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【連載版】「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます  作者: 星守りんか


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3/10

国境の向こうの誰か

 猫は元気か、と初めて聞かれたのは、三年前の冬だった。

 その少し前まで、国境の向こうから届くのは数値だけだった。


 あの年は雪が早く、峠の中継塔(ちゅうけいとう)は秋のうちに白くなった。王都が雨でも山は雪になる。こちらでいくら合わせても向こうの音に届かず、ようやく通じたと思うと、風の強まった夜にまた途切れた。

 エステルは三晩、同じ頁(ページ)を行ったり来たりした末に、確認の鳴文(めいぶん)を送った。


『こちらは規定の値に合わせています。そちらはいかがですか』


 返事は半分欠けて届いた。送り直されてきた文を二つ重ね、ようやく読めた。


『こちらも規定どおりです。そちらを一目盛り上げてもらえますか。真ん中で会いましょう』


 規定から外してよいのか、と思った。

 そのとき国境中継線(こっきょうちゅうけいせん)の石が、ほんの少し低くなった。向こうの誰かが、先に動かしたのだ。

 エステルも輪に指をかけた。半目盛り、一目盛り。割れていた響きが一本に重なった。


『届きますか』

『届きます。三晩悩んでいたのが、嘘のようです』


 少し間があった。


『こちらは五晩です』


 エステルは吹き出した。

 積み上げた帳面も、何度も冷めた珈琲(コーヒー)も、向こうに同じだけあるような気がした。


 それからは毎晩、値を確かめるようになった。

 先にこちらが送り、向こうが答える日もあれば、向こうから来る日もあった。どちらも短く、調律(ちょうりつ)が終わればそれきりだった。

 ひと月たった夜、末尾に一言加わった。


『今夜は冷えます』


 その夜、ノアが初めてエステルの膝(ひざ)へ上がった。第三塔に住みついてしばらく、餌だけ食べて逃げていた猫が、当然のように丸くなったのだ。

 動くと下りてしまいそうで、エステルは片手だけを伸ばして返事をした。


『こちらも冷えます。塔の猫が膝から下りません』


 翌晩には、猫は元気ですかと聞かれた。

 その次の晩にも。

 鳴文を受け取るたびに、猫のことを尋ねられるのがなんだかおかしかった。どんな人だろう。年配の技師だろうか。若い人にしては言葉が穏やかで、年配の人にしては、時々妙な冗談(じょうだん)を言う。


