第十話「新しいインク」
屋根から雫が落ちる音で、目が覚めた。
規則正しく、ぽた、ぽた、と。冬の間ずっと屋根に積もっていた雪が、朝の光に溶け始めている。窓を開けると、湿った空気が頬に触れた。冷たいが、刺すような冷気ではない。水と土の匂い。春の気配が、空気の底に混じっている。
三月。辺境に、遅い春が来ようとしていた。
身支度を整え、階下に降りる。厨房を通りかかると、料理番の老婦人が竈の前で鍋をかき混ぜていた。「おはようございます、フォルクハルト様。今朝は蕪のスープですよ」と声がかかる。「ありがとうございます」と返し、食堂へ向かう。
この挨拶も、もう日常になった。
食堂にはクラウスが先にいた。いつもの席で、いつもの姿勢で、書類を読んでいる。濃紺の上着。短く刈り込んだ黒髪。背筋の張り方が軍人のそれであることは変わらないが、以前より肩の力が僅かに抜けている——ような気がする。気のせいかもしれない。
レティシアが椅子を引くと、クラウスが書類から顔を上げた。
目が合う。
一瞬。それだけ。クラウスの視線がレティシアの顔を確認するように捉えて、すぐに書類に戻る。以前はなかった所作だ。あの夜——廊下で掌が重なった夜から、朝食の席で一度だけ目を合わせるようになった。それ以上のことは何もしない。言葉も、態度も、仕事の距離感も変わらない。ただ、朝一番に目を合わせる。それだけのことが、食堂の空気を少しだけ温めている。
ディーターがスープを運んできた。蕪とじゃが芋のスープ。湯気が立ち、焼きたてのパンの香りが食堂に広がる。冬の間は根菜ばかりだったが、そろそろ葉物が出る頃だとディーターが言っていた。
「旦那様」
ディーターが給仕を終えた後、世間話のような口調で言った。
「最近、少しお顔が柔らかくなりましたなあ」
クラウスの匙が止まる。一拍。それから何も言わず、視線をスープに落として食事を再開した。耳の先が、ごくわずかに赤い。
ディーターがレティシアに向かって片目を瞑った。老執事なりの茶目っ気だろう。レティシアは匙を口に運びながら、視線だけでディーターを制した。からかいすぎると、クラウスは一日中不機嫌になる。不機嫌といっても表情は変わらないのだが、書類を捲る音が少しだけ荒くなるのだ。
レティシアはスープを口に運びながら、窓の外を見た。中庭の石畳に雪解け水が流れている。薄い水の膜が朝日を反射して、きらきらと光る。冬の間は灰色だった庭が、水と光を取り戻し始めている。塀際の土が黒く湿っていた。もう少しすれば、あそこから最初の緑が顔を出すだろう。
この景色を、一年かけて全部見るのだ。春の芽吹き、夏の陽射し、秋の収穫、そしてまた冬。その一年分の報告書を、自分が書く。
食後、執務室に向かう。
廊下を歩く足音は一人分。だが以前のように孤独ではない。厨房の老婦人が「行ってらっしゃい」と声をかけ、廊下ですれ違った若い侍女が会釈する。庭師が窓の外で雪囲いを外しているのが見えた。春の仕事が始まっている。この屋敷に暮らす人たちの顔と名前を、レティシアはもう全員覚えていた。
エーレンフェスト公爵領事務統括官。それがレティシアの正式な肩書になっている。クラウスが王宮に申請し、先月の終わりに承認された。申請書の文面はクラウス自身が書いたらしく、ディーターによると「お人の推薦文を書くのに三日かかっておいでした」とのことだ。何を書いたのかは聞いていない。聞かなくても構わなかった。
執務室は屋敷の一階、クラウスの部屋の隣に新しく設えてもらった部屋だ。机と椅子と本棚。そしてインク壺が三つ。窓は南向きで、午前中は光がよく入る。棚にはこの数ヶ月で書き溜めた報告書の控えが並び始めている。まだ十冊には遠いが、一冊目の背表紙には自分の字で年号を入れた。
机の上には、今日処理する書類が積まれている。各村の春季作付け報告、雪解け後の道路状況調査の依頼書、備蓄拠点の冬季運用実績のまとめ。どれも自分で作った仕組みの中で回ってきた書類だ。
備蓄拠点の実績報告を開く。冬季の間にレーゲンスドルフ村へ物資を届けた回数は七回。うち一回が嵐の中の緊急搬送——あの日のことだ。報告書の数字が、あの雪と泥の道を走った記憶と重なる。数字の裏に、いつも現実がある。それを知っている人間が書く数字と、知らない人間が書く数字は、同じ数字でも違う。
一枚目を処理し終えたところで、廊下をディーターが通りかかった。
