第八話「ここに、私の仕事がある」
嵐は、返事を出さないまま一週間が過ぎた朝に来た。
未明から風が変わっていた。窓の外で松の枝が鳴り、屋根を叩く雨の音が刻々と重くなっていく。レティシアが目を覚ましたのは、まだ暗い時刻。ベッドの中で耳を澄ませる。風向き、北西。気温が急に落ちている。窓硝子に触れると、指先が痛いほど冷たかった。
これは降る。雨が雪に変わる。
着替えて階下に降りると、厨房にはもう灯りがついている。料理番の老婦人が竈に火を入れていた。「今年は早いねえ」と呟く声を背中に聞きながら、執務室に向かう。
着替えて執務室に向かうと、クラウスがすでに机にいた。彼も気づいている。窓の外を見る目が、いつもより鋭い。
「レーゲンスドルフへの西回りルート」
レティシアが口を開く前に、クラウスが言った。
「使えるか」
「駄目です。西回りは谷沿いを通ります。この風向きなら吹き溜まりができて、明日には通行不能になる」
地図を広げた。先月提出した冬季補給路の改善案。備蓄拠点はまだ建設途中だが、東回りルートの測量は終わっている。
「東回りなら、峠区間を除けば通れます。問題は峠の凍結ですが——」
気象データを頭の中で引く。今朝の気温と風向き。過去のパターン。
「——今日中に峠を越えれば、まだ凍結前に抜けられます。明日になると厳しい」
クラウスが地図を見つめている。指が東回りルートの峠区間をなぞり、レーゲンスドルフの位置で止まった。あの村には、冬を越すための備蓄がまだ十分に届いていない。先週の輸送便が嵐の予兆で一日延期されたまま、出発していなかった。
「行け」
一語。クラウスはそれだけ言い、机の脇から領主印の押された通行許可証を取り出した。いつ準備したのか。レティシアが執務室に来る前から、用意していたのかもしれない。
「馬車と護衛を二名つける。積荷はディーターに指示しろ」
「はい」
東回りルートはまだ試験運用前で、峠区間の判断ができるのはデータを作ったレティシアだけだ。村ごとの配分も、備蓄庫の容量と各家庭の人数を照合して現地で即決する必要がある。護衛と御者だけ送っても、持っていくべきものの優先順位がつけられない。
迷う暇はなかった。レティシアは通行許可証を受け取り、廊下を走る。ディーターを呼び、備蓄リストを確認し、馬車への積み込みを指示する。小麦、塩、干し肉、薬草、毛布。レーゲンスドルフの人口は百二十。冬を越すのに足りない分を計算し、優先順位をつけて積む。全部は載らない。命に関わるものから順に。
ディーターが荷を縛りながら「お気をつけて」と言った。その後ろで、厩番の若者が馬の轡を整えている。屋敷の人間が、声をかけ合いながら動いている。レティシアの指示で。
一時間後、馬車が正門を出た。
雨はすでに霙に変わっている。御者が顔をしかめたが、レティシアは隣に座り「東回りで。峠までは道が持ちます」と指示を出した。護衛の騎兵二名が馬車の前後につく。
道は悪い。車輪が泥を跳ね、荷台の物資が揺れるたびに縄を締め直す。風が横から吹きつけて、外套の裾を巻き上げた。指先がかじかむ。手袋の中で拳を握り、血を回す。御者台の隣に座っているだけで、顔が冷気で痺れてくる。
だが頭は動いている。レーゲンスドルフの備蓄庫の容量。各家庭の人数。子供と老人の割合。冬季に必要な一人あたりのカロリーを頭の中で計算しながら、積荷の配分を組み直す。備蓄庫に入りきらない分は各戸に直接配るしかない。村長との配分交渉の段取りを、馬車が揺れる中で考えていた。
峠に差しかかったのは昼過ぎ。路面に薄く霜が降りている。まだ凍結はしていない。だがあと半日遅ければ——考えるのはやめた。今は、目の前の道だけを見る。
「この先、下りに入れば風が弱まります。あと二時間」
御者に声をかけ、自分にも言い聞かせる。
峠を越えた。
下り道に入ると、嘘のように風が凪いだ。山が盾になっている。空は鉛色のままだが、霙が止み、灰色の雲の切れ間から薄日が射す。馬の息が白い。
レーゲンスドルフの村に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
村長が駆け出してきた。白髪の老人で、頬が風に赤く染まっている。後ろから女たちと子供が続く。馬車の荷台を見た瞬間、村長の目が潤んだ。何も言わず、深く頭を下げる。
レティシアが馬車を降りると、村長が顔を上げた。