 名前を尋ねるきっかけはなかった。

 名乗らなくても毎晩通じたし、山の向こうで眠そうに目をこすっている誰かがいると思うだけで、七つ目の塔へ向かう足が軽くなった。

 五年の夜勤のうち、後の三年には、そのやり取りがあった。


 ◇


 石の文字は、まだ淡く光っていた。

 エステルは膝のノアを見下ろし、片手を伸ばした。


『元気です。今夜も膝にいます』

『書き物の邪魔ではありませんか』

『困ります。でも、どかせません』

『分かります』


 すぐに返ってきた。

 向こうにも猫がいるのかもしれない。大きな犬でも、同じ返事になるだろうか。


 エステルは引き継ぎ書の十二頁目を見た。

 今夜で終わりではない。まだ二晩ある。

 退職のことは何も書かず、いつもどおり、そちらも暖かくしてお過ごしください、と送った。


 ◇


 二晩目は雨だった。

 第三塔の十七番は予想どおり高くなり、エステルは昨夜書いた欄へ小さく丸をつけた。次に読む人が、記録どおりだと確かめられるよう、日付も添える。

 各塔を回り終えてから、季節ごとの値を表にした。


 秋の終わりは厄介だった。昼と夜の気温が違いすぎる。昼に正しい値へ揃えた石を、そのまま翌朝まで置くと、冷え込みの分だけ下がる。

 ただ数字を並べても役には立たない。

 冷える夜、雨上がり、初雪の前後。どういう順で聞けば、手戻りが少ないかを書き添えた。


 父が持たせてくれたパンをかじりながら、写しも作った。

 原本を受け取る人が、塔まで持っていくとは限らない。石の前で読めるものが、もう一部は要る。

 写す途中で同じ頁を二度書いてしまい、ペンを置いた。眠い。水で顔を洗ってから、頁の端へ順番を振り直す。


 三晩目には、具合の悪くなったときの手順を書いた。

 届かないとき。遅いとき。違う相手に届くとき。

 迷ったら先へ進まず、直前に触れた石の番号と値を確かめること。留め金を外す前に、下へ布を敷くこと。小さなものほど落とすと見つからない。


 予備の石の欄には、第三塔の地下の物置、右から二番目の箱、と記した。

 鍵はハンスが持っている。局の裏の倉庫にいる時間を書き、腰の鍵束には丸い真鍮札(しんちゅうふだ)がついていることまで添えた。

 そこまで要るだろうか。

 要らなければ、読まずに済むだけだ。


 三頁目へ戻り、空けてあった中央の行に書く。


『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』


 乾くのを待ち、もう一度、文字の上を太くなぞった。

 脅すためではない。晴れた夜には静かな石を前にして、今日はしなくていいと思わないでほしかった。


 三十二頁。

 写しと原本を並べ、声を出さずに一行ずつ照らし合わせる。窓の留め金の場所から、予備の石の鍵まで、同じ順番で記されている。

 残るのは、明日の朝、これを渡すことだった。


 国境中継線の音を確かめた。

 向こうからの便りはまだ来ていない。エステルは今夜、先に石へ手を伸ばした。


『今夜で最後の夜勤です。三年間、ありがとうございました』


 しばらくして、文字が浮いた。


『どちらかへ移られるのですか』


 長く書けば、愚痴(ぐち)になる気がした。

 婚約が解消され、通信局の手伝いも終えること。仕事は誰にでもできると言われたこと。

 それだけを、短く送った。

 最後の一文は余計だったかもしれない。送ったあとで、もう消せないことを悔やんだ。


 返事が来なかった。

 エステルは調律具を拭(ふ)き、箱に収め、また取り出して輪の裏を確かめた。石は正常だった。こちらの文は向こうへ届いている。

 突然こんな話をされても、困るだけだろう。


 椅子から立とうとしたとき、石が鳴った。


『誰にでもできる仕事だとは思いません。あの秋から三年、一度も国境線が乱れなかったのは、そちらで合わせ続けてくださったからです』


 箱の蓋に置いた手が止まった。


 向こうの人も毎晩、石を聞いていた。こちらが半目盛り変えれば、それを知る人だった。

 だから、この言葉には返す冗談が見つからなかった。


『では、うちに来ませんか』


 続けて文が届いた。


『ラウエン魔導通信院(まどうつうしんいん)です。うちの網はつぎはぎだらけで、腕のいい技師が足りません。正式にお迎えしたいと思っています』


 エステルは二度読んだ。

 そこは、鳴晶石(めいしょうせき)の新しい台座を考案した院だった。取り寄せた図の隅に、その名が印刷されていたのを覚えている。


『夜勤の方には珈琲を出します』


 そこまで読んで、少し笑った。

 次の文は、笑えなかった。


『猫も一緒にどうぞ』


 国を出ることも、知らない場所で働くことも、考えたことがなかった。父には何と言おう。自分に扱える石ばかりだろうか。

 心配はいくらでも浮かぶのに、行きたくない理由は一つも見つからない。


 膝でノアが伸びをした。爪が外套(がいとう)へ引っかかり、エステルは一本ずつ外してやった。

 すぐに返事をしてしまいそうな自分が、少し怖かった。


『お返事は、引き継ぎを終えてから』


 そう送ると、承知しました、とだけ返ってきた。

 催促の文は続かなかった。


 エステルは最後の巡回の値を記し、作業日誌の末尾へペンを置いた。


『異常なし』


 この机で書くのは、これで最後だった。



お読みいただき、ありがとうございます。

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