第2話 どうせなら、僕を盗まない?
僕はじりじり後ずさりしながら、男から距離を取った。
脇目もふらずに逃げたいところだけど、僕は絶望的に鈍足なんだ。
さっきの男の身のこなしを見る限り、あっという間に追いつかれて、捕まったが最後、『顔を見たな』と証拠隠滅のために消される。
この状況を打開する方法は……!?
「なあ、おい」
逃げようとしていることに気づかれたのか、男に声をかけられてしまった。
身体が反射的にぶるっと震える。〈不浄の森〉にいるという巨大な魔物に睨まれたら、こんな気分になるのだろうか。
ここはとにかく相手を怒らせないように――。
「な、なに?」
僕は全身に冷や汗が噴き出すのを感じながら、努めて穏やかな声で返事した。
「俺がこの剣を盗んだって、黙っていてくれねえか?」
男はずいぶん低姿勢でそんなことを聞いてくる。
僕の口からは「は?」と間の抜けた声が出ていた。
「いや、あのね、聖宝の管理は僕の仕事。盗まれれば、誰が犯人であっても、僕の責任になるんだけど?」
「そっかぁ……」
男はがっかりしたように肩を落として、体中の空気を吐き出す勢いでため息をついた。
「お前さんに迷惑をかけるつもりはなかったんだけどさ」
「どうしようかな」をぶつぶつ繰り返している男は、聖宝を盗みに来た賊にしては人が好さそうだ。
とりあえず、僕に危害を加えるつもりはないってことで……。
僕は一つ息をついて緊張を解いた。
「どうして君は〈紅玉の剣〉が欲しいの? 聖宝っていっても、特別な力なんてないんだよ。価値があるとしたら、せいぜい柄頭にはまっているルビーくらいで」
「え、そうなのか? この剣を持つと、聖イリアスの加護をもらえるって聞いてたんだが……」
男が切れ長の目を丸くするので、僕は首を横に振った。
「聖職者の僕が言うのも何だけど、それ、ただの伝説だから」
「マジかぁ……」と、男は肩を落とす。
「剣士として強くなりたいの? 君、十分強そうに見えるけど」
男の首にかけられた銀のペンダントは、このアルトゥアナ大陸にいくつも支部を持つ冒険者ギルドに登録している証。腰に差している使い込んだ剣を見ても、剣士に違いない。
この大陸の北半分は、魔物が巣くう〈不浄の森〉に覆われていて、サントレナス教皇国の北もその森に隣接している。
古来、魔物による人的被害が頻発していて、そんな魔物を討伐するのが冒険者の仕事。
この皇都サルマントは冒険者ギルド発祥の地で、今でも本部が置かれている。
依頼件数も多く、強い者ほど稼げる。一攫千金を求めて、大陸各地から猛者が集まってくるので、どの国に比べても登録者数が一番多いとか。
力と戦を司る聖イリアスは、特に冒険者たちの崇拝を集めている聖人。聖イリアスの加護が宿る聖宝は、戦いに身を投じる者たちにとって、何よりも欲しいものなのかもしれない。
……まあ、その加護が本物だったら、の話だけど。
「別に俺が欲しいわけじゃねえ。仕事として引き受けただけだ」
「冒険者ギルドで窃盗の仕事を斡旋しているとは知らなかったな」
「冒険者ギルドは関係ねえ」
「なら、誰からの依頼?」
「それは言えん」
それもそうか、と僕も納得。
聖宝を盗むように依頼する人間が、まともなわけがない。個人的な依頼なのか、それとも犯罪まがいの仕事を斡旋する闇ギルドか。
いずれにせよ、この男がそんな仕事を引き受けた理由は、一つしか思いつかない。
「金が必要なの?」
僕の問いに、男はしょぼくれた顔で小さく頷くと、素直に語り出した。
「妹が病気でさ、これまでは薬で何とかなってたんだが、いよいよ医者もお手上げだって。治せるのは教皇庁の治癒師しかいないって言われた。
けど、治癒師に診てもらうには俺の稼ぎなんかじゃ全然足りなくて……闇ギルドを頼るしかなかったんだ」
「それで闇ギルドから依頼されたのが、〈紅玉の剣〉を盗むことだったと」
「俺だって、悪いことだって分かってるんだ。けど、妹を助けるには他に方法がなくて。治癒師に診せる金を貯めてる間に、妹が死んじまったら意味ないだろ?」
「気持ちは分からないでもないけど。それで妹さんが元気になっても、自分のために君が犯罪者として捕まったりしたら、心を痛めるんじゃない?」
僕にしては聖職者らしい正論を言ったと思う。
教皇、枢機卿に次ぐ司祭の位を僕が持っているといっても、それは名ばかり。
毎日の礼拝儀式に参加することもなければ、年中行事も気が向いた時に顔を出すだけ。信徒の告解を聞いてやることもない。
日がな一日、朝も夜もなく、新しい魔術の発明のために部屋に引きこもる生活をしている。
要は、信徒より不信仰なんだ。ギリギリのところで、優秀な頭脳と魔術の才を与えてくれた聖ランスに感謝の念があるくらいかな。
聖ランスは知恵と魔術を司る七聖人の一人だから。
「けど、盗みなら、たとえ捕まっても強制労働で済むんだと。俺、身体だけは丈夫だからさ」
男は疑う余地もないと言わんばかりに返して、ポンと胸を叩いた。
「いや、それは……」
この男、いいように騙されていない?
