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私の十年を「誰にでもできた」と仰るのなら、どうぞご自由に  作者: 九葉(くずは)


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第四話「悪くない」

 山を越えると、空気が変わった。


 乾いている。松脂と土の匂いが混じった、王都にはない空気だった。馬車の窓から見える風景に、華やかさはない。石積みの低い塀で区切られた牧草地が続き、遠くに灰色の屋根が点在する。街道沿いに花壇もなければ、旗を掲げた門もない。


「お客さん、見えてきましたよ」


 御者が指した先に、丘の上の屋敷があった。


 大きい。だが飾り気がない。石造りの壁に蔦が這い、窓の数だけが建物の規模を示している。王都の貴族の邸宅にある彫刻や金の装飾はどこにもなく、実用だけで建てられた要塞のような佇まいだった。


 正門の前で馬車が停まる。門柱に紋章が刻まれているが、苔で半分隠れていた。


 馬車を降りると、初老の男が一人、門の前に立っている。白髪を後ろに撫でつけ、黒い執事服を着崩さず、背筋が真っ直ぐだった。門番はいない。だが門の蝶番に油が差されたばかりの光沢があり、石畳の隙間に雑草が一本もなかった。人手は少ないが、手は行き届いている。


「ようこそお越しくださいました、フォルクハルト様。執事のディーターと申します」


 柔らかい声だった。深い皺の刻まれた顔が、穏やかに笑っている。


「長旅でお疲れでございましょう。お部屋にご案内いたしましょうか、それとも——」


「旦那様にお会いしたいのですが」


 レティシアの言葉に、ディーターは少し目を丸くし、それからゆっくり頷いた。


「さようでございますか。では、執務室へ。旦那様もお待ちでございますので」


 屋敷の中も、外と同じだった。広いが質素で、廊下の石壁に絵画はなく、調度品は必要最低限。だが埃はない。窓硝子は磨かれ、床の石は目地まで掃き清められている。無骨だが、手を抜いていない。


 二階の奥、突き当たりの扉の前でディーターが足を止めた。


「旦那様は少々——その、口数の少ないお方でございましてなあ」


 言い添えるように小声で言い、扉を叩いた。


 中から声はない。代わりに、こつ、と椅子の脚が床を擦る音がした。ディーターはそれを了承と受け取ったのか、扉を開ける。


 執務室は広くなかった。


 窓が一つ、北向き。壁際に本棚が二列。机の上には書類が整然と積まれ、インク壺が二つ並んでいる。一つは黒、一つは——青みがかった色。窓から差す北の光が、部屋全体を冷たく照らしていた。


 机の向こうに、男が座っている。


 黒い髪を短く刈り込み、顎の線が鋭い。軍服ではなく濃紺の上着を着ているが、背中の張り方が軍人のそれだった。三十を少し過ぎたくらいだろうか。顔立ちは整っているが、表情がない。目だけが、レティシアをまっすぐに見ている。


 クラウス・エーレンフェスト公爵。


「フォルクハルト様をお連れいたしました」


 ディーターが告げると、クラウスは小さく顎を引いた。立ち上がりもしなければ、挨拶の言葉もない。代わりに、机の脇に積まれた紙の束——いや、帳簿の写しを取り上げた。


 レティシアの足が止まる。


 あの革装丁ではない。だが、見覚えのある数字の並びだった。天候、気温、輸送ルート、各村の備蓄量——自分の筆跡を、別の手が書き写している。几帳面な、角ばった文字。一行も省略せず、注釈まで丁寧に転記されていた。


「座ってくれ」


 低い声だった。短い。必要なことだけを、削ぎ落とした声で言う。レティシアは机の前の椅子に腰を下ろした。ディーターが静かに扉を閉め、部屋には二人だけになる。


 クラウスが写しの束をめくり、ある頁を開いた。指の先でその箇所を押さえる。


「第七次北方演習。輸送ルート選定」


 レティシアの目が、自分の書いた数字と向き合う。六年前の記録だ。


「悪天候を三日前に予測し、東回りの迂回路を確保している。判断根拠を聞きたい」


 問い。


 補給の中身を問われたのは——十年で初めてのことだった。


 一瞬、声が出なかった。質問の意味が理解できなかったのではない。こういう問いが来ることを、想像したことすらなかったのだ。台帳の数字を読み、その裏にある判断を知りたいと言う人間が存在するということに、頭が追いつかなかった。


「……前年と前々年の同時期の気象記録を参照しました」


 声が出た。自分の声に少し驚きながら、続ける。


「北西の峠は、十月の第三週に降雨確率が上がります。雲の巻き方と風向きの変化を二指標として、三日前に判断基準を超えた場合に迂回路へ切り替える運用にしていました。東回りを選んだのは、距離は伸びますが勾配が緩く、馬匹の消耗を抑えられるためです」


