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【連載版】「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます  作者: 星守りんか


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4/10

引き継ぎ書は三頁目から

 夜勤を終えたその朝、長官室は花の匂いがした。

 エステルの知っている通信局は、たいてい紙と封蝋(ふうろう)と、受付の湿った外套(がいとう)の匂いがする。窓際の花瓶には、季節外れの白い花が何本も活(い)けてあった。


「これで全部か」


 ギルベルトが引き継ぎ書の厚みを親指で弾いた。

 机の向こうでは、フローラが大きな図面を押さえていた。塔から塔へ金の線が引かれ、王都の上に薄い網をかぶせたようになっている。


「三十二頁(さんじゅうにページ)あります。各塔の日誌は第三塔の棚に揃えてあります」

「ずいぶん大げさだな」


 彼は数枚まとめてめくった。途中の図を眺め、また表紙へ戻る。


「止まったときの手順まで要るのか。伝鳴網(でんめいもう)は、一度も止まったことがないだろう」

「はい。止まらないように、毎晩調律(ちょうりつ)していましたから」

「君は何でも、自分が触らなければ気が済まないんだな。網は一度置けば動き続けるものだ」


 窓の外で馬車が止まり、玄関の扉が鳴った。

 エステルは、その音が静まるのを待った。


「夜の担当者を置いてください。三頁目に、調律を休んだ場合のことを書きました」

「あとで読む」


 引き出しが開いた。紙の束が収まり、真鍮(しんちゅう)の取っ手が元の位置へ戻った。


 フローラが図面の端を持ち直した。


「光網(こうもう)ができれば、夜に塔へ上がる必要もなくなりますわ。寒い思いをする方が減るんですもの」


 彼女の指には、光を練習した者にできる白い痕(あと)があった。

 遊びで言っているのではない。それは分かった。


「光網の仕様書は、ありますか」


 フローラの手が止まった。


「この図では、足りませんか」

「霧の日に届く距離と、雨のときに文字を受け取り直す方法を知りたいんです。それから、既存の石のそばで使うときの――」

「まだ試運転前ですのよ」

「はい。ですから、試す項目が決まっていれば」


 金の線は、どれも同じ太さだった。

 距離も、光の強さも記されていない。フローラは図面を見下ろしたまま、何か言いかけた。


「もういい」


 ギルベルトが卓上の鈴を寄せた。


「引き継ぎは終わったのだろう。下がってくれ」


 エステルは頭を下げた。

 扉が閉まると、花の匂いが薄くなった。廊下の窓が少し開いていて、冷えた空気が入っていた。


 その窓の脇に、トビアスが立っていた。


「あの、ハーゲン様」


 十七歳の彼は、半年でまた背が伸びたらしい。袖から出た手首が頼りなく見える。平民の見習いが長官室の前をうろつくには理由が要るので、配達の書類を胸に抱えていた。

 だが、その書類は昨日の控えだった。


「待っていてくれたの?」

「お辞めになると聞いて」


 エステルは鞄(かばん)から写しを取り出した。

 夜の塔へ仕事を見に来たのは、職員の中で彼だけだった。邪魔をしないよう、棚の陰で息まで殺していた。暗がりで振り向くと背の高い人影があるので、初めは少し驚いた。


「これ、持っていて。塔で読む分よ」

「僕に、ですか」

「全部読めとは言わないわ。でも、三頁目だけは必ず読んで」


 トビアスは書類の束を脇へ挟み、両手で受け取った。


「僕なんかで、いいんでしょうか。音も、まだよく分からなくて」

「分からない音を、分かったことにしないでしょう」

「それは……」

「手順どおりにできるのは、大事なことよ。途中を飛ばさない人に持っていてほしいの」


 彼の親指が、表紙の角を押さえた。

 何か言おうとするたびに唇が結ばれるのを見て、エステルはいつもの塔での調子に戻した。


「分からなければ、ハンスさんに聞いて。石より先に、頁をめくること」