窃盗の罪は、盗んだ物によって刑罰の重みが違う。
それこそ、腹を空かせて食い逃げをしたり、露店で食べ物を盗んだ程度なら、強制労働で済むかもしれない。けれど、国宝ともいえる聖宝を盗んだとなれば、話は別だ。
無事に返還されればまだしも、行方が分からなくなったら極刑は免れない。
「君の親はどうしているの?」
「どっちもいねえよ。両方冒険者だったんだけどさ、五年前、依頼を受けて出かけたきり戻ってこなかった」
「そう……」
「俺には妹しか家族がいないんだ。だから、どうしても助けたい」
後ろめたくなった僕は、必死に訴える男から目をそらした。
教皇庁の治癒師――それは他でもない僕のことだ。
一般的な魔術師なら、ケガの治癒はできる。それこそ冒険者の中にもいるはず。けれど、病の治癒となると、できるのはこの教皇庁でも僕しかいない。
僕からすれば、病気に関する知識があれば治癒の方法も分かるので、外傷を治すのと大差はないと思うんだけど――。
他の魔術師に説明しても、新たな治癒師は現れなかった。
おかげで国の上層部は、その稀有な才能を独占するために僕に司祭の位を与えて、外に出ることすら禁じた。勝手に病人を治癒したら困ると言って。
僕が患者を診るのは、教皇から指示があった時のみ。その患者はというと、高位聖職者や裕福な商人、他国の王侯貴族ばかり。
その対価が具体的にいくらなのかは知らないけれど、途方もない金額を献金として受け取っていると思う。そして、それは教皇庁の大きな収入源になっている。
僕には銅貨一枚も入ってこないけどね。
そもそも外に出られない僕には、金なんて必要ない。毎日の衣食住が保証されて、魔術の研究ができればそれでよかった。
だからといって、この国の上層部がどういう人間なのか、知らないわけじゃないよ。
国の元首たる教皇は、女人禁制の宮殿に気に入った女性信徒を連れ込んで、享楽にふけっている。
その教皇を支える十人の枢機卿たちも、金でその地位を買った者ばかり。金が必要になれば、誰かに何らかの罪を着せて、その財産を没収する。
僕が物心ついた頃から、不正や賄賂、無為な処刑が横行する政治が当たり前だった。もはや聖職者とは何か、なんて考えることも無駄だ。
僕の魔術師としての才能が、汚職に拍車をかける一端になっていることも、頭の片隅では分かっていた。
けれど、教皇庁の中しか知らない僕にとって、外の世界は書物で知るだけで、現実味が伴わなかった。見て見ぬフリをしてきたと言ってもいい。
現実は、目の前にいる男のように、家族を救うために罪を犯してでも僕の治癒を必要としている人間がいる。どれだけの人間の命が、金がないばかりに失われていったのか。
しかしながら、僕の魔力は無限ではない。魔術も万能ではない。誰を助けて、誰を見捨てるのか。その線引きは、最終的には金になってしまうのも理解できる。
それでも、こんな風に出会ってしまったら――運命が動き出す音が聞こえてしまうよ。
僕はこくりと息をのんでから――
「ねえ、一つ提案なんだけど」
「なんだ?」
「どうせなら、僕を盗まない? そんな聖宝より、よほど価値があると思うよ」




