第三話「十年の重さ」
街道沿いの麦畑が、馬車の窓を流れていく。
王都を出て一日目。空は高く、六月の陽射しが畑の穂先を金色に染めている。御者が時折馬に声をかける低い声と、車輪が土を踏む音。それだけの世界が、もう何時間も続いていた。
レティシアは窓枠に肘をつき、外を見ている。見ているだけで、何も考えていないつもりだった。つもりだったのだが、麦の穂が風に揺れるたびに、記憶のほうから勝手に浮かび上がってくる。
十六の夏。婚約が決まった日のことを、身体がまだ覚えている。
フォルクハルト伯爵家の応接間で、父とドレクセル侯爵が向かい合っていた。レティシアは父の隣に座り、背筋を伸ばして膝の上の手を揃えていた。汗をかいていたが、手袋をしていたから気づかれなかったはずだ。応接間の時計が、やけに大きな音で秒を刻んでいた。
ヴェルナーが入ってきたとき、窓から差した光が彼の金髪を照らした。長身で姿勢がよく、軍服の着こなしに隙がない。物語に出てくる騎士のように見えた——あの日の光が、今日の麦畑の金色と重なる。
彼は微笑んで「よろしくお願いします」と言い、レティシアに手を差し出した。その手を取ったときの感触を、今でも右手が覚えている。温かくて、大きくて、自分の指がひどく小さく感じられた。
婚約者となり、騎士団に配属された。肩書は「騎士団長婚約者付き事務官」。何をすればいいのかわからなかった。執務室に案内されたとき、机の上には何もなかった。椅子と机だけ。棚も空だった。
最初の一週間、誰にも仕事を与えられない。
机に座り、窓の外を見て、昼食の鐘で食堂に行き、午後も座って、夕方に帰った。二週間目に自分で帳簿を買い、補給物資の受領記録をつけ始める。誰に頼まれたわけでもない。ただ、空の棚と空の机に耐えられなかったのだ。
帳簿を書いているレティシアを見て、ヴェルナーは「偉いね」と言った。
偉いね。子供を褒めるような声だった。帳簿の中身は見なかった。
馬車が小さな橋を渡る。車輪が木板を叩き、がたがたと揺れた。水の音が下から聞こえて、すぐに遠ざかる。
二年目に初めて補給の遅延を防ぎ、五年目には装備の不足をゼロにした。七年目で天候予測の精度が上がり、演習計画の変更が年に一度あるかないかになる。報告会でヴェルナーが言った言葉は覚えている。二年目は「天候に恵まれた」。五年目は、少し間があって「助かる」。
たった一言。十年のうちで、仕事の中身に触れた言葉はそれだけだった。その夜、冬の星を見上げたことだけが残っている。寒かったはずなのに、寒くなかった。
そのあたりから、記憶が曖昧になる。毎年同じことを繰り返していたからだ。春に計画を立て、夏に演習を実施し、秋に報告書をまとめ、冬に翌年の準備をする。台帳に数字を書き、封蝋を押し、インク壺を空にする。その繰り返し。
繰り返しの中で、ヴェルナーが執務室に来る回数は減っていった。
——感謝されなかったのではない。見えていなかったのだ。
水路の水が流れるのを当たり前だと思う人間は、水門を開け閉めしている者の顔を覚えない。
一日目の宿は、街道沿いの小さな旅籠だった。
食堂に下りると、木のテーブルが六つほど並んでいる。商人らしい男たちが三人、奥の席で杯を傾けていた。その隣のテーブルでは、夫婦らしい二人連れが向かい合って静かに食事をしている。妻のほうが夫の皿にパンを取り分け、夫が礼を言って受け取る。なんでもない所作だった。目を逸らす理由もないのに、レティシアは窓際の席を選んだ。
宿の女将が運んできた夕食を受け取る。豆のスープと黒パン、干し肉の切り落とし。素朴な食事だった。スープの表面から白い湯気が上がり、豆と塩と、ほのかに玉葱の匂いがする。
