異常なし
第三塔の流しには、朝に洗った杯が伏せてあった。
エステルは濃紺の作業外套を着て、灰色の袖口を内側へ折り込んだ。ドレスの背の留め具が少しきつい。解くには人の手が要るので、夜が明けるまで我慢することにした。
珈琲の缶を開け、底を見た。
あと七杯か、薄くすれば八杯。輸入商に次の入荷を尋ねるつもりでいたことを思い出したが、その予定も考え直さなければならない。
「一杯くらい、贅沢してもいいわよね」
ノアは流しの足元で餌を食べていた。こちらの贅沢には関心がないらしい。
いつもより少し山を高くして匙を入れる。湯を注ぐと、冷えた部屋に香りが広がった。杯は窓辺へ置いた。棚の近くへ置くと、手を伸ばした拍子に倒す。
四十八本の鳴晶石が、胸の高さから天井近くまで並んでいる。
一本に指を添えると、爪の付け根へ細かな震えが伝わった。その奥の音を聞く。表面では細く澄んでいるのに、芯にわずかなうなりがある。
目盛りのついた輪を石の根元へはめ、半目盛り戻す。
うなりが消えた。
同じ高さに合わせた石どうしは、遠く離れていても共鳴する。その響きに文字を乗せて送るのが、鳴文だった。
音がずれれば、届くまでに何度も送り直すことになる。もっとずれれば、文字が崩れ、ひどいときには別の石が受け取ってしまう。
昼の受付では、字が読めるかどうかしか分からない。字になる前のずれを探すのが、夜の仕事だった。
十七番に触れる。思ったとおり、高い。
この石は雨の前に音が上がる。空は晴れているが、明日の午後には降るのかもしれない。
三十二番は、今日は休ませなくてよさそうだ。商業ギルドの決算が近づくと、これだけが先に疲れて、指を離してから音が切れるまでの間が短くなる。
「四十一番は、今日はいい子ね」
先月の満月には、合わせたそばから低くなった。
なぜ満月なのかは分からない。窓に布をかけても、棚をずらしても同じだった。三度試して諦め、満月の夜だけ見回りを増やすことにした。
そう書けば、次の人も分かるだろうか。
列を半分ほど終えたところで、ノアが足首に体をこすりつけた。
しゃがんで撫でる。袖から覗いた灰色の絹を見て、夜会に行ってきたのだったと思い出した。ギルベルトの声は、石の響きを聞いているあいだ、ずいぶん遠くへ行っていた。
◇
第五塔の三番は、連絡用の石越しでも分かるほど低くなっていた。ノアが耳を伏せる。石の音が濁ると、いつもこうするのだった。
半分ほど残っていた珈琲を飲み干し、エステルは携帯灯を取った。帰ってくるまで置けば、冷えきってしまう。
塔の外では、石畳に薄く霧が流れていた。
裏道を抜けると、衛兵が携帯灯を持ち上げた。
「お、ハーゲンのお嬢さん。今夜もかい」
「第五塔まで」
「あそこの角、水が出てるよ。端を通りな」
「ありがとうございます」
彼はエステルの靴を見て、少しだけ眉を上げた。夜会用の靴だった。何も聞かず、自分の灯りで水たまりを照らしてくれる。
角を曲がる前に振り向くと、もう次の戸口を確かめていた。
あと二晩、同じ道を通る。
辞めると伝えようかと思ったが、彼の灯りはもう門の向こうだった。明日会えたら話そうと、エステルは角を曲がった。
第五塔は北の窓の建てつけが悪い。閉まっていても風が入り、いちばん端の三番だけを冷やす。
布を挟んで隙間を塞ぎ、石に触れた。指先が冷えていたので、いったん両手をこすり合わせてからやり直す。
半目盛り上げても、まだ低い。
あと四分の一。音の戻りを待って、輪を外した。
窓の修繕願いは、春にも出した。
引き継ぎ書には、その写しの場所も書いておこう。受け付けた者の名が残っているから、次に頼むとき、初めて聞いたとは言われずに済む。
第三塔へ戻るころには日付が変わっていた。靴の先が濡れ、髪の後れ毛が首に張りついている。
ノアは椅子の上で丸くなっていた。留守を任せた覚えはないが、ずいぶん働いたような顔で目を開けた。
「少しだけ、借りるわよ」
抱き上げると、椅子の座面まで温かかった。
◇
日誌に、第五塔の値と、窓に挟んだ布の場所を記す。
棚の一段には、五年分の帳面が並んでいた。初めの一冊は角が擦り切れ、表紙にうっすら煤の跡がある。灯明の脇へ置きすぎたのだ。
開くと、十五歳の字があった。
『三番、低い。戻した』
余白には、ハンスの太い字で『いくつ』と書かれている。
「記録を残さない技師は、半人前だ」
「残しています」
「低い、戻した、ではわしに分からん」
「元の値に戻したんです」
「なら、その値を書け。お前の頭の中までは読めん」
よく覚えていた。恥ずかしかったからだ。
翌日から、動かす前と動かした後の値を両方書いた。うまく直せなかった夜も、試して駄目だったことから書いた。
「誰が読んでも分かるように書け。お前が寝込んだら、石も休ませるのか」
あのころのハンスは、そこまで言う必要があるのかと思うほど細かかった。
今夜は、もう一度教わりたいことがいくつもあった。
新しい紙を揃え、上の端へ表題を書く。
『王都伝鳴網・夜間保守引き継ぎ書』
二行目で手を止めた。
どこまで知っている人に向けて書けばいいのだろう。ギルベルトの、誰にでもできるという声が浮かぶ。
エステルはペン先をインクへ浸した。
『この引き継ぎ書は、読む人が何も知らないことを前提に書いています』
読み返すと、少し角の立つ書き方にも見えた。
けれど本当のことだ。知らない人が、知ったふりをせずに開けるものにしたい。
ギルベルトに向けたつもりはない。少なくとも、それだけではなかった。
最初に塔へ入る手順を書く。灯りの場所、油の残量の確かめ方。石の番号は台座の手前にあり、棚の横の古い番号は使わないこと。
次いで、七つの塔の石を一覧にした。
いい感じに直しておいて、と言われるのがいちばん困る。
どのくらいなら許されるのか。何を先に残したいのか。尋ねると、任せると言われる。後から違うと言われても、直すための値がない。
自分の書くものには、できるだけそれを残したくなかった。
四十一番の欄には『満月の夜は、巡回時に二度確認すること』と記した。
余白へ、『理由は分かりませんが、毎回そうです』と添える。
ここだけ読めば、石の機嫌を占っているようだ。思わず笑うと、膝の上のノアが片目を開けた。
「あなたも理由が分からないものね」
なぜ、書き物を始めると必ず膝に来るのか。
猫はまた眠った。
十二頁まで書いたところで、窓が青くなりはじめた。手を止め、各塔の響きをもう一巡確かめる。
十七番も、三十二番もよい。第五塔の三番も、落ち着いていた。
作業日誌を手元へ引き寄せ、末尾へ四文字を書く。
『異常なし』
これを書くと、ようやく一日が終わる。
インクが乾くのを待っていたとき、国境中継線の石が淡く光った。
『今夜は冷えますね。猫は元気ですか』
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