引き継ぎ書は三頁目から
夜勤を終えたその朝、長官室は花の匂いがした。
エステルの知っている通信局は、たいてい紙と封蝋と、受付の湿った外套の匂いがする。窓際の花瓶には、季節外れの白い花が何本も活けてあった。
「これで全部か」
ギルベルトが引き継ぎ書の厚みを親指で弾いた。
机の向こうでは、フローラが大きな図面を押さえていた。塔から塔へ金の線が引かれ、王都の上に薄い網をかぶせたようになっている。
「三十二頁あります。各塔の日誌は第三塔の棚に揃えてあります」
「ずいぶん大げさだな」
彼は数枚まとめてめくった。途中の図を眺め、また表紙へ戻る。
「止まったときの手順まで要るのか。伝鳴網は、一度も止まったことがないだろう」
「はい。止まらないように、毎晩調律していましたから」
「君は何でも、自分が触らなければ気が済まないんだな。網は一度置けば動き続けるものだ」
窓の外で馬車が止まり、玄関の扉が鳴った。
エステルは、その音が静まるのを待った。
「夜の担当者を置いてください。三頁目に、調律を休んだ場合のことを書きました」
「あとで読む」
引き出しが開いた。紙の束が収まり、真鍮の取っ手が元の位置へ戻った。
フローラが図面の端を持ち直した。
「光網ができれば、夜に塔へ上がる必要もなくなりますわ。寒い思いをする方が減るんですもの」
彼女の指には、光を練習した者にできる白い痕があった。
遊びで言っているのではない。それは分かった。
「光網の仕様書は、ありますか」
フローラの手が止まった。
「この図では、足りませんか」
「霧の日に届く距離と、雨のときに文字を受け取り直す方法を知りたいんです。それから、既存の石のそばで使うときの――」
「まだ試運転前ですのよ」
「はい。ですから、試す項目が決まっていれば」
金の線は、どれも同じ太さだった。
距離も、光の強さも記されていない。フローラは図面を見下ろしたまま、何か言いかけた。
「もういい」
ギルベルトが卓上の鈴を寄せた。
「引き継ぎは終わったのだろう。下がってくれ」
エステルは頭を下げた。
扉が閉まると、花の匂いが薄くなった。廊下の窓が少し開いていて、冷えた空気が入っていた。
その窓の脇に、トビアスが立っていた。
「あの、ハーゲン様」
十七歳の彼は、半年でまた背が伸びたらしい。袖から出た手首が頼りなく見える。平民の見習いが長官室の前をうろつくには理由が要るので、配達の書類を胸に抱えていた。
だが、その書類は昨日の控えだった。
「待っていてくれたの?」
「お辞めになると聞いて」
エステルは鞄から写しを取り出した。
夜の塔へ仕事を見に来たのは、職員の中で彼だけだった。邪魔をしないよう、棚の陰で息まで殺していた。暗がりで振り向くと背の高い人影があるので、初めは少し驚いた。
「これ、持っていて。塔で読む分よ」
「僕に、ですか」
「全部読めとは言わないわ。でも、三頁目だけは必ず読んで」
トビアスは書類の束を脇へ挟み、両手で受け取った。
「僕なんかで、いいんでしょうか。音も、まだよく分からなくて」
「分からない音を、分かったことにしないでしょう」
「それは……」
「手順どおりにできるのは、大事なことよ。途中を飛ばさない人に持っていてほしいの」
彼の親指が、表紙の角を押さえた。
何か言おうとするたびに唇が結ばれるのを見て、エステルはいつもの塔での調子に戻した。
「分からなければ、ハンスさんに聞いて。石より先に、頁をめくること」
「はい」
今度の返事は、廊下の端まで聞こえた。
◇
ハンスは裏の倉庫で、予備の台座に油を引いていた。
エステルを見ると手を止めたが、辞めるのかとも、考え直せとも言わなかった。
「隣国から、お話をいただきました」
「ラウエンか」
「どうして分かるんです」
「国境の向こうが何を言ったか、お前はよくわしに話してくれただろう」
油布を畳みながら言われ、エステルは返事に詰まった。
ハンスは膝をかばって椅子を寄せた。
「行ってこい。ここは、お前の腕を使い潰すだけだ」
「でも、七つありますから」
「塔がか」
「トビアスさん一人では」
「あの坊主のことは、わしが見ておく」
腰で鍵が鳴った。丸い真鍮札のついた鍵束だった。
「予備の石の場所も、書いてあります」
「鍵はなくさんよ」
「右から二番目の箱です」
「しまったのは、わしだ」
思わず二人で笑った。
笑いが収まると、倉庫の狭さや、棚の油の匂いが急にはっきりした。ここで何度も叱られた。上手に直せた報告も、まずここへ持ってきた。
「お世話になりました」
深く頭を下げると、上から声が降ってきた。
「向こうでも書けよ」
「はい」
「直らんかった晩ほど、ちゃんと書くんだぞ」
エステルは顔を上げ、もう一度うなずいた。
◇
家へ戻ると、父は遅い朝食の席を立たずに待っていた。
いつもは夜勤明けの娘を起こさぬよう、食事の席をずらしている。その父が、冷めた茶を前に座っていた。
「婚約のことは聞いた」
「申し訳ありません」
「お前が謝ることではない」
父はすぐに言った。言い終えてから、膝に置いた手を握り直した。
「縁談のとき、私が断っていればよかった。侯爵家から声がかかったと、そればかりでな」
「お父様」
「塔へ行くことも、結婚すれば落ち着くと思っていた」
エステルは、卓上の銀の匙を見た。
それは初めて聞く話ではなかった。娘の趣味はいつか終わると、皆が思っていた。
「だが、書斎の窓から第三塔が見えるんだ」
父の声が少しかすれた。
「夜中に目が覚めると、まだ灯りがついている。ああ、今夜もあそこにいるのかと思っていた。五年だ。趣味で片づけるには、長すぎた」
エステルは匙から顔を上げた。
父は困ったように笑った。
「誰も褒めてくれない仕事を、お前は毎晩していたんだな」
何と答えればよいか分からなかった。
温め直した茶を運んできた使用人に礼を言おうとして、うまく声が出なかった。
ラウエンの話をすると、父はいくつか尋ねた。院の名、迎えの有無、住む場所。その一つずつに、エステルは分かる範囲で答えた。
「行きなさい。お前の仕事を、ちゃんと見てくれる所へ」
父の茶も、今度は冷める前に減った。
その夜、エステルは自分の部屋で何度も時計を見た。
眠るには早い。塔へ行くには、いつもの時刻だった。
五年ぶりに家で夜を過ごすとなると、椅子へ座るだけでも落ち着かない。
屋敷の小さな鳴晶石へ、行き先を合わせる。
塔へ出るときの癖で、要りもしない手袋を外套のポケットに探してしまった。
『伺います』
返事は驚くほど早かった。
『お待ちしています。国境の関所に迎えを出します』
続けて宿と道筋が届いた。院の名で出された受け入れの文には、住まいと給金のことまで記されていた。
エステルは父に見せるため写しを取り、もう一度、最初の文を読んだ。
鞄には作業外套、調律具、国境線の値を控えた私物の日誌三冊を詰めた。局の原簿は、第三塔の棚にある。
着替えを入れる場所を作ろうとすると、鞄の口から黒い耳が覗いた。
「……第三塔にいたでしょう、あなた」
ノアは答えず、畳んだ外套を前足で踏んだ。
迎えに行く手間が省けた。そういうことにして、エステルは鞄をもう一つ出した。
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