第4話 ボクは、けっこう困っている
ミオが差し出したボタンは、夕方の光を受けて、亮間の手のひらの上でやけに小さく見えた。
御影南高校の校章が刻まれた、なくしたはずの学生服のボタン。黒羽横丁で酔っ払いを殴った夜にどこかへ飛んでいったものが、数日越しにダークエルフの少女の手から戻ってくるという状況は、冷静に考えるとかなり妙だった。拾ったものを返しに来ただけなら、校門前で待ち伏せる必要はないし、そもそも落とし物ひとつのために高校を調べて本人を探す人間は、善良というより少し怖い。
亮間はボタンを受け取りながら、ミオの顔を見た。黒いパーカーのフードを深く被っているせいで、銀色の髪も尖った耳も半分隠れている。黒羽横丁で見たときより顔色が悪く、笑っているのに目の奥だけが落ち着いていない。胸元のポケットを押さえる仕草はさっきから何度も繰り返されていて、本人が気づいているのかいないのか、その癖だけで彼女が何かを隠していることは分かった。
「それで、話って何だよ」
「ここで話すの?」
「ここで話せない話なら、俺にするな」
「キミ、思ったより警戒心あるね。夜の横丁で知らない女の子助けるくらいだから、もっと雑に人を信じるタイプかと思ってた」
「あれはただ酔っ払いがうるさかっただけだ」
「ふうん。じゃあボクのことは、うるさくなかったんだ?」
ミオは少しだけ首を傾げた。わざとらしいほど自然な角度だった。夜の街で大人の女たちを見て覚えたような、相手の反応を試す仕草。見た目だけなら絵になる。銀髪の隙間から覗く耳が夕日に透け、赤紫がかった瞳が亮間を見上げ、口元には強がりの混じった笑みがある。ほんの一枚絵に切り取れば、きっと何人かは見惚れるのだろう。
亮間は眉間にしわを寄せた。
「そういうの、やめろ」
「そういうのって?」
「慣れてないくせに、慣れてるふりするやつ」
ミオの耳の先が、ほんの少しだけ動いた。笑顔は崩れなかったものの、目だけが一瞬鋭くなる。
「キミ、女子にそういうこと言うと嫌われるよ」
「今さら好かれる努力を始める顔に見えるか」
「見えないね。すごく見えない」
「納得するな」
校門からは、部活へ向かう生徒たちの声が流れていた。界素検知ゲートが誰かの通過に反応し、青白い光を足元から頭上へ走らせる。ミオはその光をちらりと見て、ほんのわずかに肩をすくめた。御影南高校の敷地内に入る気がないのではなく、入れない理由があるような反応だった。
亮間はそれを見逃さなかった。
「お前、ゲートくぐれないのか」
「くぐれるよ。たぶん」
「たぶんって何だ」
「ボク、ここの生徒じゃないし、部外者登録してないし、未申請の界素反応とか拾われると面倒だから、できれば試したくないだけ」
「それをくぐれないって言うんだよ」
「言い方の問題だね」
「問題があるのは言い方じゃなくて中身だろ」
ミオは笑ってごまかそうとした。亮間はごまかされなかった。数日前に黒羽横丁で見た耐界ケース、白井が言っていた違法界材の摘発、倉橋が口にした魔対課の警戒情報。偶然にしては近すぎるものが、彼女の周囲にいくつも転がっている。
「何かやらかしたのか」
「人聞き悪いな。ボク、そんな悪い子に見える?」
「見える」
「即答するんだ」
「夜の繁華街で怪しいケース持って歩いてたやつが、校門前で待ち伏せして話があるとか言ってる。まともな要素を探す方が難しい」
「助けた女の子に対して、ほんとに遠慮がないね」
「助けられた側の態度もだいぶ図太いだろ」
ミオはそこで、少しだけ笑った。黒羽横丁で最後に見せたものと同じ、子どもっぽさが混じる笑みだった。強がりの仮面が少しだけずれて、本来の彼女が顔を出したように見える。亮間はその笑い方に妙な引っかかりを覚え、すぐに視線をそらした。
「で、何の用だよ。ボタンについてはありがとな。それ以外に用が無いなら俺は帰る」
「じゃあ、帰り道だけ一緒に歩こうよ」
「なんでだよ」
「話があるから」
「ここで話せ」
「ここ、落ち着かないし」
「俺もお前と歩くと落ち着かない」
「ひどいな。ボク、一応けっこう美少女枠だと思うんだけど」
「自分で言うな」
「周りがそう言うから」
「周りを疑え」
