表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の十年を「誰にでもできた」と仰るのなら、どうぞご自由に  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第一話「隣にいるだけでいい」

 蝋燭の芯が、ぱちりと弾けた。


 三本目。今夜はもう三本目になる。


 レティシア・フォルクハルトは羽根ペンを置き、左手で首の後ろを押さえた。指先に自分の体温がない。執務室の暖炉はとうに落ちていて、薪を足しに立つ時間が惜しいまま二時間が過ぎた。窓硝子の向こうに星が出ている。月は中天を越えた頃合いだろう。


 机の上には、北方大演習の補給計画書が広がっている。


 三個中隊、九百二十名。馬匹百四十頭分の飼料。野営地までの輸送ルートは三本を想定しているが、うち一本は明後日から使えなくなる。北西の峠で雨になる。今朝の雲の巻き方と、過去三年の同時期の気象記録を突き合わせて読んだ。外れたことは、この十年で二度しかない。


 迂回路は東回り。距離は伸びるが、道が平坦なぶん馬匹の消耗が少ない。沿道のヴィッツ村から小麦を三十袋借り受ける手配は昨日のうちに済ませてある。村長のグスタフ老は文書よりも口約束を重んじる人だから、書面と別に挨拶の伝言を騎馬兵に持たせた。借用書の控えを台帳に挟み、ペン先の乾きを指で確かめてから、次の書類に取りかかる。


 同盟国ベルクラント公国への演習通知。書式は先方の外務卿が好む硬めの文語体に揃えなければならない。担当官のヘルマン氏は文末の敬称にこだわりがある。「殿」ではなく「閣下」。些末なことに見えるが、ここを一度間違えたとき返書が二週間遅れた。それが四年前の冬季演習で補給に空白を生み、第二中隊の携行食が二日分不足する事態を招いた。以来、一度も間違えたことはない。


 インク壺に羽根ペンを浸す。ペン先が底を擦った。浅い。


 通知状を書き上げ、砂を振って乾かし、封蝋を押す。蝋の焼ける匂いが鼻に届いた。明日の早馬に間に合わせるには、あと連絡文書が四通。隊員の装備点検表の最終確認がひとつ。それと——第三中隊のミュラー伍長は乳製品で腹を壊すから、野営の食糧配分表も修正がいる。前回の演習では気づくのが半日遅れて、伍長は一日を水と干し肉だけで過ごした。同じことは二度させない。


 棚を見上げた。


 革装丁の補給台帳が、壁の一面を埋め尽くしている。背表紙に年号が箔押しされていた。最初の一冊は十年前のもの。表紙の革が擦り切れて角が丸い。開けば、騎士団の人数を数え間違えて三度も書き直した、拙い数字が並んでいるはずだ。十六の娘が、婚約者の職場に放り込まれた最初の年。何をすればいいのかもわからず、ただ帳簿をつけることだけが、自分の居場所を確保する手段だった。


 二冊目。三冊目。字が安定し、記録の項目が増えていく。五冊目のあたりから天候予測の欄を加え、七冊目で隊員個別の装備消耗データを組み込んだ。


 十冊が、ただ静かに並んでいる。背表紙の箔は最初の一冊だけ少しくすんでいて、あとは均等に光っていた。


 四本目の蝋燭に火を移したとき、廊下に足音がした。


 二人分。


 片方は聞き慣れている。歩幅が広く、軍靴の踵が石の床を規則正しく叩く。もう片方は——軽い。踵の高い靴の、乾いた音。


 扉が開いた。


「レティシア、まだやっていたのか」


 ヴェルナー・ドレクセルが執務室に入ってきた。黒い軍服の襟元が僅かに緩んでいる。夜会帰りだろう。革手袋を片方だけ外して脇に挟み、もう片方はまだ嵌めたまま——彼の癖だ。急いでいるわけではなく、ただ無頓着なだけ。


 その後ろに、淡い桃色のドレスを着た若い女性が控えている。


「紹介するよ。リーゼロッテ・ヴァイス嬢だ」


「初めまして、レティシア様。お噂はかねがね」


 明るい声だった。亜麻色の髪を高く結い上げ、大きな目が蝋燭の灯りを映している。男爵家の令嬢。先月の王宮夜会で、ヴェルナーの隣に立っていたのを見かけた。その場で紹介はされなかった。


「ええ、初めまして」


 レティシアは立ち上がり、微笑んだ。右手の人差し指と中指にインクの染みが残っている。拭わなかった。拭ったところで、爪の際に入り込んだ黒は落ちない。十年かけて染みついたものだ。


「実はね」


 ヴェルナーが椅子の背に手をかけた。穏やかな声。夜会のあとの上機嫌が、まだ声の端に残っている。


「明日から彼女が手伝ってくれることになった」


「——手伝い、ですか」


「君はいつもこんな時間まで残っているだろう。心配していたんだ」


 心配。


 その言葉が耳の中で転がる間に、レティシアの視線は燭台へ向いた。溶けた蝋の中に、三本の燃え尽きた芯が黒く沈んでいる。この部屋に彼が顔を出したのは、今年に入って三度目。去年は五度。その前の年は——覚えていないほど少なかった。蝋燭が何本目かなど、知っているはずもない。


