光網試運転と恋文の夜
エステルが夜勤を辞めて七日目、王宮前の広場に白い台座が据えられた。
トビアスは招待客の後ろで、鞄の紐を握っていた。中には引き継ぎ書がある。ここ二晩で何度も開いたため、三頁目と十九頁目には指の跡がついた。
読むほど、怖くなった。
あの人は毎晩、これだけのことをしていたのだ。七つの塔を回り、音を聞き、値を残す。それでようやく動いていた網を、五日もそのままにした。
昨日はハンスについて第三塔の番号と値を確かめた。昼の受付を終えてからだったので、全部を見るころには夜が明けていた。輪を動かす前に、どの石がどこへつながるか覚えろと言われ、まだ一本も直せていなかった。
試運転までに一度止めて確かめたいと届け出た紙は、返ってこなかった。
「本日は、新しい通信の形をご覧に入れます」
フローラが白いドレスの裾を整えた。銀の肩掛けが風に揺れる。
傍らのギルベルトは、集まった貴族へ一人ずつ目礼していた。
「光魔法で文字を空へ放ち、塔から塔へと渡して、王都じゅうの詰所にお届けいたします」
拍手が起きた。
トビアスは第三塔を見上げた。既存の鳴晶石を止めるという指示は来ていない。光と石を同時に使ってよいという記録も、局へ回ってこなかった。
だが、人垣の中から今さら声を上げる勇気はなかった。
フローラが両手を広げた。
光の球が生まれ、頭上へ浮く。薄曇りの空に、金色の道が一本できた。光は第一塔の窓で弾み、第二塔へ渡る。
きれいだった。
トビアスも一瞬、これならと思った。
第三塔の窓が青く光った。
広場に置かれた受信用の石が、一つ残らず鳴りはじめた。音が重なりすぎて、何の知らせなのか分からない。
やがて、同じ文字が浮いた。
『ギルベルト様へ。今夜も星がきれいですね。あなたの瞳のほうが、ずっときれいですけれど』
誰も拍手をしなかった。
王宮の門脇で受信を確かめていた騎士が、隣の騎士を見た。隣は真っすぐ前を向いたまま動かない。
招待されていた帳場の老人は眼鏡を外し、袖で拭いて、もう一度かけた。
「試験の文、ですか」
誰かが尋ねた。
フローラの頬が赤く染まり、耳まで色づいた。
「それは、昨夜、お屋敷だけに……」
ギルベルトは受信用の石へ歩み寄った。
文字を手で隠せるはずもなく、立ち位置を変えただけになった。
トビアスは唇を噛んだ。
いけないと思うほど、ギルベルトの背中が目に入る。いつも大きく張っている肩が、今はどちらへ向くか決めかねていた。
笑いそうになった息を飲み込み、受信の時刻を書いた。
やがて、屋敷から走ってきた使いが同じ紙を差し出した。
二人目も同じだった。商業ギルドからの使いは、もはや紙を開かなかった。
「こちらにも来ております」
王宮の書記官が、目を伏せたまま歩み出た。
「一斉の知らせは、各部署用に三十部写す決まりなのですが」
「写さなくていい!」
「すでに取りかかっております」
フローラは両手を下ろした。空の光が消えた。
石の文字だけは、しばらく残った。
◇
夕刻、騎士団長が正式な苦情を王宮へ上げた。
トビアスは添付する記録を揃えた。三日目から数えて五日間の遅れと、注文の誤りと、今日の一斉混線。
ギルベルトは召し出され、夜になっても戻らなかった。
受付の者が帰るのを待ち、トビアスは携帯灯を持った。
第三塔へ上る階段は、昼より狭く見えた。最上階の扉を押すと、窓の隙間から風が入ってきた。
エステルは五年間、ここにいた。
手をこすっても、すぐに指の先が冷たくなる。
棚の音はひどかった。
高い石と低い石が互いに引っ張り合い、どこに耳を向けても濁っている。トビアスは机に引き継ぎ書を広げた。
十九頁。
『違う相手に届いたら、まず連絡用の石を全部止める』
六本の位置を図で確かめる。
止めれば、ほかの塔へ文を送れなくなる。それでよいのかと迷い、すぐ下の行を読んだ。『混線したまま他塔へつながないこと』。
先に布を敷いた。
それでも留め金を二度落とした。二度とも布の上で止まり、拾うのに時間はかからなかった。
六本を止めると、音が少し静かになった。
次は、基準にする一本。
今の値を日誌へ書く。輪をはめる。半目盛り動かし、手を離して待つ。
まだ濁っている。
戻そうとして、待つ時間を読み直した。古い石は、音が戻るのが遅い。
息を吐いて待った。
細い音が、ようやく一本だけ聞こえた。
トビアスは顔を上げた。
誰もいない部屋で、もう一度その石に触れた。さっきとは違う。指にも分かった。
頁を戻して次の石の癖を探すと、『満月の夜は、巡回時に二度確認すること』とあった。
余白には、理由は分からないが毎回そうだ、と書いてある。
彼は初めて、少し笑った。
エステルにも分からないことがあった。それでも、分からないまま書いてくれていた。
階段で杖の音がした。
ハンスが戸口に立っていた。肩で息をしながら、真鍮札のついた鍵を持ち上げる。
「予備が要るかもしれんと思ってな」
「ハンスさん。今、一本」
「聞こえとる」
老人は椅子へ腰を下ろした。
「わしは手を出さん。お前がやれ。ただ、見ててやる」
トビアスは次の値を書いた。
数字は震えていたが、読み返せた。ハンスに確かめてもらいながら、直した石を使って局から国境へ通じる一本をつなぎ直した。
◇
昨夜から国境線に混じっていた濁りは、昼を境に強まった。
エステルはラウエン側の値を取り直し、夕方までに、触ってよい石と残す石を分けた。峠へ届いた報告には、王都の光網試運転で混線、とある。
夜半近く、クラウスが棚の前へ来た。
「向こうを直しに行かなくて、いいのですか」
帰れという意味ではないと、声で分かった。
エステルは石に添えた手を動かさなかった。
どこから直せば早いか、分かる。
第三塔の連絡用を止め、第五塔の三番を確かめる。第四塔は今夜の冷えなら、奥の二本から聞く。
体の方が先に、階段へ向かいそうになった。
「あちらの網は、もうわたしの担当ではありません」
口にしてから、ようやく手が離れた。
「手順も、予備の場所も残しました。それを読むかどうかは、あちらが決めることです」
エステルはラウエン側の石へ輪をはめた。
音を受け取る幅を少し狭くする。合わせすぎると、正常な文まで通らなくなる。細かく刻んで動かし、一度ずつ確認の文を送った。
『届きますか』
院の当番から返答がある。次に国境線の試験音を確かめる。正しい響きは通った。濁りは、棚の隣へ移らずに途切れた。
網は、切るより繋いでおくほうが難しい。
ハンスに教わったころは、面倒なことを言うと思っていた。
「わたしは、こちらの仕事をします」
クラウスが机へ新しい紙を置いた。
彼も隣の石を確かめはじめた。戻れとも、よく決めたとも言わなかったので、エステルは仕事を続けられた。
向こうの波が一度弱まった。
誰かが連絡用の石を止めたらしい。しばらくして、一筋だけ澄んだ音が通った。
その音に乗って、鳴文が届いた。
初めの文字が欠け、次の受信で埋まる。文末の名を見て、送り直すだけの辛抱はある人なのだと思った。
『エステル、戻ってこい。今なら婚約を戻してやってもいい。 ギルベルト』
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