第七話「一晩分のインク」
手紙は、昼食の前に届いた。
ディーターが食堂に運んできた銀の盆の上に、他の書簡に混じって一通。封蝋の紋章を見た瞬間、レティシアの指が止まる。ドレクセル侯爵家の紋——獅子と剣の意匠。見慣れた形だ。十年間、何百回と目にしてきた。
食事の席では開かなかった。クラウスが向かいに座っている。いつものように黙って食べている。黙って食べている彼の前で、あの紋章の封を切る気にはなれなかった。
自室に戻り、机の前に座ってから封を開ける。
便箋は一枚。筆跡はヴェルナーのもので、文字が少し右に傾いている。急いで書いたのだろう。いつもの整った字ではない。
——レティシアへ。
突然のことで驚かせてしまったと思う。あの日のことは、うまく伝えられなかった。
書き出しからして、ヴェルナーらしかった。「突然のこと」。彼にとっては突然だったのだろう。十年かけて積み上がっていたものが、ある朝いきなり形になっただけなのだが。
文面を目で追う。
騎士団の運営に支障が出ていること。補給の遅延が続き、秋季演習の食糧手配で混乱があったこと。同盟国との交渉が滞っていること。丁寧な言葉で、一つひとつの問題が列挙されている。だが読み進めるほどに、胸の奥で小さな棘が引っかかる。
問題の記述はある。だが、なぜそれが問題になったのかは書かれていない。補給が遅延したのは、誰がルート管理をしていたか知らなかったからだ。交渉が滞ったのは、誰が書簡を書いていたか把握していなかったからだ。そこには触れず、結果だけが並んでいる。
最後の一行。
——騎士団には君が必要だ。戻ってきてくれないだろうか。
便箋を膝の上に置いた。
窓の外を見る。北方の山脈が午後の光を受けて、稜線が白く光っている。この窓からの景色にも、一ヶ月で慣れた。朝は青く、昼は白く、夕方は赤くなる。王都の窓からは屋根と尖塔しか見えなかった。
もう一度、手紙を読み返す。三度目。
丁寧な文面だ。彼なりに言葉を選んだのだろう。「突然のことで驚かせた」「うまく伝えられなかった」「君が必要だ」。ヴェルナーの声で再生される文章。穏やかで、自信に満ちた、あの声。
だが——一つだけ、書かれていないものがある。
謝罪がない。
「誰にでもできる仕事」と言ったことへの。十年間、台帳を一度も開かなかったことへの。隣にいるだけでいいと、彼女の仕事をまるごと否定した言葉への。どこにも、一行も、書かれていない。
必要なのは「君」ではなく「君の仕事」だ。それすら、たぶん区別がついていない。困っている。だから戻ってほしい。十年前と同じ構図。空の机と空の棚の前に座った十六歳の自分を思い出す。あのとき差し出された手は温かかったが、温かさの中身を問い返す言葉を、あの人は持っていなかった。
便箋を畳み、机の端に置いた。
夕食の席で、クラウスと向かい合う。いつもの献立。根菜のスープ、黒パン、焼いた鱒。いつもの沈黙。だがスープの味がわからなかった。匙は動くのに、舌が何も拾わない。口に入れて、飲み込んで、それだけだ。
クラウスは何も聞かなかった。レティシアの食事が遅いことにも、スープの皿が半分残っていることにも、視線を向けない。ただ一度だけ、レティシアがパンを千切る手が止まったとき、彼の目がちらりと動いた気がした。気がしただけかもしれない。
食後、自室には戻らなかった。
屋敷の東棟にある書庫に向かう。ディーターに教えてもらった場所だ。公爵家の蔵書が並ぶ部屋で、夜は誰も使わない。棚の間に古い長椅子が一脚あり、窓から月明かりが射し込んでいる。古い革と紙の匂い。暖炉は入っていないが、建物の厚い石壁が日中の熱を蓄えていて、冷えきってはいない。窓辺に月光が四角く落ちている。
長椅子に座り、手紙を膝の上に広げた。月の光が便箋の上に落ちて、ヴェルナーの筆跡が銀色に浮かんでいる。
十年間の恩義がある。
あの場所で過ごした時間のすべてが無意味だったとは思わない。帳簿をつけ、封蝋を押し、九百二十人分の補給を回す。それは確かに自分の手でやったことだ。誰にも見られていなかったとしても、仕事はそこにある。ミュラー伍長の食糧は毎回欠かさず手配した。ヘルマン氏への書簡も、一度も期限を逃していない。あの場所を「回して」いたのは自分だという自負は、今でも胸の中に残っている。