「難しいことは部下に任せた。書類仕事も、もっと分担すればいい」


 ヴェルナーがレティシアの傍に歩み寄り、肩に手を置いた。指が温い。夜会場の暖炉の温度を、その大きな掌はまだ覚えている。


「君は隣にいるだけでいい」


 微笑んでいた。心からそう信じている顔で。


 ——隣にいるだけでいい。


 リーゼロッテが少し離れたところで、両手を前に揃えて二人を見守っていた。彼女の桃色のドレスの裾が、廊下から流れ込む冷気にふわりと揺れる。目が合う。彼女はもう一度、丁寧に会釈をした。


「——そうですか」


 一拍、間があく。


 自分でもわかる。声の最後がかすかに掠れて、母音が短く切れた。ヴェルナーは気づかない。気づかないまま、大きく頷く。


「明日の演習の打ち合わせは朝一番でやるから、今日はもう休みなさい。根を詰めすぎだよ」


 労わるような声だった。十年前も同じ声で、同じことを言った。あのときも、こうして肩に触れられたはずだ。そのときの温度は、もう思い出せない。ただ今この瞬間、同じ声がひどく遠い。


 リーゼロッテが小さく会釈をして、ヴェルナーの後ろに続く。扉が閉まる。二人分の足音が廊下を遠ざかっていった。片方は聞き慣れた音。もう片方は、これからこの場所で聞き慣れていくのだろう。


 自分の足音の代わりに。


 足音が消えた。


 蝋燭の炎が、ぢぢ、と鳴った。暖炉の落ちた部屋に、蝋と封蝋の混じった匂いだけが残っている。


 レティシアは椅子に座り直した。


 机の上の連絡文書は四通残っている。装備点検表。ミュラー伍長の食糧配分。仕事はまだ終わっていない。


 ペンを取った。


 指先は冷えたままだ。暖炉に薪を足す気にはならなかった。どうせあと少しで片がつく。手は動く。十年やってきたことと同じ手順で、同じ精度で、同じ速さで。目を瞑っていても書けるほど、身体が覚えていた。


 一通目の通知状を仕上げ、封蝋を押す。ベルクラント公国南部方面軍宛て。二通目。駐留武官への通達。三通目は同盟国側の物資供出についての確認状で、数量の端数処理に気を遣う。


 四通目の封蝋を押し終えたとき、手が止まった。


 装備点検表に確認印を入れる。ミュラー伍長の配分表を修正し、原本を所定の位置に戻す。書類を分類し、翌朝の処理順に揃え、机の上を拭いた。


 明日、誰がこの席に座っても仕事ができるように。


 最後に棚の台帳を、もう一度見上げた。


 十冊。最初の一冊の角が丸くなった、あの拙い帳簿から、今夜も数字を書き足したばかりの最新の一冊まで。天候予測、輸送ルート、気温と道路状況、各村の備蓄量、隊員ごとの装備消耗率、アレルギー情報。十年かけて項目を増やし、精度を上げてきた記録のすべてが、この棚に収まっている。


 誰も開かなかった。


 彼は一度も、この棚の前に立たなかった。演習の補給がなぜ滞りなく届くのか。同盟国の返書がなぜ期限通りに届くのか。隊員の装備がなぜ過不足なく揃うのか。十年間、問うたことすらない。


 隣にいるだけでいい——。


 空になったインク壺が、机の端で蝋燭の灯りを鈍く反射していた。


 立ち上がり、机の抽斗を引いた。奥に仕舞ってあった白い便箋を一枚、取り出す。


 婚約解消の申し出には定まった書式がある。伯爵家令嬢として、十六の歳に一通りの書式を覚えさせられた。祝辞の書き方も、弔辞の書き方も、そして——こういうものの書き方も。使う日が来るはずのないものほど、正確に覚えているのが皮肉だった。


 インク壺を傾ける。底に溜まった最後の黒が、ペン先をわずかに濡らした。


 文面は短い。


 名前。日付。解消の理由は一行——「双方の合意による解消を希望いたします」。


 合意と呼ぶにはどちらか片方が足りないが、彼がそれに気づくことはないだろう。


 署名を入れた。ペンを置く。便箋の上で、インクがゆっくり乾いていく。


 窓を開けた。


 夜風が頬に触れ、蝋燭の炎が大きく傾いだ。王都の屋根が月明かりの底に沈んでいる。どこか遠くで、まだ夜会の楽の音が続いていた。弦楽器の旋律が、冷えた夜気の中を細く渡ってくる。


 明日、この便箋を渡す。


 それだけのことだ。


 インク壺には、一晩分だけ足りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
主人公は無責任です 婚約破棄を言われたわけでも、クビになったわけでもないですよね 今風に言えば『自己都合による退職』 それを引継ぎもせず、一晩では間に合わないからと満足な引き継ぎ書もなし 無責任の一言…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