第五話「回り始める歯車」
翌朝から、レティシアは働き始めた。
ディーターに頼んで羽根ペンと便箋を揃え、昨夜のインク壺を机に据える。まず必要なのは、この領地の全体像を掴むことだった。
エーレンフェスト公爵領は、北方辺境の中でも最大の面積を持つ。人口は王都の十分の一以下だが、領内に六つの村と二つの交易拠点がある。冬は雪に閉ざされ、春の雪解けから秋の収穫までの半年で一年分の物資を備蓄しなければならない。
ディーターから帳簿を借り、三日かけて読み込んだ。領地の収支記録、物資の移動履歴、各村の人口と生産量。書き手は複数いるらしく、筆跡が頁ごとに変わる。だが数字そのものは正確だった。帳簿の管理はきちんとしている。問題は運用のほうにある。
数字を追うほどに、一つの歪みが浮かび上がってくる。
冬季の補給路が、遠回りすぎる。
現行のルートは西回りで、山裾を大きく迂回して各村に物資を届けている。安全だが距離がある。雪の少ない年なら問題ないが、大雪の年には往復に倍の日数がかかり、最も奥の村——レーゲンスドルフ——への到着が十日以上遅れた記録が、過去五年で三回。三回とも、村の備蓄が底をつく寸前だった。帳簿の端に、レーゲンスドルフ村長からの催促状の控えが挟まっている。文面は丁寧だが、三度目の催促状だけ字が太い。筆圧が違う。切迫していたのだろう。
東回りならどうか。
地図を広げ、標高と積雪の記録を突き合わせる。中間地点に備蓄拠点を一つ置けば、東回りのほうが距離は三割短い。ただし凍結のリスクがある。峠越えの区間が一箇所。ここの判断基準を明確にすれば、運用できる。
七日目の朝、報告書をまとめ終えた。
全十二頁。図表五つ。注釈十四項目。表紙にはインクの染みひとつない。昨夜、最後の頁を書き終えたのは深夜を過ぎた頃で、新しいインク壺の中身が三分の一に減っていた。
クラウスの執務室に持参する。扉を叩くと、椅子の脚が擦れる音。もう慣れた。これが彼の「入れ」だ。
報告書を机に置いた。クラウスは受け取ると、目を通す前に一度だけ表紙を指で撫でた。紙の厚さを確かめるような所作。それからペンを置き、その場で読み始める。
レティシアは黙って待った。窓の外では、朝の光が中庭の石畳を白く照らしている。遠くで馬の嘶き。庭師が生垣を刈る鋏の音。この屋敷の朝は静かだが、必要な音だけがちゃんと聞こえる。
頁をめくる音が、二回。三回。クラウスの読む速度は速い。だが飛ばしていない。行の端まで目が動いているのが、向かい側から見える。注釈にも目を止める。一つの図表に戻って二度読んだ箇所がある。第五頁の積雪データのグラフだ。
最後の頁を閉じて、間。
「東回りの場合」
低い声が、沈黙を割った。
「峠区間の凍結リスクは、何を閾値にする」
問い。しかも、報告書の核心——東回りルートの最大の弱点を、一読で突いている。
「過去十年の積雪データと気温の相関を取りました。最低気温が連続三日で氷点下十二度を下回った場合に、峠の通行を停止し西回りに切り替えます。第七頁の表に基準値をまとめてあります」
クラウスが七頁を開き直す。指が表の数字を追い、止まる。
「備蓄拠点を中間地点に新設するとして、人員配置は」
「常駐二名。冬季のみ四名に増員。領内の警備兵から転配すれば、新規雇用は不要です。第九頁に人員計画を——」
「見た」
短い。だがその一語で、第九頁も読んでいたことがわかる。
「実現までに何ヶ月必要か」
「備蓄拠点の建設に二ヶ月、物資の事前配置に一ヶ月。今夏から着手すれば、今冬に間に合います」
また、間。
クラウスが報告書を閉じた。閉じたまま、机の上に平らに置く。赤インクのペンには手を伸ばさない。
レティシアはそれを見ていた。彼の執務室には赤インクのペンが常備されている。着任してからの一週間、領地の報告書に目を通すたびにクラウスが赤を入れているのを見てきた。短い指示、数字の修正、疑問符。彼は読んだ文書に必ず痕跡を残す人間だ。
その赤ペンに、手が伸びない。
「……読んでくださったのですか。全部」
声が、自分で思ったよりも掠れていた。全十二頁。図表五つ。注釈十四項目。
「報告書は読むためにある」
クラウスの声に抑揚はない。当たり前のことを言っただけの口調。レティシアの手が、膝の上で小さく握り込まれた。
「備蓄拠点の候補地を、明日までに三箇所出せるか」
「出せます」
「頼む」
それだけだった。クラウスの視線はすでに次の書類に移っている。レティシアは報告書を——赤の入らなかった報告書を持って、執務室を出た。
その日から、歯車が噛み合い始める。
