ラウエン魔導通信院
峠の手前で、馬車の窓が白く曇った。
エステルが手袋で拭うと、道の上に小さな塔が見えた。山肌に半ば埋もれ、屋根だけが低い雲を突いている。あれが国境中継塔だと、御者が教えてくれた。
三年間、毎晩合わせてきた線が、あそこを通っている。
王都から届く音ばかり聞いていたので、もっと大きな塔だと思っていた。近づくと、窓は二つしかなかった。入り口へ続く階段の片側に、早い雪が残っている。
馬車はその下をゆっくり通り過ぎた。
旅は二日目に入っていた。
ノアは初めのうち馬車の揺れに文句を言っていたが、今はエステルの外套の上で眠っている。関所が近づいたので籠へ移すと、一声だけ鳴いた。
「少しの間よ」
「お利口な猫ですね」
御者に言われ、エステルは籠の蓋を押さえた。中から、よその人には見せない力で押し返されている。
関所には、院の印をつけた馬車が待っていた。
旅の荷を載せ替えるあいだ、迎えの御者は何度もこちらを見た。何か顔についているのだろうかと思ったころ、目が合って、口元を隠した。
「院長から、くれぐれも丁重にと言いつかっております」
「ご迷惑をおかけします」
「いえ、迷惑など。朝から鳴文が二度も来ただけで」
最後は少し早口だった。
エステルが問い返すより先に、彼は籠を受け取り、毛布のある座席へ丁寧に置いた。
国境を越えたからといって、山の色が変わるわけではない。
それでも坂を下るうち、道沿いの家の窓が大きくなり、軒下へ出した店先が増えた。途中でひと休みした宿では、女将が片手で帳面をめくりながら、荷の重さを尋ねていた。
その後ろで、革の前掛けをした女性が車輪を点検している。
エステルの工具箱を見た女将は、技師さんかい、とだけ聞いた。
伯爵令嬢がどうして、と続かなかった。
◇
ラウエンブルクに入るころには、昼を少し過ぎていた。
橋のたもとに珈琲の屋台があった。香りが窓から入ってきて、エステルはつい身を乗り出した。
値札を読み、もう一度読んだ。
「あれは、小さい杯のお値段ですか」
「普通の杯ですよ」
「豆の違いでしょうか」
「王都の方は高いと聞きますからね。ここでは朝も昼も飲みます。夕食のあとにも」
一杯が、ヴァルトリアの半分以下だった。
薄くすればあと八杯、と缶の底を数えていたことを思い出す。持ってきた缶にも、まだいくらか残っている。捨ててこなくてよかったと、なぜか思った。
通りでは、仕事帰りらしい二人の女性が立ったまま珈琲を飲んでいた。片方の袖に、金属を磨いたような汚れがある。
向かいの店では、少女が親方らしい男へ釘の箱を渡していた。重そうにしていると、箱を半分に分けられた。
エステルはしばらく、その店を見送った。
十五のころ、ハンスに会いに行く自分を、人々は止めた。そんなことは男に任せればよい、手が荒れる、いい縁談が遠のく。
目の前の少女は、残った半分を持って、普通に店へ入った。
「通信院です」
御者の声で前を向いた。
石造りの大きな建物に、太い塔が接している。正面の扉は開いており、中から誰かが言い合う声がした。
「だから、それは昨日替えた石だってば」
「昨日替えたからって、今日まともとは限らん」
歓迎の演奏とはずいぶん違う。
エステルは工具箱を持ち直した。少し安心した。
「来た!」
玄関から、袖をまくった女性が大股で出てきた。
「エステルさんね。副院長のマルタです。待ってたわ、本当に待ってたの」
握られた手が温かかった。そのまま背中を叩かれ、思わず一歩進む。
マルタは四十代ほどに見えた。ひっつめた髪には、ペンが一本挿してある。
「長旅で疲れたでしょう。まずお茶にする? それとも部屋?」
「できれば、塔を拝見しても」
「そう言うと思った」
マルタは笑い、籠を覗き込んだ。
「あなたがノアね」
エステルは目を瞬いた。
「猫の名まで、ご存じなんですか」
「みんな知ってるわよ。山の向こうの夜勤さんと、その猫のこと」
玄関の奥で、書類を抱えていた若い技師が顔を上げた。籠へ視線を落とし、ああ、と納得したようにうなずく。
「この子が、あのかくれんぼの名人ですか」
「かくれんぼ?」
「棚の下から出てこなくて、探し回った晩があったとか」
そんなことまで話しただろうか。
去年、ノアを探し回った夜があった。最後に見つかった場所が、棚の下の暗がりだった。
確かに、書いた。
「院長は、今どちらに」
「塔の上。朝から何度も下りてきては、まだかって」
マルタは階段へ向かいながら、声を少し落とした。
「おかげで今日は、誰も居眠りできなかったわ」
◇
塔の二階は作業部屋だった。
机に石の台座が並び、若い技師が一つを傾けて首をひねっている。さっきの声の主らしい女性と年配の男は、同じ帳面の別々の行を指していた。
エステルが入ると会話が途切れたが、マルタが手を振った。
「あとで紹介するから、続けて」
足元には工具の箱があった。跨ぐと、若い技師がすぐに棚の下へ寄せた。
これからここで働くのだ。
そう思ったのは、その小さな動きを見たときだった。
「うちの網は五十年ものなの」
階段を上りながらマルタが言った。
「古いところを残して継ぎ足してきたから、建てた人と直した人とで、考え方が違う。前の保守主任が辞めてから、全体のつながりを分かる者がいなくてね」
「日誌は残っていますか」
「山ほど。残っているから厄介なところもあるわ。一つの石に番号が三つついていたりするの」
「番号を振り直したんですか」
「二度ほど。その途中で人が替わった」
エステルは手すりに添えた指を動かした。
まず現物と帳面を合わせる必要がある。音の違いも聞かなくては。国境線に出ていた癖は、石そのものより台座のせいかもしれない。
「呼ぶことには、皆が賛成したのよ」
マルタの声に顔を上げた。
「あの雪の早かった秋から三年間、国境線を一度も乱さなかった人なら、間違いないって。うちがどれだけ向こう側に助けられていたか、塔を見ている者は知ってるから」
礼を言おうとしたが、階段を上りきって息が足りなかった。
マルタはそれ以上言わず、最上階の扉を押した。
最初に目へ入ったのは、石の棚だった。
十二番の余韻が短い。二十番は高すぎる。その間の古い石には、今では見ない形の輪がついている。
近づきかけて、人がいることに気づいた。
銀灰色の髪の青年が、棚の前からこちらを見ていた。
袖口の擦れた外套を着ている。思っていたよりずっと若い。エステルが足を止めると、青年も何か言いかけて、少し笑った。
「はじめまして、と言うのも妙ですね」
知らない声だった。
けれど、その間の取り方を、知っている気がした。
「クラウスです。毎晩、猫は元気かと聞いていた者です」
マルタが籠の扉を開けた。
ノアはためらいもなく床へ下り、青年の靴に鼻を寄せた。人見知りのくせに、差し出された指へ頬を押しつける。
「思っていたより黒いな」
青年がしゃがんだ。くたびれた外套の裾を片手で払う動きが、妙にきれいだった。
エステルが名乗ろうとすると、背後でマルタが息をついた。
「院長――いえ、王弟殿下。ご身分くらい、先に名乗っておきなさいな」
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