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私の十年を「誰にでもできた」と仰るのなら、どうぞご自由に  作者: 九葉(くずは)


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第二話「どうぞご自由に」

 朝の光が、執務室の窓から斜めに差し込んでいた。


 昨夜のうちに片づけた机の上には、書類が処理順に揃えてある。装備点検表、同盟国への通知状四通、ミュラー伍長の食糧配分修正表。どれも封蝋が押され、宛先が書かれ、あとは届けるだけの状態になっている。


 その横に、レティシアは薄い冊子を一つ置いた。


 引き継ぎ書の目次。昨夜、便箋を書いた後に作った。補給管理、外交書簡の定型と各国担当者の性格、隊員の健康記録とアレルギー一覧、天候予測と迂回路データベース、備蓄拠点ごとの在庫管理——項目は八十に及ぶ。


 本文はない。十年分の業務を文章にまとめるには、三日あっても足りない。目次だけが、その輪郭を示している。


 空のインク壺は昨夜のまま、机の端に置いてある。


 足音が近づいてきた。聞き慣れた、歩幅の広い軍靴の音。今朝は一人だ。


 扉が開く前に、レティシアは椅子から立ち上がった。外套を肩にかけ、手袋を嵌めている。旅支度だった。


「——レティシア?」


 ヴェルナーが足を止めた。視線がレティシアの外套に落ち、次に机の上の書類に動き、最後にレティシアの顔へ戻る。


「おはようございます、ヴェルナー様」


 レティシアは頭を下げた。いつも通りの所作、いつも通りの声。朝の挨拶は十年間、一度も変えたことがない。


「どうしたんだ、その格好は。今日は演習の——」


「お話があります」


 ヴェルナーの言葉を遮ったのは、十年で初めてのことだった。自分でもそれに気づいて、一瞬だけ指先が強張る。手袋の革が軋んだ。


 けれど声は平らだった。


「婚約の解消を、お願いいたします」


 白い便箋を差し出す。ヴェルナーは受け取らなかった。受け取る前に、意味を理解できていない顔をしている。


「……何を言っている」


「昨夜のうちに書きました。書式に不備はありません」


「待ってくれ」


 ヴェルナーが一歩近づいた。眉の間に皺が寄っている。声を荒げるのとは違う。本当にわかっていないのだ、とレティシアは思った。わからないから困っている。十年間ずっと、この人はそうだった。


「何か不満があるなら——」


「不満はありません」


 即答した。嘘ではない。不満という言葉では足りなくて、ずっと前からそれを何と呼ぶべきかわからなかったのだ。ただ、もうそれを探す必要もない。


「あなたの仰る通り、私は隣にいるだけでした」


 ヴェルナーの目が僅かに見開かれた。レティシアは続ける。


「でしたら、隣にいる必要もありませんね」


 声は穏やかだった。窓の外で、朝の鐘が鳴り始めている。王都の時計塔。六時の鐘。十年間、この鐘を聞きながら出勤してきた。鐘の音が響いている間だけの、沈黙。


「……待ってくれ、レティシア」


 ヴェルナーが首を振った。手を伸ばし、便箋を受け取る。目を走らせるが、文面を読んでいるようには見えなかった。文字の上を視線が滑っているだけだ。


「昨日の話なら、誤解だ。君の仕事を否定したわけじゃない。ただ、負担を減らそうと——」


「存じております」


「なら——」


「ヴェルナー様は、お優しい方です」


 レティシアは微笑んだ。これも十年間、同じ形で繰り返してきた微笑みだった。口の端をほんの少し上げて、目元を緩める。相手を安心させるための笑顔。何度練習したか覚えていない。


「お優しいから、私が毎晩何をしていたのか、お訊きにならなかった」


 ヴェルナーの表情が固まった。


「お優しいから、あの棚の台帳を、一度もお開きにならなかった」


 棚を見た。十冊の革装丁が、朝日を受けて静かに光っている。ヴェルナーの視線もそこへ向いた。おそらく初めて、あの棚をちゃんと見たのだろう。十年分の背表紙が並んでいる。年号の箔文字が、朝の光の中で読み取れる。


「君——」


「ですから、不満ではないのです」


 レティシアは棚から目を戻した。


「ただ、もう構いません」


 ヴェルナーの顔に、ようやく別の色が浮かんだ。焦り、ではない。もっと鈍い何か。自分が何かを見落としていたという予感に、今になって触れかけている顔。


「十年も一緒にいて——」


 声が低くなった。


「誰にでもできる仕事を、少し他に回しただけで——」


 レティシアの指が、手袋の中で一度だけ握り込まれた。爪が掌に食い込む感触がある。革越しでも、わかる。


 誰にでもできる。


 その五文字が耳の中で反響する。九百二十名の補給計画。百四十頭分の飼料手配。天候予測。迂回路。各国担当官の癖。隊員一人ひとりのアレルギー。十年分の台帳。八十項目の引き継ぎ。