レティシアが分析し、提案を書く。クラウスが読み、質問を返す。質問はいつも二つか三つで、的確で、報告書の核心を突いている。レティシアが答え、修正し、再提出する。修正の回数は日を追うごとに減っていく。
十日目に、冬季補給路の最終案が通る。
二週間目に、備蓄拠点の建設が始まった。レティシアが候補地三箇所を提出した翌日、クラウスは「二番目」とだけ書いた付箋を返してきた。理由は書かれていない。だが二番目の候補地は、水源に最も近く、春の雪解け水を利用できる場所だ。彼が何を見て選んだか、説明がなくてもわかる。わかることが、妙に心地よかった。
同じ頃、レティシアは領地の台所事情にも手をつけ始めていた。各村から届く収穫報告の書式がばらばらで、集計に手間がかかっている。統一書式を作り、ディーターを通じて各村長に配布した。
三日後、レーゲンスドルフ村長から返事が来た。書式は白紙のまま。添えられた手紙にはこうある——「数字だけの紙を送られても、冬は越せませんので」。
他の村長からも似た反応が返ってきた。記入欄が細かすぎる、説明が足りない、そもそも前年のやり方で困っていない。騎士団と同じ感覚で作った書式が、現場では通用しなかった。
机の前で、レティシアは額を押さえた。九百二十人の軍と、百二十人の村は違う。王都のやり方がそのまま使えると思った自分の甘さに、歯が軋む。
書式を一から作り直す。項目を半分に減らし、記入例と簡単な説明文をつけ、余白を広げた。次はディーターに頼まず、自分で各村長宛ての手紙を添える。「至らぬ書式を送り、失礼いたしました」の一文から始めた。
二度目の書式は、受け入れられた。
三週間目。レティシアが各村の備蓄量の報告書を出した朝、クラウスは赤ペンを取らなかった。頁をめくり、閉じ、「問題ない」とだけ言う。
報告書に赤が入らない日を、レティシアは数え始めていた。
仕事の密度が上がるにつれ、インクの減りが速くなる。朝、机に向かい、ペンを取り、書き始める。気がつけば窓の外が暗い。騎士団の執務室にいた頃と同じだ。だが一つだけ違う。ここでは、書いたものを読む人間がいる。
数字の裏にある判断を問う人間がいる。
一ヶ月が経った頃には、クラウスの質問を予測して先に注釈をつけるようになっていた。「凍結リスクの閾値推移(過去十年)」「人員配置の代替案(警備兵不足時)」「レーゲンスドルフ村長との事前交渉記録」。注釈が増えるにつれ、クラウスの質問は減っていく。質問が減るということは、報告書の精度が上がっているということだ。
ある夕方、クラウスが報告書を閉じたあとに「——助かる」と言った。
声は低く、短く、視線は次の書類に移っている。いつもの彼だ。だがレティシアの指が、膝の上で一瞬止まった。同じ言葉を、一度だけ聞いたことがある。五年目の冬、ヴェルナーの口から。あのときは十年でたった一度きりだった。
クラウスの「助かる」は、最初のインク壺が空になった週に出た。着任から一ヶ月。報告書は十七本。そのうち赤の入ったものは、最初の三本だけ。
返事をする前に、クラウスはもう次の書類を読んでいる。レティシアは小さく息を吐き、立ち上がった。
ふと、彼の机の端に目が止まる。茶碗が置いてある。中身はとうに冷めているだろう。ディーターが朝運んできた茶を、彼は仕事に没頭すると飲み忘れる。毎日そうだ。毎日忘れて、毎日ディーターが新しいのを持ってきて、また忘れる。
不器用な人だ。報告書の数字は一桁も見逃さないのに、自分の茶碗には気づかない。
廊下に出ると、北方の乾いた風が窓から頬を撫でた。口元が少し緩んでいることに、自分で気づいた。
◇
その夜。
レティシアが自室に戻った後、執務室にディーターが茶を運んできた。クラウスは書類から顔を上げず、茶碗だけを受け取る。
「旦那様。フォルクハルト様は、よくお働きになりますなあ」
クラウスは答えない。ペンが紙の上を走る音だけが続く。
「正式にお迎えになるおつもりでございますか」
ペンが止まった。
「——あの人を、手放すな」
低い。短い。だが声の温度だけが、いつもと違っていた。
ディーターは深く頭を下げた。「かしこまりました」と答え、静かに扉を閉める。
◇
翌朝、レティシアが机に向かうと、インク壺が空になっていた。
昨夜遅くまで報告書を書いていたせいだ。蓋を開けると、底に薄くインクの跡が残っているだけで、ペン先を浸せる量はない。
ディーターに補充を頼んだ。
翌朝、机の上にインク壺が三つ並んでいた。黒が二つ、青みがかったものが一つ。どれも新品で、蓋の金具が揃って光っている。
誰が手配したのか、聞くまでもない。




