国境の向こうの誰か
猫は元気か、と初めて聞かれたのは、三年前の冬だった。
その少し前まで、国境の向こうから届くのは数値だけだった。
あの年は雪が早く、峠の中継塔は秋のうちに白くなった。王都が雨でも山は雪になる。こちらでいくら合わせても向こうの音に届かず、ようやく通じたと思うと、風の強まった夜にまた途切れた。
エステルは三晩、同じ頁を行ったり来たりした末に、確認の鳴文を送った。
『こちらは規定の値に合わせています。そちらはいかがですか』
返事は半分欠けて届いた。送り直されてきた文を二つ重ね、ようやく読めた。
『こちらも規定どおりです。そちらを一目盛り上げてもらえますか。真ん中で会いましょう』
規定から外してよいのか、と思った。
そのとき国境中継線の石が、ほんの少し低くなった。向こうの誰かが、先に動かしたのだ。
エステルも輪に指をかけた。半目盛り、一目盛り。割れていた響きが一本に重なった。
『届きますか』
『届きます。三晩悩んでいたのが、嘘のようです』
少し間があった。
『こちらは五晩です』
エステルは吹き出した。
積み上げた帳面も、何度も冷めた珈琲も、向こうに同じだけあるような気がした。
それからは毎晩、値を確かめるようになった。
先にこちらが送り、向こうが答える日もあれば、向こうから来る日もあった。どちらも短く、調律が終わればそれきりだった。
ひと月たった夜、末尾に一言加わった。
『今夜は冷えます』
その夜、ノアが初めてエステルの膝へ上がった。第三塔に住みついてしばらく、餌だけ食べて逃げていた猫が、当然のように丸くなったのだ。
動くと下りてしまいそうで、エステルは片手だけを伸ばして返事をした。
『こちらも冷えます。塔の猫が膝から下りません』
翌晩には、猫は元気ですかと聞かれた。
その次の晩にも。
鳴文を受け取るたびに、猫のことを尋ねられるのがなんだかおかしかった。どんな人だろう。年配の技師だろうか。若い人にしては言葉が穏やかで、年配の人にしては、時々妙な冗談を言う。
名前を尋ねるきっかけはなかった。
名乗らなくても毎晩通じたし、山の向こうで眠そうに目をこすっている誰かがいると思うだけで、七つ目の塔へ向かう足が軽くなった。
五年の夜勤のうち、後の三年には、そのやり取りがあった。
◇
石の文字は、まだ淡く光っていた。
エステルは膝のノアを見下ろし、片手を伸ばした。
『元気です。今夜も膝にいます』
『書き物の邪魔ではありませんか』
『困ります。でも、どかせません』
『分かります』
すぐに返ってきた。
向こうにも猫がいるのかもしれない。大きな犬でも、同じ返事になるだろうか。
エステルは引き継ぎ書の十二頁目を見た。
今夜で終わりではない。まだ二晩ある。
退職のことは何も書かず、いつもどおり、そちらも暖かくしてお過ごしください、と送った。
◇
二晩目は雨だった。
第三塔の十七番は予想どおり高くなり、エステルは昨夜書いた欄へ小さく丸をつけた。次に読む人が、記録どおりだと確かめられるよう、日付も添える。
各塔を回り終えてから、季節ごとの値を表にした。
秋の終わりは厄介だった。昼と夜の気温が違いすぎる。昼に正しい値へ揃えた石を、そのまま翌朝まで置くと、冷え込みの分だけ下がる。
ただ数字を並べても役には立たない。
冷える夜、雨上がり、初雪の前後。どういう順で聞けば、手戻りが少ないかを書き添えた。
父が持たせてくれたパンをかじりながら、写しも作った。
原本を受け取る人が、塔まで持っていくとは限らない。石の前で読めるものが、もう一部は要る。
写す途中で同じ頁を二度書いてしまい、ペンを置いた。眠い。水で顔を洗ってから、頁の端へ順番を振り直す。
三晩目には、具合の悪くなったときの手順を書いた。
届かないとき。遅いとき。違う相手に届くとき。
迷ったら先へ進まず、直前に触れた石の番号と値を確かめること。留め金を外す前に、下へ布を敷くこと。小さなものほど落とすと見つからない。
予備の石の欄には、第三塔の地下の物置、右から二番目の箱、と記した。
鍵はハンスが持っている。局の裏の倉庫にいる時間を書き、腰の鍵束には丸い真鍮札がついていることまで添えた。
そこまで要るだろうか。
要らなければ、読まずに済むだけだ。
三頁目へ戻り、空けてあった中央の行に書く。
『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』
乾くのを待ち、もう一度、文字の上を太くなぞった。
脅すためではない。晴れた夜には静かな石を前にして、今日はしなくていいと思わないでほしかった。
三十二頁。
写しと原本を並べ、声を出さずに一行ずつ照らし合わせる。窓の留め金の場所から、予備の石の鍵まで、同じ順番で記されている。
残るのは、明日の朝、これを渡すことだった。
国境中継線の音を確かめた。
向こうからの便りはまだ来ていない。エステルは今夜、先に石へ手を伸ばした。
『今夜で最後の夜勤です。三年間、ありがとうございました』
しばらくして、文字が浮いた。
『どちらかへ移られるのですか』
長く書けば、愚痴になる気がした。
婚約が解消され、通信局の手伝いも終えること。仕事は誰にでもできると言われたこと。
それだけを、短く送った。
最後の一文は余計だったかもしれない。送ったあとで、もう消せないことを悔やんだ。
返事が来なかった。
エステルは調律具を拭き、箱に収め、また取り出して輪の裏を確かめた。石は正常だった。こちらの文は向こうへ届いている。
突然こんな話をされても、困るだけだろう。
椅子から立とうとしたとき、石が鳴った。
『誰にでもできる仕事だとは思いません。あの秋から三年、一度も国境線が乱れなかったのは、そちらで合わせ続けてくださったからです』
箱の蓋に置いた手が止まった。
向こうの人も毎晩、石を聞いていた。こちらが半目盛り変えれば、それを知る人だった。
だから、この言葉には返す冗談が見つからなかった。
『では、うちに来ませんか』
続けて文が届いた。
『ラウエン魔導通信院です。うちの網はつぎはぎだらけで、腕のいい技師が足りません。正式にお迎えしたいと思っています』
エステルは二度読んだ。
そこは、鳴晶石の新しい台座を考案した院だった。取り寄せた図の隅に、その名が印刷されていたのを覚えている。
『夜勤の方には珈琲を出します』
そこまで読んで、少し笑った。
次の文は、笑えなかった。
『猫も一緒にどうぞ』
国を出ることも、知らない場所で働くことも、考えたことがなかった。父には何と言おう。自分に扱える石ばかりだろうか。
心配はいくらでも浮かぶのに、行きたくない理由は一つも見つからない。
膝でノアが伸びをした。爪が外套へ引っかかり、エステルは一本ずつ外してやった。
すぐに返事をしてしまいそうな自分が、少し怖かった。
『お返事は、引き継ぎを終えてから』
そう送ると、承知しました、とだけ返ってきた。
催促の文は続かなかった。
エステルは最後の巡回の値を記し、作業日誌の末尾へペンを置いた。
『異常なし』
この机で書くのは、これで最後だった。
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