「はい」


 今度の返事は、廊下の端まで聞こえた。


 ◇


 ハンスは裏の倉庫で、予備の台座に油を引いていた。

 エステルを見ると手を止めたが、辞めるのかとも、考え直せとも言わなかった。


「隣国から、お話をいただきました」

「ラウエンか」

「どうして分かるんです」

「国境の向こうが何を言ったか、お前はよくわしに話してくれただろう」


 油布を畳みながら言われ、エステルは返事に詰まった。

 ハンスは膝(ひざ)をかばって椅子を寄せた。


「行ってこい。ここは、お前の腕を使い潰すだけだ」

「でも、七つありますから」

「塔がか」

「トビアスさん一人では」

「あの坊主のことは、わしが見ておく」


 腰で鍵が鳴った。丸い真鍮札のついた鍵束だった。


「予備の石の場所も、書いてあります」

「鍵はなくさんよ」

「右から二番目の箱です」

「しまったのは、わしだ」


 思わず二人で笑った。

 笑いが収まると、倉庫の狭さや、棚の油の匂いが急にはっきりした。ここで何度も叱られた。上手に直せた報告も、まずここへ持ってきた。


「お世話になりました」


 深く頭を下げると、上から声が降ってきた。


「向こうでも書けよ」

「はい」

「直らんかった晩ほど、ちゃんと書くんだぞ」


 エステルは顔を上げ、もう一度うなずいた。


 ◇


 家へ戻ると、父は遅い朝食の席を立たずに待っていた。

 いつもは夜勤明けの娘を起こさぬよう、食事の席をずらしている。その父が、冷めた茶を前に座っていた。


「婚約のことは聞いた」

「申し訳ありません」

「お前が謝ることではない」


 父はすぐに言った。言い終えてから、膝に置いた手を握り直した。


「縁談のとき、私が断っていればよかった。侯爵家(こうしゃくけ)から声がかかったと、そればかりでな」

「お父様」

「塔へ行くことも、結婚すれば落ち着くと思っていた」


 エステルは、卓上の銀の匙(さじ)を見た。

 それは初めて聞く話ではなかった。娘の趣味はいつか終わると、皆が思っていた。


「だが、書斎の窓から第三塔が見えるんだ」


 父の声が少しかすれた。


「夜中に目が覚めると、まだ灯りがついている。ああ、今夜もあそこにいるのかと思っていた。五年だ。趣味で片づけるには、長すぎた」


 エステルは匙から顔を上げた。

 父は困ったように笑った。


「誰も褒めてくれない仕事を、お前は毎晩していたんだな」


 何と答えればよいか分からなかった。

 温め直した茶を運んできた使用人に礼を言おうとして、うまく声が出なかった。


 ラウエンの話をすると、父はいくつか尋ねた。院の名、迎えの有無、住む場所。その一つずつに、エステルは分かる範囲で答えた。


「行きなさい。お前の仕事を、ちゃんと見てくれる所へ」


 父の茶も、今度は冷める前に減った。


 その夜、エステルは自分の部屋で何度も時計を見た。

 眠るには早い。塔へ行くには、いつもの時刻だった。

 五年ぶりに家で夜を過ごすとなると、椅子へ座るだけでも落ち着かない。


 屋敷の小さな鳴晶石(めいしょうせき)へ、行き先を合わせる。

 塔へ出るときの癖で、要りもしない手袋を外套のポケットに探してしまった。


『伺います』


 返事は驚くほど早かった。


『お待ちしています。国境の関所に迎えを出します』


 続けて宿と道筋が届いた。院の名で出された受け入れの文には、住まいと給金のことまで記されていた。

 エステルは父に見せるため写しを取り、もう一度、最初の文を読んだ。


 鞄には作業外套、調律具、国境線の値を控えた私物の日誌三冊を詰めた。局の原簿(げんぼ)は、第三塔の棚にある。

 着替えを入れる場所を作ろうとすると、鞄の口から黒い耳が覗(のぞ)いた。


「……第三塔にいたでしょう、あなた」


 ノアは答えず、畳んだ外套を前足で踏んだ。

 迎えに行く手間が省けた。そういうことにして、エステルは鞄をもう一つ出した。



お読みいただき、ありがとうございます。

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