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【連載版】「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます  作者: 星守りんか


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6/10

王弟殿下は夜型です

 エステルは手にしていた工具箱を、危うく落とすところだった。

 両手で持ち直し、床へ置き、裾(すそ)をつまむ。旅のあいだに皺(しわ)の寄った服で、王族にする礼をした。


「知らぬこととはいえ、大変失礼を」

「顔を上げてください。こちらこそ、すみません」


 ノアを撫(な)でていたクラウスの手が引っ込んだ。猫は不満そうに、その手へ頭を押しつけた。

 エステルは頭を下げたまま、三年分の鳴文(めいぶん)を思い出していた。


 珈琲(コーヒー)を薄くしすぎた話。ノアに朝食の肉を盗まれた話。眠気覚ましに階段を下りたら、何をしに来たか忘れた話。

 ほかにもあった。思い出せるだけに、顔を上げにくかった。


「どうして、お名前を」

「名乗ったら、来てくれなかったかもしれないので」


 それはそうかもしれない。

 隣国の王弟(おうてい)から誘われたと知れば、父へ相談する前に、何かの間違いを疑っただろう。


「ただ、それだけ、というのは嘘になりますね」

「ほかにも?」

「それについては、またあとで」


 マルタが横から工具箱を持ち上げた。


「話の続きは、お嬢さんが座ってからにして。関所からまだ一度も休んでないのよ」


 クラウスはすぐに椅子を引いた。

 引かれてしまったので座るしかなく、エステルは座面の端へ腰を下ろした。


「ここでは院長と技師です。身分は仕事に持ち込まない。それは私が決めたことですから、私が間違っていたら、間違っていると言ってください」

「しょっちゅうよ」


 マルタが付け加えた。


「夜中に一人で石を動かして、朝の担当に叱られてるの」

「値は残しています」

「戻し方を残してない」

「次からは」

「先週も聞いたわ」


 エステルは口元を押さえた。

 笑っていいやり取りなのか迷ううちに、笑い声が少し漏れていた。

 クラウスがこちらを見た。


「よかった。ようやく笑ってくれた」


 そう言われると、今度は別の意味で口元を隠したくなった。


 ◇


 机に広げられた台帳には、同じ石の番号が三つ書いてあった。

 十二番の横に、消された二十七番。その下に、後から七番と加えてある。日誌ごとに呼び方が違うので、棚と照らし合わせなければどの石か分からない。


「古い石も、動かせないわけではありませんね」


 エステルは棚を見ながら言った。

 古い石の音は太く、新しい石は細い。高さだけを揃えても、響きが重なりきらず、隣の石が邪魔をしている。

 今すぐ全部合わせ直すと、かえってどこが悪かったのか分からなくなる。


「先に一本ずつ聞かせてください。番号の対応表を作って、石の種類ごとに分けます。そのあとで、動かす順を決めたいんです」

「どのくらいかかりそうですか」

「全体を確かめるなら、ふた月は。止めてよい時間も伺わないと」


 答えながら、指で台帳の端を叩いていた。

 いけない、と気づいて手を重ねると、クラウスが笑った。


「顔が輝いていますね」

「申し訳ありません。まだ、お話の途中でした」

「そういう顔をする人に来てほしかったんです」


 マルタは別の棚から帳面を運んできた。三年分の国境中継線(こっきょうちゅうけいせん)の日誌だという。

 エステルは手前の一冊を開いた。


 見覚えのある日付があった。

 早い雪の降った年の秋の終わり。規定の値から、両側を一目盛りずつ動かした日だった。こちらから送った値が、向こうの値の隣に一つずつ書き写されている。


 次の頁(ページ)にも、その次にもあった。

 自分が送った文の、但し書きまで残っていた。『雨上がりのため、夜明け前に再確認』。その横に、確認済みの小さな丸。


「こんなに、全部」

「こちらで直すときにも要りますから」


 当たり前のことのように言われた。

 エステルは持参した日誌を出し、同じ日を開いた。局に残してきた原簿(げんぼ)とは別に、国境線の値を控えていた三冊だった。


「やはり、あなたの字だ」


 クラウスが身を寄せた。

 エステルは彼の顔と帳面を交互に見た。


「鳴文では、筆跡は見えませんよね」

「ええ。でも、書き方で人が分かります。あなたは必ず、直す前の値を先に書く。途中で試したことも、駄目だった順に残す」


 指が、頁の下の小さな字で止まった。


「半目盛りでは足りず、と。これも何度か読みました」


 令嬢(れいじょう)らしい字だと褒められたことはあった。

 読みやすいから助かったと、仕事の頁を指して言われたことはなかった。

 エステルは日誌の角を揃えた。揃っているのに、もう一度揃えた。


 ◇


 案内された部屋は、院の居住棟の角にあった。

 窓の外には細い川が見える。寝台には厚い掛布が畳まれ、日中眠るための濃い色の幕が、窓の内側にもう一枚かかっていた。

 小さな棚には珈琲の缶が三つ並んでいた。


「こんなにいただいても、すぐには」

「好みが分からなかったので。合うものを、あとで教えてください」


 クラウスは戸口に立ったまま言った。

 マルタが給金と勤めの日を記した紙を机に置く。夜勤のあとに朝の当番は入れないこと。休みを取るときは前日までに知らせること。

 エステルは休みの項目を二度読んだ。


「夜勤も、昼と同じ扱いですか」

「もちろん。むしろ夜に働いた分は、別につくわよ」


 マルタが椅子の背へ手をかけた。


「当番は組むから、一人で抱えないで。まず、どこまで頼めるか教えてもらうところからね」


 床には、真新しい猫の寝籠(ねかご)が置いてあった。

 ノアは真っすぐそこへ入り、二度回って腰を下ろした。持ってきた外套(がいとう)より気に入ったらしく、もうこちらを見ない。


「場所が決まりましたね」


 クラウスが言って、薄い新しい帳面を差し出した。


「あなたの席の日誌です。好きな書き方で書いてください」


 表紙にはまだ何も書かれていなかった。

 エステルは両手で受け取った。紙の端が揃いすぎていて、指に少し痛い。

 自分の席。

 長官の婚約者のための椅子でも、空いている時間だけ借りる机でもなかった。


「ありがとうございます、殿下」

「院長です」

「……院長」

「それから、クラウスでいいですよ」

「それは、さすがに」


 ためらうと、彼は楽しそうにうなずいた。


「では、そのうちに」


 戸が閉まってから、エステルは机に日誌を置いた。

 自分の名を書くだけなのに、どこへ置くか少し迷った。上の端に、いつもより丁寧に記す。

 ノアが籠の中で喉(のど)を鳴らした。


 ◇


 その夜、ヴァルトリアの通信局で、トビアスは受信用の石を見つめていた。

 王宮から騎士団の詰所(つめしょ)へ送った交代の知らせに、返答がない。


 いつもなら、砂時計の砂が半分落ちる前に返る。

 今夜は全部落ちた。

 ひっくり返すか迷ったところで、石が鳴った。届いた返答の文字は正しい。時刻も、宛先も間違っていない。

 ただ、遅かった。


 トビアスは受信の刻を帳面へ書いた。受付に勤めはじめてから、こんな間を待った覚えはなかった。五年分の控えを繰っても、遅延の欄は空白のままだ。


 エステルの最後の夜勤から、三日目だった。


 彼は机の下の鞄(かばん)へ手を入れた。

 指先に、引き継ぎ書の角が触れた。



お読みいただき、ありがとうございます。

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