たまたまだ、と長官は言った
長官室の扉の前で、トビアスは報告の文句を三度繰り返した。
遅れは一度。文字の欠けはなし。宛先も正しい。
それなら大ごとではないのかもしれない。だが、何もなかったことにしてよいとも思えなかった。
「入りたまえ」
中へ入ると、フローラが焼き菓子の皿を机の端へ寄せた。砂糖の甘い匂いがした。
ギルベルトは茶を飲みながら、差し出された記録を見た。
「その程度、たまたまだろう。石だって、機嫌の悪い日くらいある」
「過去五年分の控えには、遅れた記録が一つもないんです」
言ったあとで、トビアスは喉がひりついた。
長官の片眉が上がる。
「君は五年も勤めていたか」
「いえ。記録を、確認しました」
「確認できたのなら結構。続くようなら報告しなさい」
机の上へ戻された紙に、杯の底の湿りがついた。
トビアスはその端をつまんだ。
「調律の担当を決めていただけませんか。ハーゲン様が」
「今は光網の準備が先だ」
フローラが穏やかに口を添えた。
「試運転までの辛抱ですわ。来週の予定を、三日後に早めていただいたんです。皆さんにも、もう少し待っていただければ」
あと三日。
待っていれば直るのか、トビアスには判断がつかなかった。そういう技術なのだと言われれば、知らない自分の方が間違っているように思える。
長官が次の書類を取り上げた。
トビアスは礼をして下がった。言おうと思っていた残りの半分は、廊下に出ても喉に残っていた。
◇
受付の机の下で、引き継ぎ書を開いた。
受け取った日に三頁目を読むつもりだった。ところが、エステルが辞めて空いた雑務まで見習いのところへ回ってきた。備品の数を合わせ、夜の届出をまとめ、退職した者の名前を当番表から消した。
家に帰れば眠った。翌朝も早かった。
そうしているうちに三日が過ぎた。
一頁目の二行目に、目が止まった。
『この引き継ぎ書は、読む人が何も知らないことを前提に書いています』
トビアスは椅子の背にもたれた。
どこを見ても、自分だけが知らない気がしていた。受付で尋ねられても答えられず、塔の音を聞いても、エステルのように指を伸ばせない。
この紙の上では、知らなくてよかった。
番号の読み方から始まっていた。
棚の横にある古い札を信じないこと。現物の台座に刻まれた数字を確かめること。
第三塔の右側の棚を思い出す。あそこには確かに、薄く消された番号が残っていた。
「おい、通信局!」
窓口を叩く音に、顔を上げた。
騎士団の使いが濡れた外套のまま立っている。
「昨夜の交代の知らせが遅れた。出した時刻を確かめてくれ」
「ただいま」
引き継ぎ書へ紙片を挟み、鞄に戻した。
三頁目まで、あと二枚だった。
四日目の午後には、同じ問い合わせが四件になった。
王宮から騎士団へ。商会から川向こうの倉庫へ。届かないと訴えた使いが窓口へ着いたあとで、返事が石に浮かんだ。
トビアスは出した時刻と届いた時刻を並べて書いた。差は、朝より広がっていた。
長官室へ持っていくと、返事は「様子を見ろ」だった。
帰ってきたトビアスへ、年配の受付係が言った。
「長官がそうおっしゃるなら、そう書いておきなさい」
何を見れば、様子を見終えたことになるのだろう。
尋ねる前に次の客が来た。
◇
五日目の昼、玄関の扉が壁に当たった。
入ってきた商業ギルドの大旦那は、帽子も取らずに紙を振った。
「うちが注文したのは、百袋だ!」
トビアスは立ち上がった。
差し出された紙には、小麦一万袋、と書いてある。送り元の控えには百袋。受け取った北の農場は、近隣へ使いを出して小麦を集めかけたという。
「昼の荷馬車を止めたんだぞ。途中で気づかなかったら、いったいどれだけ運ぶことになった」
騒ぎを聞いたギルベルトが、長官室から出てきた。
大旦那は二枚の紙を並べて見せた。
「これを見ていただきたい」
「網というのは、そういうものです。ごくまれには、行き違いも」
「百が一万になるのが、行き違いかね」
窓口の列が静まった。
トビアスは大旦那の指を見た。紙を押さえる爪が白くなっている。
「いずれ光網に切り替われば、こうした問題もなくなります」
「いずれとはいつだ! その間の損は、誰が払う!」
ギルベルトは声を落とすよう求めた。大旦那の声はさらに大きくなった。
トビアスは控えを机に置いた。
ここで二人の話を聞いていても、百袋に戻す方法は分からない。
隣の受付係に一言断り、裏へ出た。
倉庫の戸は開いていた。
ハンスは作業台の前で石を磨いていた。戸口には、ハンスの杖が扉止めの代わりに立てかけてあった。
「ハンスさん。石のことで」
「遅れたか」
「字も変わりました」
布の動きが一度止まった。
トビアスは百袋と一万袋の話をした。途中で息が切れ、うまく順番に話せなくなったが、ハンスは急かさなかった。
「あの娘が辞めて、何日だ」
「五日です」
「そうか」
ハンスは石を光にかざした。
「石ってのはな、毎晩誰かが聞いてやらなきゃ、すぐにすねる」
「長官も、機嫌が悪いことがあると」
「機嫌と言えば、放っておけば直ると思うか」
トビアスは口を閉じた。
ハンスの手が、石の根元を指す。
「低くなったのか。響かんのか。それも聞かずに、何を待つんだ」
胸が詰まった。
自分も、待っていた。誰かにいいと言ってもらうのを。長官が担当を決めるのを。何も知らなくても済む日を。
「お前、引き継ぎ書はもらってるんだろう」
「はい」
「どこまで読んだ」
「……一頁目を」
言うと、ハンスは布を作業台へ置いた。
叱られると思って肩を固くしたが、彼は椅子の脇を指した。
「今は客がおらん。座れ」
トビアスは鞄から紙の束を出した。
表紙の端が、何度も出し入れしたせいで柔らかくなっていた。中はまだ白く、指の跡もない。
挟んだ紙片を抜く。二頁目を通り、三頁目を開いた。
三頁目だけは必ず読んで。
あのとき、エステルは頁を一つだけ指定した。忙しくてもそこだけなら読めるはずだったのに、とトビアスは表紙を握り直した。
中央の文字だけが太かった。
『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』
トビアスは、自分の記録を横へ置いた。
最後の夜勤から三日目。王宮から騎士団への遅れ。四日目には四件。五日目には文字の誤り。
紙の上には、それぞれの場合に開く頁が記されていた。
大げさな用心ではなかった。
次に何が起こるかまで、ここに書いてあった。
全部、分かっていたのだ。
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