「フォルクハルト様、王都からのお便りでございます」
差し出された封書は、王宮の紋章入り。騎士団の監査結果に関する公式通達だった。
封を切り、読む。
騎士団の組織再編が決まったという。副官制度が新設され、事務統括のポストが正式に設けられた。団長の直下に配置し、補給・外交・人事の全管理を担う役職。レティシアが十年間、肩書もなく一人でやっていたことが、ようやく「役職」として認識されたということだ。
ヴェルナーの名前もあった。団長職は解かれていない。だが監査の結果を受け、業務の大幅な委譲が命じられている。もう一人ですべてを決められる立場ではなくなるということだ。
便箋を畳み、棚にしまった。
あの場所に事務統括のポストができたことに、感慨がないわけではない。自分が十年間、名前もなく背負っていたものが「役職」として認められた。それは、自分の仕事が無意味ではなかったことの、遅すぎる証明だ。
だが、その椅子に座るのは自分ではない。それでいい。
リーゼロッテのことが頭をよぎった。公文書と一緒に、もう一通の封書が入っていたのだ。宛名はレティシア。筆跡に見覚えがある。明るくて、少し丸い文字。
開くと、短い手紙だった。
——フォルクハルト様。突然のお手紙をお許しください。わたくしはこのたび、騎士団を辞することにいたしました。事務統括の新設に際し、残って学ぶ道もありましたが、わたくしには別にやりたいことがあると気づいたのです。お体にお気をつけて。
それだけ。謝罪ではない。弁解でもない。自分で決めた人間の、短い挨拶。
レティシアは手紙を畳み、棚にはしまわず、机の抽斗に入れた。いつか返事を書くかもしれない。書かないかもしれない。
棚を閉じ、机の書類に戻った。春季作付け報告の数字を追い、各村の作付け面積を集計表に書き写す。ペンが紙の上を走る。インクが数字を刻んでいく。ここに、自分の仕事がある。
午後、クラウスの執務室に報告書を届けに行くと、机の上に小さな木箱が置いてあった。
クラウスは書類を読んでいる。レティシアが報告書を置くと、彼は顔を上げず、顎で木箱を示した。
「開けろ」
蓋を外すと、中にインク壺が一つ。見慣れない色だった。黒ではなく、深い青。瓶の硝子越しに光を透かすと、夜の湖のような濃い藍色が揺れている。
「辺境産だ。北の松脂から作る」
クラウスの声は、いつも通り低く、短い。書類から目を上げずに言う。
「……黒より見やすい」
それだけ言って、視線を書類に戻した。贈り物だとは言わない。実用の話として差し出す。あの夜、「あなたの全部が必要だ」と言った人間と同じ口から、「黒より見やすい」が出てくる。彼はそういう人だ。感情のすべてを行動に変換し、言葉にはしない。インク壺ひとつに何を込めたのかは、聞かない。聞かなくてもわかるようになった。
レティシアは瓶を手に取った。硝子が掌に冷たい。蓋を開けると、松脂の苦みを含んだ深い匂いがする。王都のインクにはない匂い。馬車で北へ向かう途中、初めて嗅いだ辺境の空気に似ている。あのとき、手元にはペンもインクもなかった。仕事道具をひとつも持たずに来た。今は、四つ目のインク壺を手にしている。
「では、今日からこちらで」
笑っていた。自分でもわかった。口元が自然に緩んでいる。
クラウスは書類から目を上げなかったが、ペンを持つ手が一瞬止まっていた。
自室に戻り、新しいインク壺を机に据えた。三つ並んだインク壺の隣に、四つ目。窓から午後の光が差し込んで、硝子の中の藍色を淡く照らしている。
一つ目のインク壺は、着任の夜に部屋に置かれていたもの。まだ一文字も書いていない自分のために、誰かが用意してくれた黒インク。あの夜、蓋を開けたときの目の奥の熱さを、まだ覚えている。二つ目と三つ目は、インクを使い切った翌朝に三つ届いたうちの残り。どちらも半分ほど減っている。
四つ目は、青い。
羽根ペンを浸した。新しいインクがペン先に吸い上げられ、青い線が紙の上に現れる。黒より少し柔らかく、光を受けると深い藍に変わる。クラウスの言う通り、確かに見やすい。
春季作付け報告の集計表。最初の一行。レーゲンスドルフ村、小麦、六十エーカー。
インクの色が変わった。
書く文字は変わらない。数字は数字で、報告書は報告書だ。ペンの持ち方も、書く速度も、注釈の入れ方も同じ。ただ、今日の報告書の余白には、春の光が差していた。




