婚約破棄は夜会の真ん中で
短編版を読んでくださった方、ありがとうございます。連載版では、短編のその先まで書いていきます。
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「地味な魔導具いじりしかできない女に、侯爵家の妻は務まらない」
最後の弦の音が消えたところだった。
楽団の前に立つギルベルトの声は、広間の奥までよく通った。給仕が足を止め、次の曲を待っていた男女がこちらを向く。エステルは手にしていた杯を、傍らの卓へ置いた。
飲み口に口紅はついていなかった。結局、一口も飲めなかったらしい。
「エステル・ハーゲン。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
隣に寄り添うフローラの、淡い金のドレスが揺れた。肩に散らした小さな光が、髪飾りの宝石を一つずつ照らしている。ろうそくの火より柔らかく、近くの者の顔まで明るく見せる光だった。
きれいな魔法だと思った。
そのあとで、返事をしなければと気づいた。
「理由は、今おっしゃったことですか」
「まだ分からないのか。君は夜会にもその格好で来る」
灰色の絹に、泥が跳ねていないか確かめてから来た。第二塔の階段で裾を引っかけたところも、馬車の中で縫ってある。さすがにそこまでは見えないはずだった。
髪は結い直す暇がなく、栗色の束を星のピン一本で留めていた。飾りを増やすと、石の棚に顔を寄せたとき邪魔になる。
「また塔からいらしたんですって」
「夜中に一人で。伯爵家のお嬢様なのに」
扇の陰の声は、扇では隠れない。
十五のころなら頬が熱くなった。十六のころには聞こえないふりを覚え、二十になった今は、誰が言ったのか確かめることもしなくなっていた。
それより、窓際から冷気が流れてくるのが気にかかった。昼に見た第五塔の三番は、まだ大丈夫だった。これだけ冷えるなら夜半までには下がるだろう。
「フローラ嬢は違う。彼女は、この国の未来を考えている」
ギルベルトが手を差し出すと、フローラはそこへ指を重ねた。エステルへ目を向けかけたが、すぐに客たちの方を見た。
「皆様。次の試運転では、光そのものに文字を乗せてお届けしますの」
フローラの掌に金色の文字が浮いた。『ごきげんよう』。文字は花びらほどの大きさにほどけ、広間をゆっくり渡った。
広間の中には、雨も霧もない。風もない。文字は一つも欠けず、向こうの壁に届いた。
拍手が起きた。
「これが光網計画だ。鳴晶石の調律なんて面倒なものは、もういらなくなる」
ギルベルトは、自分で光を放ったような顔をした。
霧の夜はどうするのだろう。
エステルは窓の黒いガラスを見た。王都では、秋が深まると川から霧が上がる。今夜も夜半を過ぎれば、低い塔は屋根しか見えなくなるはずだ。
散った光を次の塔で拾い直せるなら、確かに便利になる。雨粒で折れた文字をどう戻すのかも知りたい。
仕様書は、あるのかしら。
口を開きかけて、閉じた。
いま質問すれば、婚約を破棄された腹いせにしか聞こえないだろう。それに自分は、この計画の相談を受けたことが一度もない。
「何か言いたいことがあるのか」
ギルベルトがこちらを見ていた。
彼の襟には通信局長官の徽章が留めてあった。先月、王宮との連絡を増やした功績で、新しい飾りが加わったばかりだ。そのためにどの石を入れ替えたか、彼は知らない。
五年、という言葉が喉まで出た。
五年、わたしが。
けれど、その先を人々の前で並べて、何をしてほしいのか分からなかった。拍手だろうか。謝罪だろうか。どちらをもらっても、今夜の塔には上らなければならない。
「承知しました」
エステルは裾をつまんだ。
「では、引き継ぎを済ませて、三日後に通信局の夜勤も辞めます」
「好きにするといい。あんなもの、誰にでもできる」
それなら、よかった。
本当に誰にでもできるよう、書いておこう。
礼を終えると、ギルベルトはもうフローラを見ていた。広間を横切るあいだ、人々が道を空けた。顔を伏せる人も、口を結ぶ人もいたが、エステルは誰の表情も長く見なかった。
扉の向こうで楽団が次の曲を始めた。今度は、踊るには少し速い曲だった。
◇
「お屋敷へ、お戻りでよろしいですか」
御者はいつもより低い声で尋ねた。話がもう玄関まで伝わっているらしかった。
「第三塔へやってちょうだい」
「……今夜も、ですか」
「外套を置いているの」
それなら仕方がないというように、御者が扉を閉めた。
窓の外で王宮の灯りが遠ざかった。手袋を抜くと、右の人差し指に調律具の輪の跡が残っている。昼の点検で、ずっと握っていたせいだった。
初めて第三塔へ入った日、エステルは十五だった。
父について通信局を訪ねた帰り、扉の隙間から聞こえた音に足を止めた。鐘とも、器の縁を指でこすった音とも違う。細い音がいくつも重なり、立つ場所を変えると響きまで変わった。
奥の棚には、透明な石が並んでいた。
「触るなよ」
ハンスの声に、伸ばしかけた手を引っ込めた。
翌日も、その翌日も行った。三日目にようやく触らせてもらえた石は、思っていたより温かかった。
「どこが違う」
「二つ、鳴っているみたいです」
「なら、よく聞け」
半月では足りず、ひと月でも何も分からなかった。半年たって一基を任されたときは、うれしくて、父の食卓で同じ話を三度した。
ハンスが膝を悪くして塔を退いてからは、受け持ちが七つに増えた。日ごとにずれ方の違う石を覚え、雨の日には先回りし、凍る夜にはいつもより早く家を出た。
ギルベルトと婚約してから、局での呼ばれ方が変わった。
技師見習いではなく、長官の婚約者。
夜の仕事は手伝いになった。給金の話をしても、家同士のことなのだからと言われた。報告書の最後には長官の名だけが載り、エステルの名は夜勤表の端に残った。
石がきちんと鳴っていれば、それでよかった。
少なくとも、そう言えば次の夜も塔に行けた。
馬車が止まった。第三塔の窓は、下から上まで暗かった。
エステルはひとりで扉を開けた。階段の手すりは冷たく、踊り場の灯明皿には油を足す必要があった。こういうことも書いておかなくては、と数えながら上る。
最上階の一段手前で、黒いものが動いた。
「待っていてくれたの」
ノアは返事の代わりに、裾へ頭を押しつけた。撫でようとすると、先に作業室へ入ってしまう。食事の時間が遅れたことについては、あとで聞かされそうだった。
灯りをともすと、棚の鳴晶石が一斉にきらめいた。
窓の下に王宮が見える。その西には騎士団の詰所、川沿いには商業ギルド。灯りと灯りのあいだを、目には見えない鳴文が渡っている。夜番の交代を知らせる文。朝の荷の数。誰かの帰りを待つ家への短い便り。
七つの塔が、その道をつないでいた。
エステルは窓の留め金を掛けた。今夜の冷えを、部屋に入れすぎてはいけない。
ノアが椅子を取る前に、外套を背へかける。
「――あと三日」
聞いていたのは、椅子の下の猫だけだった。
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