匙を手に取り、スープをすくう。湯気が顔に当たる。
騎士団にいた十年間、食堂でヴェルナーと並んで食事をしたことが何度あっただろう。数えられるほどしかない。大抵は一人で、執務室の机の上で、書類の合間にパンをかじった。温かいスープが出る日は恵まれたほうで、冷めた紅茶で済ませることのほうが多い。
目の前のスープは温かい。湯気が立っている。宿の食堂は暖炉の火が入っていて、旅人の話し声が低く響いている。人の気配のある場所で食事を取るのは、いつぶりだろう。
だが匙が動かない。
十年間、自分が何をしてきたのかを、一日かけて思い返した。残ったのは、手応えのない空白だ。数字を書く。封蝋を押す。帳簿をつける。その繰り返しの先に何があったか——何もない。
匙を持ったまま、窓の外を見た。宿場の通りに、夕暮れの橙色が落ちている。商人たちの笑い声が遠くに聞こえる。
泣けるなら楽だろうと思う。涙が出れば、この胸の底にある重いものに形を与えられる。けれど目は乾いたままだった。十年かけて飲み込み続けたものは、もう涙の形をしていない。
スープが冷めていく。表面の湯気が消え、油の膜が薄く光る。
それでも、匙を口に運んだ。冷めた豆のスープは、塩が少し足りなかった。
二日目。風景が変わり始めた。
麦畑が減り、草原が広がる。遠くに森の稜線が見えた。空の色が違う。王都の空は建物と尖塔に切り取られていたが、ここでは地平まで一枚の布のように広がっている。雲の影が草原を渡っていく速さに、風の強さがわかる。
昼の休憩で馬車を降りたとき、革鞄を開けた。着替えを出すためだった。衣類と日用品を整理しながら、手が止まる。
荷物の中に、ペンもインクもない。帳簿も、便箋も、封蝋も。
事務官の道具を、ひとつも持ってこなかった。
意識して置いてきたわけではない。あの朝、必要なものだけを鞄に入れたとき、仕事の道具には手が伸びなかった。十年間、ペンとインクは自分の一部だったのに。鞄に入れないという選択を、手が勝手にしている。ヴェルナーの「誰にでもできる」という一言が、事務官としての自分を根の部分で断ち切っていたのかもしれない。
鞄を閉じ、草原に吹く風を顔に受けた。髪が乱れるのを直さなかった。王都では考えられない所作だが、ここには見ている人間がいない。
それが楽なのか、それとも別の何かなのか、自分でもわからなかった。
三日目の午後。馬車の窓から、北の山脈が見えた。
頂に雪を被った連峰が、雲の下に青白く並んでいる。王都からは見えない山だ。空気が変わった。乾いて、冷たくて、松脂の匂いが混じっている。
御者が振り返った。
「お客さん、あの山の向こうがエーレンフェスト領ですよ。明日の昼には着きます」
レティシアは頷き、外套のポケットに手を入れた。紹介状の紙が指先に触れる。三日間ずっと同じ場所にあった。
取り出して、もう一度開く。
——補給台帳を拝読した。お会いしたい。
硬い筆跡。青みがかったインク。たった二文。
三日前、王都を出る馬車の中で初めてこの文を読んだとき、頭で理解しただけだった。台帳を読んだ人がいる、という事実として。けれど今、十年の記憶をひと通り辿った後で読み返すと、この二文の重さが違う。
あの棚に並んだ十冊を、誰かが開いていた。天候予測の数字を、迂回路の選定根拠を、隊員ごとの装備消耗率を——読んだ人間がいる。
指先が紹介状の縁をなぞった。紙が少し湿っている。三日間、ポケットの中で体温を吸っていたせいだ。
山脈の稜線が、夕日に赤く染まり始めていた。