 クラウスは黙って聞いていた。表情は変わらない。頷きもしない。ただ、目がレティシアの言葉を追っている。


 少し間があった。


「迂回路の沿道に、備蓄拠点は」


「ヴィッツ村です。村長のグスタフ老に直接交渉し、小麦三十袋の借用契約を結んでいました。毎年更新です」


「村長との関係構築も含めて、一人で」


「ええ」


「……グスタフという名前まで覚えている」


 独り言のような声だった。写しをめくり、別の頁を開く。


「もうひとつ。第三中隊の携行食配分に、個人別の注記がある。伍長のアレルギー対応か」


「はい。ミュラー伍長は乳製品が合いません。他にも、第一中隊のヘス軍曹は甲殻類、第二中隊のライナー二等兵は蕎麦粉——」


「全員覚えている」


 問いではなかった。確認でもない。写しの束を閉じたクラウスの声は、低く、平らで、ただ事実を述べていた。


 また、間。クラウスが写しの束を閉じた。


 その唇が、わずかに動く。


「……悪くない」


 二語。それだけだった。


 視線はすでに次の書類に移っている。レティシアに向けていた目が、もう机の上に戻っていた。それが彼の「終わり」の合図なのだとわかるまでに、数秒かかる。


 レティシアは立ち上がり、軽く頭を下げて執務室を出る。扉を閉めると、廊下にディーターが待っていた。壁に背をもたれず、両手を前に揃えて立っている。


「いかがでございましたか」


「……『悪くない』と言われました」


「おお」


 ディーターの眉が上がる。皺の多い顔が、ほころぶように緩む。


「さようでございますか。それは——旦那様の最上級のお褒めの言葉でございますよ」


 レティシアは、ディーターの顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。


「旦那様はああ見えて、お人の仕事をよく見ておいでです。ただ、それをお伝えになるのが——まあ、その、不得手でございましてなあ」


 ディーターが困ったように笑い、レティシアを客室へ案内しながら歩き始めた。


「あの台帳の写しは、三年前に騎士団を視察された折にお書きになったものでございます。お戻りになってから何度もお読みでした。『これを書いた人間に会いたい』と、一度だけ仰いましたなあ」


 レティシアの足が、一瞬だけ遅くなった。ディーターは気づかない振りで、先を歩き続ける。


 夕食は、屋敷の小さな食堂で出された。


 テーブルはひとつ。椅子が六脚あるが、使われているのは二つだけ。向かい合って座るのは、クラウスとレティシアの二人。ディーターが給仕を終えて下がると、部屋には食器の触れ合う音と暖炉の薪が爆ぜる音だけが残った。


 豆と根菜のスープ。黒パン。焼いた川魚に、茹でた青菜。素朴だが温かい食事だった。皿から湯気が立ち、パンの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


 スープの匙を口に運んだ。熱い。塩加減がちょうどよく、豆が柔らかく煮崩れている。玉葱の甘さが舌の上に広がり、それからじわりと身体の内側を温めていく。


 三日前の宿の食堂で、冷めたスープを見つめていたことが浮かぶ。あのとき止まっていた匙が、今は動いている。


 クラウスは黙って食べている。会話はない。だが、その沈黙は気詰まりなものではなかった。彼は話さないのが自然な人間なのだと、執務室でのやり取りでわかっている。沈黙が苦ではない相手と食卓を囲むのは、考えてみれば初めてかもしれない。王都の夜会では常に誰かが喋り続けていたし、騎士団の食堂は一人だった。


 スープを飲み終える。温かいうちに。


 匙を置いたとき、クラウスがちらりとレティシアの皿を見た。空になった皿を一瞥して、自分の食事に戻る。何も言わない。だが——レティシアには見えた。彼の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだのが。見間違いかもしれない。暖炉の灯りのせいかもしれない。


 食後、ディーターに案内されて客室に入った。広すぎず狭すぎず、清潔な部屋だった。窓の外に北方の山脈が見える。ベッドの脇に小さな書き机が置いてあり、椅子が一脚。


 書き机の上に、目が止まった。


 インク壺が置いてある。新しい。硝子の表面に指紋もなく、蓋の金具が鈍く光っている。


 蓋を開けた。


 たっぷりと黒インクが満ちている。表面が窓からの夕光を受けて、僅かに揺れた。


 まだ一文字も書いていない。ペンもまだ手に取っていない。三日前に王都を出るとき、仕事道具をひとつも持たなかった自分の手に、誰かが新しいインクを用意している。


 誰が手配したのかは、聞くまでもなかった。


 目の奥が、熱くなった。

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