王弟殿下は夜型です
エステルは手にしていた工具箱を、危うく落とすところだった。
両手で持ち直し、床へ置き、裾をつまむ。旅のあいだに皺の寄った服で、王族にする礼をした。
「知らぬこととはいえ、大変失礼を」
「顔を上げてください。こちらこそ、すみません」
ノアを撫でていたクラウスの手が引っ込んだ。猫は不満そうに、その手へ頭を押しつけた。
エステルは頭を下げたまま、三年分の鳴文を思い出していた。
珈琲を薄くしすぎた話。ノアに朝食の肉を盗まれた話。眠気覚ましに階段を下りたら、何をしに来たか忘れた話。
ほかにもあった。思い出せるだけに、顔を上げにくかった。
「どうして、お名前を」
「名乗ったら、来てくれなかったかもしれないので」
それはそうかもしれない。
隣国の王弟から誘われたと知れば、父へ相談する前に、何かの間違いを疑っただろう。
「ただ、それだけ、というのは嘘になりますね」
「ほかにも?」
「それについては、またあとで」
マルタが横から工具箱を持ち上げた。
「話の続きは、お嬢さんが座ってからにして。関所からまだ一度も休んでないのよ」
クラウスはすぐに椅子を引いた。
引かれてしまったので座るしかなく、エステルは座面の端へ腰を下ろした。
「ここでは院長と技師です。身分は仕事に持ち込まない。それは私が決めたことですから、私が間違っていたら、間違っていると言ってください」
「しょっちゅうよ」
マルタが付け加えた。
「夜中に一人で石を動かして、朝の担当に叱られてるの」
「値は残しています」
「戻し方を残してない」
「次からは」
「先週も聞いたわ」
エステルは口元を押さえた。
笑っていいやり取りなのか迷ううちに、笑い声が少し漏れていた。
クラウスがこちらを見た。
「よかった。ようやく笑ってくれた」
そう言われると、今度は別の意味で口元を隠したくなった。
◇
机に広げられた台帳には、同じ石の番号が三つ書いてあった。
十二番の横に、消された二十七番。その下に、後から七番と加えてある。日誌ごとに呼び方が違うので、棚と照らし合わせなければどの石か分からない。
「古い石も、動かせないわけではありませんね」
エステルは棚を見ながら言った。
古い石の音は太く、新しい石は細い。高さだけを揃えても、響きが重なりきらず、隣の石が邪魔をしている。
今すぐ全部合わせ直すと、かえってどこが悪かったのか分からなくなる。
「先に一本ずつ聞かせてください。番号の対応表を作って、石の種類ごとに分けます。そのあとで、動かす順を決めたいんです」
「どのくらいかかりそうですか」
「全体を確かめるなら、ふた月は。止めてよい時間も伺わないと」
答えながら、指で台帳の端を叩いていた。
いけない、と気づいて手を重ねると、クラウスが笑った。
「顔が輝いていますね」
「申し訳ありません。まだ、お話の途中でした」
「そういう顔をする人に来てほしかったんです」
マルタは別の棚から帳面を運んできた。三年分の国境中継線の日誌だという。
エステルは手前の一冊を開いた。
見覚えのある日付があった。
早い雪の降った年の秋の終わり。規定の値から、両側を一目盛りずつ動かした日だった。こちらから送った値が、向こうの値の隣に一つずつ書き写されている。
次の頁にも、その次にもあった。
自分が送った文の、但し書きまで残っていた。『雨上がりのため、夜明け前に再確認』。その横に、確認済みの小さな丸。
「こんなに、全部」
「こちらで直すときにも要りますから」
当たり前のことのように言われた。
エステルは持参した日誌を出し、同じ日を開いた。局に残してきた原簿とは別に、国境線の値を控えていた三冊だった。
「やはり、あなたの字だ」
クラウスが身を寄せた。
エステルは彼の顔と帳面を交互に見た。
「鳴文では、筆跡は見えませんよね」
「ええ。でも、書き方で人が分かります。あなたは必ず、直す前の値を先に書く。途中で試したことも、駄目だった順に残す」
指が、頁の下の小さな字で止まった。
「半目盛りでは足りず、と。これも何度か読みました」
令嬢らしい字だと褒められたことはあった。
読みやすいから助かったと、仕事の頁を指して言われたことはなかった。
エステルは日誌の角を揃えた。揃っているのに、もう一度揃えた。
◇
案内された部屋は、院の居住棟の角にあった。
窓の外には細い川が見える。寝台には厚い掛布が畳まれ、日中眠るための濃い色の幕が、窓の内側にもう一枚かかっていた。
小さな棚には珈琲の缶が三つ並んでいた。
「こんなにいただいても、すぐには」
「好みが分からなかったので。合うものを、あとで教えてください」
クラウスは戸口に立ったまま言った。
マルタが給金と勤めの日を記した紙を机に置く。夜勤のあとに朝の当番は入れないこと。休みを取るときは前日までに知らせること。
エステルは休みの項目を二度読んだ。
「夜勤も、昼と同じ扱いですか」
「もちろん。むしろ夜に働いた分は、別につくわよ」
マルタが椅子の背へ手をかけた。
「当番は組むから、一人で抱えないで。まず、どこまで頼めるか教えてもらうところからね」
床には、真新しい猫の寝籠が置いてあった。
ノアは真っすぐそこへ入り、二度回って腰を下ろした。持ってきた外套より気に入ったらしく、もうこちらを見ない。
「場所が決まりましたね」
クラウスが言って、薄い新しい帳面を差し出した。
「あなたの席の日誌です。好きな書き方で書いてください」
表紙にはまだ何も書かれていなかった。
エステルは両手で受け取った。紙の端が揃いすぎていて、指に少し痛い。
自分の席。
長官の婚約者のための椅子でも、空いている時間だけ借りる机でもなかった。
「ありがとうございます、殿下」
「院長です」
「……院長」
「それから、クラウスでいいですよ」
「それは、さすがに」
ためらうと、彼は楽しそうにうなずいた。
「では、そのうちに」
戸が閉まってから、エステルは机に日誌を置いた。
自分の名を書くだけなのに、どこへ置くか少し迷った。上の端に、いつもより丁寧に記す。
ノアが籠の中で喉を鳴らした。
◇
その夜、ヴァルトリアの通信局で、トビアスは受信用の石を見つめていた。
王宮から騎士団の詰所へ送った交代の知らせに、返答がない。
いつもなら、砂時計の砂が半分落ちる前に返る。
今夜は全部落ちた。
ひっくり返すか迷ったところで、石が鳴った。届いた返答の文字は正しい。時刻も、宛先も間違っていない。
ただ、遅かった。
トビアスは受信の刻を帳面へ書いた。受付に勤めはじめてから、こんな間を待った覚えはなかった。五年分の控えを繰っても、遅延の欄は空白のままだ。
エステルの最後の夜勤から、三日目だった。
彼は机の下の鞄へ手を入れた。
指先に、引き継ぎ書の角が触れた。
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