 誰にでもできる。


「——私の十年を」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


「『誰にでもできた』と仰るのなら」


 便箋を持つヴェルナーの手が、微かに震えているのが見えた。気づいたのだろうか。それとも、朝の冷気のせいだろうか。どちらでも、もう構わなかった。


「どうぞご自由に」


 最後まで、声を荒げはしない。


 部屋の空気が、ひとつ止まった。窓から差す朝日の角度が変わって、ヴェルナーの軍服の銀釦が一瞬だけ光る。その光が消えるまでの間、二人とも動かなかった。


 レティシアは机の上を一瞥した。処理済みの書類。引き継ぎ書の目次。空のインク壺。


 必要なものはすべて置いた。持っていくものは何もない。


「引き継ぎの目次を置いてあります。本文は——申し訳ありませんが、一晩では書ききれませんでした」


 頭を下げた。深く、丁寧に。十年間の礼を込めて。


「お世話になりました」


 ヴェルナーは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。便箋を持ったまま、棚の台帳とレティシアの顔を交互に見ている。その口が何かを形づくろうとして、音にならなかった。


 レティシアは振り返らずに執務室を出た。


 廊下の石が、朝日で白く光っている。自分の靴音だけが響く。一人分。聞き慣れた、自分だけの足音。


 角を曲がると、騎士団の朝番の兵士とすれ違った。若い兵士が「おはようございます、フォルクハルト様」と敬礼する。レティシアは微笑んで軽く頭を下げた。名前は——ブルクナー二等兵。配属三ヶ月目。左利きで、剣帯の位置を逆に付ける癖がある。今日もそうだ。いつもなら声をかけて直させるところだが、今朝はそのまま通り過ぎた。


 厨房の前で、焼きたてのパンの匂いが鼻をかすめる。毎朝この匂いを嗅ぎながら執務室に向かっていた。明日からは、この匂いで目を覚ますこともない。


 正門を抜けると、手配しておいた馬車が待っていた。御者が帽子を取って会釈する。荷物は昨夜のうちに積んである。衣類と日用品だけの、小さな革鞄が二つ。


 馬車に乗り込み、扉を閉めた。座席の革が冷たい。


「どちらまで」


「北へ。エーレンフェスト公爵領まで、お願いします」


 馬車が動き出した。車輪が石畳の上を転がり、振動が腰に伝わってくる。窓の外を、王都の街並みが流れ始めた。朝の市場が開きかけている。パン屋の煙突から白い煙が上がり、焼きたての小麦の匂いが一瞬だけ車内に入り込んだ。


 涙は出なかった。出るものだと覚悟していた。十年を閉じた朝だ、泣くのが自然だろう、と。けれど目の奥は乾いている。痛みはある。ただそれは今すぐ溢れる類のものではない。もっとずっと前から胸の底に沈んでいた澱のようなもので——泣くには古すぎた。


 外套のポケットに手を入れた。指先が紙に触れる。


 父が昨日の夕方、屋敷に寄ったときに渡してくれたものだった。「お前が決めたのなら」とだけ言って、封筒を差し出した。中身は紹介状。宛先は、北方辺境エーレンフェスト公爵。


 辺境の変わり者が、事務官を探しているらしい——父はそれだけ付け加えて、背を向けた。不器用な人だった。引き留めもしなければ、慰めもしない。ただ、次の行き先だけを黙って用意している。母が亡くなった年も同じだった。葬儀の手配をすべて終わらせてから、一言「済んだ」とだけ言った人だ。


 封を切る。中には紹介の定型文と、公爵からの短い手書きの添え書きがあった。


 ——補給台帳を拝読した。お会いしたい。


 たった二文。飾りのない、硬い筆跡。インクの色は黒ではなく、少し青みがかっていた。


 レティシアは紹介状を膝の上に置いた。指先でその二行をなぞる。台帳を「拝読した」と書く人間に、十年間で一度も会ったことがなかった。


 馬車が王都の外門をくぐる。車輪の音が石畳から土に変わり、振動がやわらかくなった。


 窓の外に、北へ続く街道が開けている。


 まだ何も見えない。けれどインク壺は空だし、台帳は棚に並んだまま、あの部屋に置いてきた。持ち出したものは何もない。十年分のすべてを、あの机に残してきた。


 手元には、行き先を示す紙が一枚あるだけだ。

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