


「隣にいてほしい。だが、それだけではない」


 クラウスの声が一段下がった。


「あなたの全部が、必要だ」


 廊下に沈黙が落ちる。雪明かりの窓の前で、二人が向かい合っている。燭台の炎が揺れて、クラウスの顔を橙に染め、影を作り、また照らす。


 彼の手が、微かに震えていた。言い慣れない言葉を押し出した後の、緊張の残滓だろう。この人は、たった数行の言葉を言うために、どれだけの時間をかけたのか。廊下に現れたときの、上着の襟の乱れ。言葉を探していた目の揺れ。あの「隣にいてくれるだけでいい」を口にするまでの、一瞬の間。すべてが、彼のぎこちない覚悟の痕跡だった。


 レティシアの視界が、滲んだ。


 泣いている。涙が出ている。


 王都を出る朝も泣かなかった。三日間の馬車の中でも、宿の食堂で冷めたスープを見つめていたときも、出なかった涙が、今、溢れている。止められない。止めようともしない。


 頬を伝って、顎の先から落ちる。一滴が石の床に当たって、小さな音を立てた。


 十年間、一度も泣かなかった。泣く暇がなかったのではない。泣く理由がわからなかったのだ。何に対して泣けばいいのか、自分でもわからないまま、飲み込むことだけを覚えている。書庫で手紙を読んで揺れた夜も、涙は来なかった。


 涙を手の甲で拭った。指にインクの染みが残っている。今朝の報告書を書いたときの。


「……ずるいですね」


 声が掠れた。鼻の奥が熱い。


「そんなふうに言われたら」


 言葉の続きは出てこなかった。出てこなくてよかった。言い切らないほうがいいことは、ある。


 クラウスが黙って、手を伸ばした。


 不器用な手だった。レティシアの手を取るのに、一瞬の迷いが見える。指先が触れて、止まって、それからゆっくりと掌が重なる。大きな手。冷たくはない。彼もまた、ついさっきまでペンを握っていたのだろう。


 掌が、インクで少し汚れていた。


 二人とも。


 廊下に雪明かりが落ちている。燭台の炎が静かに揺れ、二人の影を壁に長く伸ばしていた。どちらも動かない。言葉もない。ただ、インクの染みた掌が重なっている。


 それだけで、十分だった。

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属人化した組織はつづきませんね。自明ですd( ̄  ̄)
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