第六話「読まれなかった台帳」
第三中隊の携行食が足りない、と報告が上がってきたのは、秋季演習の三日前だった。
ヴェルナー・ドレクセルは報告書を読み返し、眉をひそめた。数が合わない。発注書では九百二十人分のはずが、届いた食糧は八百五十人分。差分の七十人分が、どこかで消えている。補給官に問い合わせたが、「発注書通りに手配した」の一点張りだ。発注書そのものが間違っていたとしか思えない。
「リーゼロッテ」
声をかけると、隣の机で書類と格闘していた令嬢が顔を上げた。目の下に薄い隈がある。ここ数日、彼女は遅くまで残っている。
「発注書を確認してくれ。第三中隊の数が合わない」
「はい、すぐに——」
リーゼロッテは書棚に走り、束になった発注書を引っ張り出した。一枚一枚めくる手が、危うい。書式が違うものが混じっているらしく、何度も手を止めては首を傾げる。
「……あの、団長。この発注書なのですが、第三中隊と第一中隊で書式が違っていまして、どちらが正しいのか——」
「どちらでもいい。数字を出してくれ」
「はい。あの、それと、ミュラー伍長の分なのですが、個別の注記がなくて——」
ミュラー。乳製品が駄目な伍長だ。レティシアがいた頃は、個別の配分表が毎回組まれていた。誰がいつ作っていたか、ヴェルナーは知らない。知らなかった。
「……一般配分で出してくれ。後で調整する」
後で調整する。この二ヶ月、ヴェルナーはその言葉を何度口にしただろう。
最初の一ヶ月は、何とかなっていた。少なくとも表面上は。レティシアが残した前年の計画書がそのまま使えたし、部下たちも過去の手順を踏襲して動いてくれた。補給は届く。書簡も出る。回っている——そう思っていた。
だが品質が落ちていた。じわじわと、気づかないうちに。
返書の文体が先方の好みから外れ、同盟国の担当官から注意を受ける。装備の在庫管理表が更新されず、予備の剣帯が足りないことに訓練当日まで誰も気づかない。食糧の発注が三日遅れたが、遅れたこと自体を把握できる人間がいなかった。
六週間目。遅れが累積し始める。秋季演習の準備に取りかかろうとして、前年の計画書の所在がわからない。棚にあるのは台帳だけで、計画書はレティシアの机にあった——が、誰もその部屋に入っていない。
そして今日。演習三日前になって、携行食の数が合わない。
一人が抜けて即座に崩壊したのではない。慣性で回っていた歯車が、油を差す者がいなくなって、少しずつ軋み始め、ここにきて止まりかけている。
リーゼロッテが発注書を持って席に戻る。彼女の背中が小さく見えた。亜麻色の髪が乱れているのに、直す暇もないらしい。着任当初の明るい笑顔が、最近は引きつり気味になっている。
彼女には何も説明しなかった。
「手伝い」として連れてきた。レティシアの後任だとは言っていない。事務統括という役職があったことすら、たぶん知らない。知らないまま、十年分の業務の上に座らされている。
午後、別の報告が入った。
同盟国ベルクラント公国から、条約更新に関する催促の書簡が届いている。更新期限は来月。事前交渉は——していない。例年ならこの時期にはすでに草案のやり取りが始まっているはずだが、今年は誰も動いていなかった。
担当は誰だ。記録はどこだ。
ヴェルナーは執務室の棚を探った。外交書簡の綴りはある。だが返書の控えが途切れている。レティシアが去った月を最後に、一通も出ていない。
条約更新の事前交渉を、毎年誰が仕切っていたのか。書簡の文体を各国の担当官に合わせていたのは誰か。ベルクラントのヘルマン氏が文末の敬称にこだわることを知っていたのは——。
彼女の机を開けたのは、その日の夕方のことだ。
レティシアがいた執務室は、二ヶ月間そのままにしてある。扉の前を通ることはあっても、中に入ろうとは思わなかった。入る必要を感じなかったのだ。彼女がいなくなった部屋は、ただの空き部屋だと——そう思い込んでいた。
扉を開けると、蝋と古いインクの匂いが鼻に届く。窓の鎧戸が閉まっていて、廊下からの光だけが床を四角く切り取っている。
机の上は清潔に片づいている。あの朝、彼女が出ていく前に整えたのだろう。引き出しを開けると、薄い冊子が一つ。
引き継ぎ書の目次。
