はじめての昼の仕事
朝の光が、白い会議机に反射していた。
エステルは窓へ背を向ける席を選び、三冊の日誌を置いた。ラウエンに着いた翌々日の朝だった。まだ寝台の広さに慣れず、眠れる時間になっても、第三塔の鍵を確かめる夢で目が覚める。
「眠そうね」
隣のマルタが小声で言った。
「少しだけ」
「今度から、会議は午後にしましょう。私も朝は嫌い」
エステルは笑いかけたが、向かいの技師がこちらを見ていたので、背筋を伸ばした。
クラウスが席に着くと、話はすぐに始まった。
院長の挨拶は短かった。今日の案件は三つ。予備の石の購入と、南の線の増設。それから、国境中継塔の調律の見直し。
「新しい保守主任のエステル・ハーゲンさんに、取りまとめをお願いします」
エステルは日誌へ置いた手を止めた。
主任、という話は聞いていない。保守の担当とは聞いたが、取りまとめまで任されるとは思わなかった。
問い返すより先に、向かいの年配技師が椅子を引いた。
「院長。来たばかりの方に、国境塔を任せるのですか」
ベルントと紹介された男だった。節の太い指に、小さな古傷がいくつもある。
「令嬢の手習いで、うちの古い石が扱えるとは思えませんな」
部屋が静かになった。
クラウスは口を挟まなかった。エステルを見る目だけが、こちらに答えを求めていた。
ベルントの言い方はきつかったが、心配はもっともだった。
自分だって、昨日来たばかりの人へ、第三塔を任せろと言われたら同じことを尋ねる。
「確かめていただけますか」
エステルは最初の一冊を開いた。
「三年前の、早い雪の年です。ヴァルトリア側の値を控えてあります。院の日誌と並べてください」
マルタが用意していた帳面を渡す。
ベルントは最初、黙って頁をめくった。途中から、指で左右の行を追いはじめた。
「この晩は、規定から上げたのか」
「一目盛りです。そちらを下げていただきました」
「真ん中で合わせる、と院長が言った晩だな」
「はい。こちらは三晩、通せずにいました」
「こっちは五晩だ」
エステルは顔を上げた。
ベルントも同じようにこちらを見た。
「あれは、あんたか」
彼は次の頁を開いた。春の増水の夜まで確かめ、秋の欄で手を止める。
「こちらが動かす前に、待っていたことがあるな」
「音が戻るまで、少し時間のかかる石があるようでしたので」
「二十年前の石だ。よく分かったな」
「待つと、きれいに重なるんです」
ベルントは長く息を吐いた。
帳面を閉じ、机の上で向きを直して返す。
「失礼した。国境塔を頼む」
「まずは、番号の違いから教えてください。古い日誌と現物が合わなくて」
「それなら午後、図を出そう」
机の下でマルタに膝を叩かれた。励ましにしては少し痛い。エステルはうなずいてから、主任という言葉をもう一度思い出した。
会議のあとで確かめると、マルタはあっさり謝った。
全体の調律を任せるなら主任だと、院では話が通っていたらしい。エステルは、分からない石は各担当に聞くこと、夜勤は分担することを確かめてから引き受けた。
◇
「助け舟を出さなくて、すみませんでした」
廊下でクラウスに言われた。
「出さないでくださって、よかったです」
「そうですか」
「院長に庇われて任された仕事だと、きっと誰も認めてくれませんでしたから」
クラウスは足を止めた。少し意外そうにして、それから口元を緩めた。
「あなたは、本当に」
「途中でやめないでください。気になります」
「いえ。それも、またあとで」
最近、この人には、あとで話すことが増えている。
忘れないよう書いておくべきだろうか。そう思ったが、会議の記録に入れるわけにもいかず、エステルは日誌を抱え直した。
その日の午後、ベルントから古い図を受け取り、峠へ向かった。
数日前に馬車から見上げた塔へ、今度は自分の足で入る。院からは馬で一刻ほどの道のりだった。泊まり込みの支度と、乗り込んできてしまったノアの籠もある。
初日は石の番号を照らし合わせるだけで終わった。
翌日は、昼の便りが少なくなるまで待った。
院の当番に連絡し、この石を使う便りを予備の線へ回してもらった。流れていた文字が途切れたのを確かめ、古い台座を取り外して机へ置く。溝に爪の先ほどの埃が固まっていた。細い刷毛を差し込むと、黒い塊になって落ちる。
第五塔でも同じことがあった。
音ばかり直して、ひと月かけても落ち着かなかった。台座を外したのは、ほかに試すことがなくなってからだった。
あのひと月がなければ、今夜も輪を回し続けていたかもしれない。
溝を拭い、元の向きに戻す。
試しに指を添えると、音が長く残った。ノアが机の下から顔を出した。
「今のは、どう?」
猫は耳を立てたまま、刷毛の先を見ている。
エステルは届かないところへ道具を寄せた。
扉が開いたのは、それからしばらく後だった。
クラウスが厚い布でくるんだ容器と、夜食の包みを持っている。容器を開けると、まだ湯気が立った。
「夜勤の方には珈琲を出す、と約束したので」
「わざわざ、峠まで?」
「点検の経過も聞きに来ました」
机に包みを広げると、肉と野菜をパンに挟んで焼いたものが二つ出てきた。片方の焦げ目が少し濃い。
「マルタからです。夜食を食べない技師は信用ならない、と」
「夕食を忘れていました」
「では、今のところ信用がありませんね」
二人で椅子に座った。
珈琲はいつもより濃く、持った指まで温かかった。エステルは一口飲み、気づかないうちに息をついていた。
クラウスへ台座を見せると、彼は溝を覗き込んだ。
「二年ほど、この音には悩まされていたんです」
「石ではなく、ここで響きを止めていたんですね」
「よく気づきましたね」
「王都で、ひと月気づかなかったことがあります」
彼は笑わずに、なるほど、と言った。
それがうれしくて、エステルは少し詳しく話した。埃を取る前後の値、古い石が音を戻すまでの間。彼は夜食を食べ終えてからも、帳面を見ていた。
「三年間、こちらで合わせてくださっていたのは、院長ですね」
「分かりますか」
「最後の四分の一だけ、ゆっくり動かすんです。向こうで聞いていても分かりました」
「そちらが待ってくれていたので」
「お互いさまです」
窓の外で風が鳴った。
山の向こう、王都に第三塔がある。今まではそこから、この音を聞いていた。
「毎晩この塔に登るのが、私の楽しみでした」
クラウスの声が近かった。
「執務が長引いても、まだ起きている人がいると思うと、来たくなった」
エステルは杯の取っ手をなぞった。
自分も同じだったと言えばいい。値を確かめるためだけに待っていたのではないと。
顔を上げ、息を吸った。
石が鳴った。
低い音の端に、耳をこするような濁りが混じっていた。
ノアが両耳を伏せる。エステルは杯を置き、棚へ近づいた。こちらで直した台座の音ではない。
山の向こうから来ていた。
「……王都の側から、乱れた波が来ています」
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