戻れば、また回せる。自分にしかできないとわかった今なら、立場も変わるかもしれない。ヴェルナーも、台帳を開いたかもしれない。変わっているかもしれない。
——かもしれない。
レティシアは目を閉じた。長椅子の革が、体温で少し柔らかくなっている。書庫の空気は乾いていて、古い紙とインクの匂いがする。ここにあるインクの匂いは、王都の執務室とは少し違う。もっと深くて、松脂に似た苦みがある。北方のインクだ。
戻ったとして——あの棚の前に、また一人で座る。蝋燭を何本も消費して、誰にも読まれない帳簿を書く。報告書を出しても赤は入らない。赤が入らないのは、ここでは認められた証だった。あの場所では、読まれていないだけ。同じ「赤の入らない報告書」が、まるで違う意味を持つ。
扉が開いた。
足音はなかった。気配だけが動いて、レティシアが目を開けると、書庫の入り口にクラウスが立っている。手に燭台を一つ持っていた。炎が小さく揺れて、彼の顔を下から照らしている。
目が合った。
クラウスはレティシアの膝の上の手紙を見なかった。見えていただろう。ドレクセル家の紋章が封蝋に残っているのも。だが視線はレティシアの顔だけを一瞬捉えて、すぐに本棚のほうへ逸れる。
「——明日の報告書は、急がない」
低い声で、それだけ言った。
棚から一冊を抜き取る。分厚い装丁の本——たぶん領地の古い測量記録だ。それを脇に抱え、踵を返す。足音も立てず、燭台の灯りが廊下へ遠ざかっていった。最後に扉が閉まる音だけが、小さく響く。書庫に月明かりだけが戻った。
彼は知っている。手紙が来たことも、レティシアが揺れていることも。知っていて、何も聞かない。引き留めもしない。「行くな」とも「残れ」とも言わない。
明日の報告書は急がない。その一言だけを置いて、去った。
レティシアは手紙を畳み、ポケットにしまった。長椅子から立ち上がる。月明かりの中を歩いて自室に戻り、机の前に座った。
インク壺がある。三つ並んだうちの一つ、黒インク。蓋を開ける。まだ半分以上残っている。
一晩分のインク。
あの夜——王都の執務室で、空になりかけたインク壺の底から最後の黒をすくい上げて、婚約解消の便箋を書いた夜。あのときは、一晩分で十年を閉じた。
今夜、このインクで何を書くのか。
返事を書くなら、一行で済む。「お戻りすることは致しかねます」。あるいは「少しお時間をいただけますか」。どちらも一晩分のインクには余る。
レティシアはペンを取った。
便箋ではなく、報告用紙を引き寄せる。冬季補給計画の第二案。東回りルートの凍結リスク判定基準に、新しい気象データを反映させる改訂版。クラウスは急がないと言ったが、データは揃っている。書けるなら、書いてしまいたかった。
ペンが紙の上を走り始める。
数字を並べ、図を描き、注釈をつける。手が勝手に動く。この一ヶ月で身体が覚えた仕事のリズムが、胸の底の揺れを押し退けていく。ヴェルナーへの返事は書けない。何を書けばいいかわからないからではない。書くべき言葉が、まだ自分の中で固まっていないからだ。でも報告書なら書ける。今の自分の居場所で求められている仕事なら、手が止まらない。
凍結リスクの判定基準を新しいデータで修正し、代替ルートの選定根拠を三頁にまとめる。レーゲンスドルフ村への到着日数のシミュレーション。備蓄拠点の運用開始後の想定効果。クラウスが問いそうな箇所に、先回りして注釈を入れる。
窓の外が白み始めた頃、最後の注釈を書き終えた。
インク壺が空になっている。
レティシアは棚から予備のインク壺を取り出した。蓋を開け、自分で新しいインクを注ぐ。黒い液体が硝子の壺をゆっくり満たしていく。
王都では、インク壺が空になるたびに次の朝まで待った。誰かが補充してくれるのを——いや、そもそも補充してくれる人間はいなかった。自分で買いに行っていたのだ。ここでは、頼めば翌朝に三つ届く。頼まなくても、自分で注げる。
ヴェルナーへの返事は、まだ書かない。




