引き継ぎ書の三頁目に
エステルは届いた文を二度読んだ。
読み損ねたわけではない。二度目にも仕事の話が一つもないことを、確かめただけだった。
クラウスは棚から一歩離れ、窓の方を向いていた。私信だと気づいたらしい。
エステルは石へ手を置いた。
『引き継ぎ書の三頁目に、全部書いてありますよ』
続けて、必要なことだけ添えた。
『追伸。見習いのトビアスさんに写しを渡してあります。彼は読んでいるはずです』
送り終えて指を離した。
怒るための言葉は浮かばなかった。ただ、まだ読んでいなかったのだな、と思った。ここまで来て、もう一度同じ話をする必要はない。
「お返事は済みましたか」
「はい。引き継ぎは、最初に済ませてありますから」
クラウスはうなずいた。
机に戻ると、冷めた杯の横に湯の入った容器が置いてあった。エステルはそれを使い、珈琲を少し温め直した。
◇
ギルベルトが王宮から戻ったのは、夜更けだった。
その足でハーゲン伯爵家へ使いを出し、エステルがラウエン魔導通信院にいると聞き出した。伯爵はそれ以上のことを伝えなかった。
局から国境線へ通じる一本が復旧したと知らせを受けたので、戻るよう命じた。
返事は短かった。
ギルベルトは机の引き出しを開けた。
招待状の束の下に、引き継ぎ書があった。受け取った朝に数枚めくったきりだった。紙には指の汚れ一つない。
三頁目を開く。
『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』
その下には、担当者を決め、毎晩の値を確認するよう記されていた。夜勤表の控えには、退職の翌日から空欄が続いている。
ギルベルトは頁を戻した。どこかに、もっと別の注意があるはずだった。こんな紙を渡すだけで、伝えたことになるのか。
扉が叩かれた。
「ローデン長官。陛下がお呼びです」
さっき戻ったばかりだと答えかけ、使いの後ろに騎士が二人いることに気づいた。
翌朝、長官の交代が告示された。
表向きは、ギルベルト本人の申し出による辞任だった。侯爵家に配慮した文面は短く、通信の支障への言及もなかった。
私物を引き取るために来た彼は、三十二頁の冊子を机に残した。
「そんなに大事なら、もっと早く言えばよかったんだ」
付き添いの家令は返事をせず、長官の徽章を箱へ収めた。
◇
国王の前に呼ばれたトビアスは、礼をするとき、危うく自分の足を踏んだ。
昨夜の値を記した日誌と、引き継ぎ書を差し出す。指に残ったインクが、袖口についていた。
「お前が第三塔を直したのか」
「まだ、全部ではありません。混線を止めて、急ぐ文が通るところまでです。音の戻らなかった石は、地下の予備と替えました」
「どうやって直した」
トビアスは手元の冊子を見た。
「引き継ぎ書のとおりに、しただけです」
国王は三頁目で手を止めた。
しばらく読み、次の頁へ進み、十九頁も開いた。留め金の下へ布を敷くように書かれた行を、指がゆっくり辿った。
「……我々は、得難いものを手放したようだな」
誰も答えなかった。
トビアスは臨時の保守責任者に任じられた。
一人で七基は無理です、と震える声で言うと、夜勤の増員と指導役の復帰が命じられた。国王の前で無理だと言ってよかったのか、退出してからも膝が落ち着かなかった。
倉庫で話を聞いたハンスは、作業台の椅子を引き寄せた。
「見てるだけだぞ」
「はい」
「一人で抱えるな。誰に何をさせるかも、お前が覚えろ」
トビアスは日誌に、増やすべき担当の欄を作った。
三日後、受付へフローラが来た。
地味な茶色の服を着ていた。髪に光の飾りはなく、目の下には薄い隈がある。
トビアスが立つ前に、彼女が頭を下げた。
「わたくしに、石の調律の基礎を教えていただけませんか」
彼は返事に困った。
自分もまだ、教わっているところだった。
「ハンスさんの方が、詳しいです」
「ご一緒に学ばせていただけるだけでも」
フローラは抱えてきた図面を机へ置いた。金色の線の脇に、細かな書き込みが増えていた。数字の入った箇所より、空欄の方が多い。
