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【連載版】「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます  作者: 星守りんか


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5/10

ラウエン魔導通信院

 峠の手前で、馬車の窓が白く曇った。

 エステルが手袋で拭(ふ)うと、道の上に小さな塔が見えた。山肌に半ば埋もれ、屋根だけが低い雲を突いている。あれが国境中継塔(こっきょうちゅうけいとう)だと、御者(ぎょしゃ)が教えてくれた。


 三年間、毎晩合わせてきた線が、あそこを通っている。

 王都から届く音ばかり聞いていたので、もっと大きな塔だと思っていた。近づくと、窓は二つしかなかった。入り口へ続く階段の片側に、早い雪が残っている。

 馬車はその下をゆっくり通り過ぎた。


 旅は二日目に入っていた。

 ノアは初めのうち馬車の揺れに文句を言っていたが、今はエステルの外套(がいとう)の上で眠っている。関所が近づいたので籠(かご)へ移すと、一声だけ鳴いた。


「少しの間よ」

「お利口な猫ですね」


 御者に言われ、エステルは籠の蓋を押さえた。中から、よその人には見せない力で押し返されている。


 関所には、院の印をつけた馬車が待っていた。

 旅の荷を載せ替えるあいだ、迎えの御者は何度もこちらを見た。何か顔についているのだろうかと思ったころ、目が合って、口元を隠した。


「院長から、くれぐれも丁重(ていちょう)にと言いつかっております」

「ご迷惑をおかけします」

「いえ、迷惑など。朝から鳴文(めいぶん)が二度も来ただけで」


 最後は少し早口だった。

 エステルが問い返すより先に、彼は籠を受け取り、毛布のある座席へ丁寧に置いた。


 国境を越えたからといって、山の色が変わるわけではない。

 それでも坂を下るうち、道沿いの家の窓が大きくなり、軒下へ出した店先が増えた。途中でひと休みした宿では、女将(おかみ)が片手で帳面をめくりながら、荷の重さを尋ねていた。