表紙を開く。項目が並んでいる。
補給管理。外交書簡の定型と各国担当者の性格。隊員の健康記録とアレルギー一覧。天候予測と迂回路データベース。備蓄拠点ごとの在庫管理。演習計画の年次テンプレート。同盟国との連絡スケジュール——
頁をめくる。項目は続く。馬匹の飼料計算式。中隊別の装備消耗係数。各村の村長との交渉記録。季節ごとの輸送リスク評価。
八十項目。
本文は、ない。目次だけが、輪郭だけが並んでいる。一つ一つの項目が、レティシアの十年間の仕事の名前だった。名前だけが残されて、中身はどこにもない。彼女の頭の中にしかなかったものが、八十の項目名だけを遺して消えている。
冊子を閉じ、棚を見上げた。
革装丁の台帳が、壁一面に並んでいる。十冊。以前からここにあったはずだ。何度もこの部屋に来ている——いや、来ていなかった。来ていたのは年に数回で、この棚の前に立ったことは一度もない。
一冊を抜き取った。
最新のもの。今年の日付が入っている。表紙の革はまだ新しく、背表紙の箔文字が光っていた。
開く。
最初の頁。一月の記録。天候、気温、風向、降雪量。王都から北方演習地までの輸送ルート三本の状態。各中継点の備蓄量。道路の凍結状況。馬匹の消耗率。
次の頁。隊員の装備点検記録。中隊ごとの予備装備の在庫。交換予定日。ミュラー伍長の個別食糧配分。ヘス軍曹の甲殻類除去指示。ライナー二等兵の蕎麦粉注意。一人ひとりの名前と、一人ひとりの事情。
次の頁。同盟国への演習通知の控え。文面は硬質な文語体で、末尾の敬称は「閣下」。ヘルマン氏宛て。横に小さく注記がある——「返書が遅れた場合の催促文案を別紙に添付」。
ヴェルナーの指が、頁の上で止まった。
全部、書いてある。
十年間、当たり前に回っていたすべてのことが、この帳簿に記録されている。天候が変わるたびに更新され、人事が動くたびに修正され、一日も欠かさず、一行ずつ書き足されていく。それが十年分。十冊。
一冊目に手を伸ばした。最初の年の台帳。表紙の革が擦り切れて、角が丸い。開くと、少し拙い文字が並んでいる。十六歳の少女が書いた数字だ。騎士団の人数が一箇所訂正されていて、余白に小さく「要確認」と書き込みがある。
あの頃、この帳簿を書いていた少女のことを、自分は覚えている。机に向かって一心に何か書いている婚約者を見て、「偉いね」と声をかけた。中身は——見なかった。
「……誰にでも、できた?」
声に出したのは自分だ。だが、自分の声に聞こえない。
台帳を持つ手が震えている。革表紙の重さが、十年分の重さが、両手にかかっている。
「団長」
リーゼロッテの声が、扉の向こうから聞こえる。ノックも待たずに入ってきた。顔が蒼い。手に書簡を持っている。
「同盟国から、二通目の催促が——事前交渉の記録が見つからなくて、わたくし、どう返事を書けばいいのか——」
声が震えている。泣きそうな、というより、もう泣いた後の顔だ。目の縁が赤く、鼻の頭にも色がさしている。この二ヶ月、彼女は何も知らされないまま、底の見えない穴に放り込まれていた。
手伝い。そう言って連れてきた。事務統括という役職があることも、レティシアがどんな仕事をしていたかも伝えていない。伝える必要を感じなかったのだ。誰にでもできる仕事だと、そう——
「……すまない。それは俺がやる」
台帳を棚に戻す。今すぐ必要なのは、この十年の記録を読むことではない。目の前の催促状に答えることだ。彼女がいつもしていたことの、一つだけでも。
リーゼロッテが部屋を出た後、ヴェルナーは机の前に座った。レティシアの机だ。片づけられた机の上に、空のインク壺がひとつ残っている。あの朝、彼女が置いていったもの。二ヶ月間、誰も片づけなかった。
自分のインク壺を持ってきて、便箋を取り出す。宛先はレティシア・フォルクハルト。北方辺境エーレンフェスト公爵領。
——戻ってきてほしい。
書き出しに十分かかった。ペンを持つ手が動かない。何を書けばいいのかわからないのではない。書く資格があるのかがわからない。
棚の台帳が目に入る。十冊。十年分。その一行目から最後の一行まで、自分は一度も読まなかった。
彼女がいつも一晩で仕上げていた文書の、最初の一行すら自分には重い。