「ハーゲン様に、仕様書はあるかと聞かれました。答えられなかったのに、試運転をすれば分かると思ってしまったんです」
彼女は空欄へ目を落とした。
「何を確かめればいいのかも、決めていませんでした。知らないものの上に、新しいものを建てようとしていたんです」
トビアスは棚から引き継ぎ書を取った。
渡そうとして、彼女がもう一度頭を下げていることに気づいた。
「顔を上げてください。僕も、ここからでしたから」
一頁目を開く。
「この引き継ぎ書は、読む人が何も知らないことを前提に書いてあるんです」
フローラの指が二行目に触れた。
トビアスは椅子をもう一脚持ってきた。
「一緒に、一頁目から」
◇
ひと月後、ラウエンの院へ、ヴァルトリア国王の名で文が届いた。
国境線を両国で整備したいという依頼だった。窓口にはトビアス・ヴェルナーの名があった。
エステルは添えられた資料を広げた。
石の番号、修理の済んだ箇所、まだ遅れの出る時刻。トビアスらしい細い字で、分からないものには分からないと記されていた。
最後の頁には、第五塔の窓の修繕が終わったとある。
エステルはそこを指で押さえ、少し笑った。
「こちらの担当には、あなたをと考えています」
クラウスの声に、顔を上げた。
「お引き受けします。ただ、院の当番と調整させてください」
「もちろん。向こうへ戻る必要はありません」
「わたしの席は、ここにありますから」
言ってから、その言葉を初めて受け取った日のことを思い出した。
「トビアスさんの手伝いはしたいんです。今度は、相談して分担できますし」
クラウスの肩から、少し力が抜けた。
帰ってしまうと思ったのだろうか。まだここには、手入れの済んでいない石が半分もあるのに。
そう言おうとして、エステルはやめた。
それだけで残るわけでもない気がした。
その夜、院の塔で珈琲を二杯淹れた。
石の番号は、ひと月かけてようやく整理がついた。台座の掃除は半分。日誌にはベルントと若い技師の筆跡も加わっている。
エステルは最後の欄を空けて、杯を運んだ。
「夜勤の方には珈琲を出す、と伺っていますので」
「今日は私がいただく番なんですね」
「院長のお約束なら、わたしも守りませんと」
クラウスは笑って受け取った。
ノアが二人の椅子のあいだを通り、塔の窓辺に置かせてもらった籠へ入る。外は冷えていたが、窓の隙間は昨日塞いでもらった。
エステルは珈琲を一口飲んだ。
「エステル」
初めて、名だけで呼ばれた。
杯を戻すと、受け皿が小さく鳴った。
「あとで、と言った話をしてもいいですか」
うなずくまでに、少し時間がかかった。
「腕のいい技師に来てほしかった。それは本当です。でも、あなたでなければ、こんなに返事を待ったりしなかった」
クラウスは杯を机へ置いた。
「猫は元気かと聞くたびに、本当は、あなたは元気かと聞きたかった」
エステルは窓辺を見た。ノアは目を閉じている。
猫の話なら、いくらでも答えられた。今日食べたものも、棚の下へ隠した刷毛のことも。
自分のことになると、どこから話せばよいのか分からない。
「今は、答えなくていいんです」
「でも」
「仕事の返事とは、別ですから」
エステルは日誌を引き寄せた。
夜の確認は済んでいた。書くべきことも決まっている。それなのに、ペンを持った指が紙の上で止まった。
「明日も、二杯淹れます」
ようやく言うと、クラウスはすぐには答えなかった。
顔を見る勇気が出ないまま、エステルは末尾へ書いた。
『異常なし』
「字が、揺れていますね」
「……指が冷えて、うまく動かないんです」
言い訳をした途端、肩へ外套がかかった。まだ彼の体温が残っていた。
礼を言おうと振り向くと、思っていたより近くに顔があり、声が小さくなった。
「ありがとうございます、クラウス様」
彼は驚いたあと、ゆっくり笑った。
窓辺でノアが目を開けた。二人を見て、大きなあくびをした。
(第一章 了)
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ここまでで第一章はおしまいです。第二章もよろしくお願いします。




