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【連載版】「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます  作者: 星守りんか


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8/10

はじめての昼の仕事

 朝の光が、白い会議机に反射していた。

 エステルは窓へ背を向ける席を選び、三冊の日誌を置いた。ラウエンに着いた翌々日の朝だった。まだ寝台の広さに慣れず、眠れる時間になっても、第三塔の鍵を確かめる夢で目が覚める。


「眠そうね」


 隣のマルタが小声で言った。


「少しだけ」

「今度から、会議は午後にしましょう。私も朝は嫌い」


 エステルは笑いかけたが、向かいの技師がこちらを見ていたので、背筋を伸ばした。


 クラウスが席に着くと、話はすぐに始まった。

 院長の挨拶は短かった。今日の案件は三つ。予備の石の購入と、南の線の増設。それから、国境中継塔(こっきょうちゅうけいとう)の調律(ちょうりつ)の見直し。


「新しい保守主任のエステル・ハーゲンさんに、取りまとめをお願いします」


 エステルは日誌へ置いた手を止めた。

 主任、という話は聞いていない。保守の担当とは聞いたが、取りまとめまで任されるとは思わなかった。

 問い返すより先に、向かいの年配技師が椅子を引いた。


「院長。来たばかりの方に、国境塔を任せるのですか」


 ベルントと紹介された男だった。節の太い指に、小さな古傷がいくつもある。


「令嬢(れいじょう)の手習いで、うちの古い石が扱えるとは思えませんな」


 部屋が静かになった。

 クラウスは口を挟まなかった。エステルを見る目だけが、こちらに答えを求めていた。


 ベルントの言い方はきつかったが、心配はもっともだった。

 自分だって、昨日来たばかりの人へ、第三塔を任せろと言われたら同じことを尋ねる。


「確かめていただけますか」


 エステルは最初の一冊を開いた。


「三年前の、早い雪の年です。ヴァルトリア側の値を控えてあります。院の日誌と並べてください」


 マルタが用意していた帳面を渡す。

 ベルントは最初、黙って頁(ページ)をめくった。途中から、指で左右の行を追いはじめた。


「この晩は、規定から上げたのか」

「一目盛りです。そちらを下げていただきました」

「真ん中で合わせる、と院長が言った晩だな」

「はい。こちらは三晩、通せずにいました」

「こっちは五晩だ」


 エステルは顔を上げた。

 ベルントも同じようにこちらを見た。


「あれは、あんたか」


 彼は次の頁を開いた。春の増水の夜まで確かめ、秋の欄で手を止める。


「こちらが動かす前に、待っていたことがあるな」

「音が戻るまで、少し時間のかかる石があるようでしたので」

「二十年前の石だ。よく分かったな」

「待つと、きれいに重なるんです」


 ベルントは長く息を吐いた。

 帳面を閉じ、机の上で向きを直して返す。


「失礼した。国境塔を頼む」

「まずは、番号の違いから教えてください。古い日誌と現物が合わなくて」

「それなら午後、図を出そう」


 机の下でマルタに膝(ひざ)を叩かれた。励ましにしては少し痛い。エステルはうなずいてから、主任という言葉をもう一度思い出した。


 会議のあとで確かめると、マルタはあっさり謝った。

 全体の調律を任せるなら主任だと、院では話が通っていたらしい。エステルは、分からない石は各担当に聞くこと、夜勤は分担することを確かめてから引き受けた。


 ◇


「助け舟を出さなくて、すみませんでした」


 廊下でクラウスに言われた。


「出さないでくださって、よかったです」

「そうですか」

「院長に庇(かば)われて任された仕事だと、きっと誰も認めてくれませんでしたから」


 クラウスは足を止めた。少し意外そうにして、それから口元を緩めた。


「あなたは、本当に」

「途中でやめないでください。気になります」

「いえ。それも、またあとで」


 最近、この人には、あとで話すことが増えている。

 忘れないよう書いておくべきだろうか。そう思ったが、会議の記録に入れるわけにもいかず、エステルは日誌を抱え直した。


 その日の午後、ベルントから古い図を受け取り、峠へ向かった。

 数日前に馬車から見上げた塔へ、今度は自分の足で入る。院からは馬で一刻ほどの道のりだった。泊まり込みの支度と、乗り込んできてしまったノアの籠(かご)もある。

 初日は石の番号を照らし合わせるだけで終わった。


 翌日は、昼の便りが少なくなるまで待った。

 院の当番に連絡し、この石を使う便りを予備の線へ回してもらった。流れていた文字が途切れたのを確かめ、古い台座を取り外して机へ置く。溝に爪の先ほどの埃(ほこり)が固まっていた。細い刷毛(はけ)を差し込むと、黒い塊になって落ちる。


 第五塔でも同じことがあった。

 音ばかり直して、ひと月かけても落ち着かなかった。台座を外したのは、ほかに試すことがなくなってからだった。

 あのひと月がなければ、今夜も輪を回し続けていたかもしれない。


 溝を拭(ふ)い、元の向きに戻す。

 試しに指を添えると、音が長く残った。ノアが机の下から顔を出した。


「今のは、どう?」


 猫は耳を立てたまま、刷毛の先を見ている。

 エステルは届かないところへ道具を寄せた。


 扉が開いたのは、それからしばらく後だった。

 クラウスが厚い布でくるんだ容器と、夜食の包みを持っている。容器を開けると、まだ湯気が立った。


「夜勤の方には珈琲(コーヒー)を出す、と約束したので」

「わざわざ、峠まで?」

「点検の経過も聞きに来ました」


 机に包みを広げると、肉と野菜をパンに挟んで焼いたものが二つ出てきた。片方の焦げ目が少し濃い。


「マルタからです。夜食を食べない技師は信用ならない、と」

「夕食を忘れていました」

「では、今のところ信用がありませんね」


 二人で椅子に座った。

 珈琲はいつもより濃く、持った指まで温かかった。エステルは一口飲み、気づかないうちに息をついていた。


 クラウスへ台座を見せると、彼は溝を覗(のぞ)き込んだ。


「二年ほど、この音には悩まされていたんです」

「石ではなく、ここで響きを止めていたんですね」

「よく気づきましたね」

「王都で、ひと月気づかなかったことがあります」


 彼は笑わずに、なるほど、と言った。

 それがうれしくて、エステルは少し詳しく話した。埃を取る前後の値、古い石が音を戻すまでの間。彼は夜食を食べ終えてからも、帳面を見ていた。


「三年間、こちらで合わせてくださっていたのは、院長ですね」

「分かりますか」

「最後の四分の一だけ、ゆっくり動かすんです。向こうで聞いていても分かりました」

「そちらが待ってくれていたので」

「お互いさまです」


 窓の外で風が鳴った。

 山の向こう、王都に第三塔がある。今まではそこから、この音を聞いていた。


「毎晩この塔に登るのが、私の楽しみでした」


 クラウスの声が近かった。


「執務(しつむ)が長引いても、まだ起きている人がいると思うと、来たくなった」


 エステルは杯の取っ手をなぞった。

 自分も同じだったと言えばいい。値を確かめるためだけに待っていたのではないと。

 顔を上げ、息を吸った。


 石が鳴った。


 低い音の端に、耳をこするような濁りが混じっていた。

 ノアが両耳を伏せる。エステルは杯を置き、棚へ近づいた。こちらで直した台座の音ではない。

 山の向こうから来ていた。


「……王都の側から、乱れた波が来ています」



お読みいただき、ありがとうございます。

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