「公爵様の新しい事務官殿でいらっしゃいますか。お待ちしておりました」
事務官殿。
その呼び名が、胸の内側に触れた。誰かに与えられた肩書ではない。自分の仕事の結果として、この村の人たちが自然にそう呼んでいる。
荷下ろしを指揮する。小麦はどこへ、塩はどこへ、毛布は各戸に何枚。村の備蓄庫の配置をディーターから聞いていたのが活きる。女たちが毛布を受け取り、子供たちが走り回り、男たちが小麦の袋を肩に担いで庫へ運ぶ。村長が何度も頭を下げながら、備蓄の状況を報告してくれた。あと三日分の食糧しかなかったと言う。
あと三日。もし明日まで待っていたら、峠は凍結していた。
荷下ろしが終わった頃には、空に最初の星が出ていた。
村の広場に焚き火が起こされる。嵐のあとの静けさの中で、火が赤く揺れている。薪の爆ぜる音と、遠くで犬の鳴く声。護衛の騎兵が焚き火にあたりながら、村人から温かいスープを受け取っている。
レティシアも火の前に座った。村長の妻が差し出してくれた木の椀を両手で包む。豆のスープだ。少し塩が強い。辺境の味付けだ。王都のものとも、公爵邸のものとも違う。
匙を口に運ぶ。温かい。
火の粉が夜空に舞い上がるのを、目で追った。真っ暗な空に、星が近い。王都では建物の明かりに消されていた星が、ここでは手を伸ばせば届きそうなほど低く光っている。
——私は、ここで仕事がしたい。
言葉にしたのは初めてだった。声に出したわけではない。胸の内で、ごく自然に浮かんだ一文。恩義でも、義務でも、報復でもない。ヴェルナーへの当てつけでもない。
ここに来て、数字を書いて、報告書を出して、それを読む人がいて、質問が返ってきて、改善案が通って、その結果が今日この村の備蓄庫を満たしている。自分の仕事が、目の前に座っている人たちの冬を支えている。
それが、したい。
騎士団にいたときは「やらなければ」だった。誰もやらないから、自分がやる。見られていなくても、止めるわけにはいかない。義務と責任と、もしかしたら意地。それで十年を走った。
今は違う。ここにいたいから、ここにいる。ただそれだけのことだ。
翌朝、村を発ち、屋敷に戻った。峠は予想通り凍結が始まっていて、帰路は西回りに迂回する。半日余計にかかったが、馬車は無事に正門をくぐった。
報告書を書き上げた。嵐の状況、代替ルートの実績データ、レーゲンスドルフの備蓄状況と今後の補給スケジュール、峠の凍結予測と冬季通行基準の改訂案。全八頁。手が止まることは一度もなかった。
報告書をクラウスに提出した後、自室の机で便箋を取り出す。
ヴェルナーへの返事。
ペンを取る。今度は手が止まらない。
——お申し出に感謝いたします。ですが、お戻りすることは致しかねます。ここに、私の仕事がありますので。
三行。それだけ書いて、署名を入れた。ヴェルナーの長い手紙に対して、たった三行。必要なことだけを書く。それが自分の流儀だ。封蝋を押し、宛先を書き、ディーターに投函を頼んだ。
夕方、クラウスの執務室に呼ばれた。
報告書が机の上に開いてある。赤ペンには手が伸びていない。八頁すべてに目を通した痕跡がある。第五頁の凍結予測の図表に、鉛筆で小さく印がつけてあった。質問ではない。同意の印だ。彼の癖をもう知っている。
クラウスが頁を閉じ、少し間を置いてから口を開く。
「——助かる」
以前も聞いた言葉だ。だが今日のそれは、少しだけ響きが違う。
「助かった」ではない。過去形ではなく、現在形。今この瞬間と、これから先を含む言い方。レティシアの仕事が終わったことへの礼ではなく、レティシアがここにいることへの——。
言葉の続きは、彼自身にもまだ形になっていないのかもしれない。
返事をする前に、クラウスはもう次の書類を読んでいる。いつもの彼だ。だが報告書を閉じた指先が、いつもより少しだけ丁寧に紙を揃えていたことに、レティシアは気づいていた。
執務室を出て、投函を終えたディーターとすれ違う。「お手紙、確かにお預かりしましたよ」と穏やかに言われ、軽く頭を下げた。正門を抜けて、帰り道を歩く。
ふと、空を見上げた。
辺境の冬の星が、近い。手を伸ばせば指先に引っかかりそうなほど、低く、鮮やかに光っている。王都では見えなかった星だ。建物の灯りに消されて、あるのに見えなかった光。
十年、空を見上げる暇すらなかったことに、今さら気づいた。