 その後ろで、革の前掛けをした女性が車輪を点検している。


 エステルの工具箱を見た女将は、技師さんかい、とだけ聞いた。

 伯爵(はくしゃく)令嬢(れいじょう)がどうして、と続かなかった。


 ◇


 ラウエンブルクに入るころには、昼を少し過ぎていた。

 橋のたもとに珈琲(コーヒー)の屋台があった。香りが窓から入ってきて、エステルはつい身を乗り出した。

 値札を読み、もう一度読んだ。


「あれは、小さい杯のお値段ですか」

「普通の杯ですよ」

「豆の違いでしょうか」

「王都の方は高いと聞きますからね。ここでは朝も昼も飲みます。夕食のあとにも」


 一杯が、ヴァルトリアの半分以下だった。

 薄くすればあと八杯、と缶の底を数えていたことを思い出す。持ってきた缶にも、まだいくらか残っている。捨ててこなくてよかったと、なぜか思った。


 通りでは、仕事帰りらしい二人の女性が立ったまま珈琲を飲んでいた。片方の袖に、金属を磨いたような汚れがある。

 向かいの店では、少女が親方らしい男へ釘の箱を渡していた。重そうにしていると、箱を半分に分けられた。

 エステルはしばらく、その店を見送った。


 十五のころ、ハンスに会いに行く自分を、人々は止めた。そんなことは男に任せればよい、手が荒れる、いい縁談が遠のく。

 目の前の少女は、残った半分を持って、普通に店へ入った。


「通信院です」


 御者の声で前を向いた。

 石造りの大きな建物に、太い塔が接している。正面の扉は開いており、中から誰かが言い合う声がした。


「だから、それは昨日替えた石だってば」

「昨日替えたからって、今日まともとは限らん」


 歓迎の演奏とはずいぶん違う。

 エステルは工具箱を持ち直した。少し安心した。


「来た!」


 玄関から、袖をまくった女性が大股で出てきた。


「エステルさんね。副院長のマルタです。待ってたわ、本当に待ってたの」


 握られた手が温かかった。そのまま背中を叩かれ、思わず一歩進む。

 マルタは四十代ほどに見えた。ひっつめた髪には、ペンが一本挿してある。


「長旅で疲れたでしょう。まずお茶にする? それとも部屋?」

「できれば、塔を拝見しても」

「そう言うと思った」


 マルタは笑い、籠を覗(のぞ)き込んだ。


「あなたがノアね」


 エステルは目を瞬(またた)いた。


「猫の名まで、ご存じなんですか」

「みんな知ってるわよ。山の向こうの夜勤さんと、その猫のこと」


 玄関の奥で、書類を抱えていた若い技師が顔を上げた。籠へ視線を落とし、ああ、と納得したようにうなずく。


「この子が、あのかくれんぼの名人ですか」

「かくれんぼ?」

「棚の下から出てこなくて、探し回った晩があったとか」


 そんなことまで話しただろうか。

 去年、ノアを探し回った夜があった。最後に見つかった場所が、棚の下の暗がりだった。

 確かに、書いた。


「院長は、今どちらに」

「塔の上。朝から何度も下りてきては、まだかって」


 マルタは階段へ向かいながら、声を少し落とした。


「おかげで今日は、誰も居眠りできなかったわ」


 ◇


 塔の二階は作業部屋だった。

 机に石の台座が並び、若い技師が一つを傾けて首をひねっている。さっきの声の主らしい女性と年配の男は、同じ帳面の別々の行を指していた。

 エステルが入ると会話が途切れたが、マルタが手を振った。


「あとで紹介するから、続けて」


 足元には工具の箱があった。跨(また)ぐと、若い技師がすぐに棚の下へ寄せた。

 これからここで働くのだ。

 そう思ったのは、その小さな動きを見たときだった。


「うちの網は五十年ものなの」


 階段を上りながらマルタが言った。


「古いところを残して継ぎ足してきたから、建てた人と直した人とで、考え方が違う。前の保守主任が辞めてから、全体のつながりを分かる者がいなくてね」

「日誌は残っていますか」

「山ほど。残っているから厄介なところもあるわ。一つの石に番号が三つついていたりするの」

「番号を振り直したんですか」

「二度ほど。その途中で人が替わった」


 エステルは手すりに添えた指を動かした。

 まず現物と帳面を合わせる必要がある。音の違いも聞かなくては。国境線に出ていた癖は、石そのものより台座のせいかもしれない。


「呼ぶことには、皆が賛成したのよ」


 マルタの声に顔を上げた。


「あの雪の早かった秋から三年間、国境線を一度も乱さなかった人なら、間違いないって。うちがどれだけ向こう側に助けられていたか、塔を見ている者は知ってるから」


 礼を言おうとしたが、階段を上りきって息が足りなかった。

 マルタはそれ以上言わず、最上階の扉を押した。


 最初に目へ入ったのは、石の棚だった。

 十二番の余韻(よいん)が短い。二十番は高すぎる。その間の古い石には、今では見ない形の輪がついている。

 近づきかけて、人がいることに気づいた。


 銀灰色の髪の青年が、棚の前からこちらを見ていた。

 袖口の擦れた外套を着ている。思っていたよりずっと若い。エステルが足を止めると、青年も何か言いかけて、少し笑った。


「はじめまして、と言うのも妙ですね」


 知らない声だった。

 けれど、その間の取り方を、知っている気がした。


「クラウスです。毎晩、猫は元気かと聞いていた者です」


 マルタが籠の扉を開けた。

 ノアはためらいもなく床へ下り、青年の靴に鼻を寄せた。人見知りのくせに、差し出された指へ頬(ほお)を押しつける。


「思っていたより黒いな」


 青年がしゃがんだ。くたびれた外套の裾(すそ)を片手で払う動きが、妙にきれいだった。

 エステルが名乗ろうとすると、背後でマルタが息をついた。


「院長――いえ、王弟殿下(おうていでんか)。ご身分くらい、先に名乗っておきなさいな」



お読みいただき、ありがとうございます。

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