ミオは唇を尖らせた。仕草だけ見れば年相応で、亮間より少し幼くさえ見える。先ほどまで大人ぶった駆け引きをしようとしていた少女と同じ人物とは思えないくらいだった。
亮間はため息をつき、校門から少し離れた通りへ歩き出した。ミオはそれを許可と受け取ったらしく、少し遅れて隣に並ぶ。並ぶ距離が近い。肩が触れそうなほど近い。亮間が一歩横へずれると、ミオも自然に一歩寄ってきた。
「近い」
「ダークエルフは警戒心が強いから、信頼した相手には距離が近くなるんだよ」
「嘘っぽい」
「半分くらい本当」
「残り半分は」
「ボクの都合」
「最悪だな」
夕方の通学路には、帰宅する生徒や買い物帰りの住民が行き交っていた。魔導バスの停留所では、眠そうな獣人の子どもが母親の尻尾に寄りかかり、歩道の端では小型配送車が「進路を譲ってください」と丁寧な声で繰り返している。御影市のいつもの夕方だった。いつもの夕方のはずなのに、隣に黒いパーカーのダークエルフがいるだけで、亮間の帰り道は妙に現実味を失っていた。
「キミ、家って近いの?」
「個人情報を探るな」
「一人暮らし?」
「違う」
「お母さん厳しい?」
「厳しかったら、俺はもう少しましな顔で学校に来てる」
「じゃあ、わりと自由なんだ」
「自由と放置は違うだろ」
口にしてから、亮間は少しだけ後悔した。余計なことを言った。ミオはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、数秒だけ黙って歩いた。
「ボクも、放置は嫌いじゃないよ。誰にも見られてない方が楽なときってあるし」
「そういう話じゃない」
「そういう話にしたくないだけでしょ」
亮間は立ち止まった。ミオも遅れて止まる。街路樹の葉が夕方の風に揺れ、舗道に細かい影を落としていた。
「お前、何がしたいんだよ」
「だから、話があるって言ってる」
「家を聞くな。距離を詰めるな。事情を言わずにこっちの反応だけ見るな。そういうのがめんどくさい」
「めんどくさいって、女の子に言う言葉じゃないよ」
「お前の場合は性別より先に不審者だ」
「ボク、不審者扱いされるために勇気出して来たわけじゃないんだけどな」
「なら目的を言え」
ミオは口を開きかけて、閉じた。夕日の色が瞳に入り、赤紫の奥が揺れる。言いたいことがある。言えないこともある。助けを求めたいくせに、助けてと言えば何かが決定的に崩れると思っている。亮間にはそこまで分かってしまった。分かってしまう自分が、少し嫌だった。
「……今日だけ」
ミオは小さく言った。
「今日だけ、どこか落ち着ける場所にいたいって言ったら?」
「交番」
「それは落ち着けない」
「駅前のファミレス」
「お金、あんまりない」
「学校の相談室」
「部外者だよ、ボク」
「家に帰れ」
「……帰れないって言ったら?」
その声だけ、冗談になっていなかった。
亮間は返事をしなかった。ミオはすぐに笑い、さっきの空気をなかったことにしようとした。
「なんてね。ちょっと言ってみただけ。キミ、意外と真面目な顔するんだね」
「帰れないなら、ちゃんとそう言え」
「言ったらどうするの」
「頼れる大人に相談」
「最悪」
「未成年が行き場ないとか言い出したら、普通はそうなるだろ」
「普通はね」
「普通じゃない理由があるなら、なおさら大人に言えよ」
「キミ、大人を信用してるんだ」
「信用してるわけじゃない。俺よりましなだけだ」
ミオは少しだけ目を伏せた。その沈黙の長さで、亮間は自分の言葉が彼女にとって都合の悪い場所へ当たったことを知った。魔対課。違法界材。黒羽横丁。言葉にしなくても、頭の中でそれらが線のようにつながっていく。
「公安に追われてるのか」
ミオの足が止まった。
亮間は、自分の勘が外れていないことをその反応だけで理解した。
「……キミ、見た目より頭回るんだね」
「馬鹿にしてんのか」
「ちょっとだけ」
「帰れ。いや、違うな。出頭しろ」
「出頭って言い方がもう怖い」
「怖いことに関わってんだろ」
「ボク、全部知ってたわけじゃない」
「じゃあ、知ってることを話せ」
「誰に?」
「魔対課でも、学校の先生でも、交番でも」
「キミは?」
「俺に話してどうすんだよ。喧嘩しかできない高校生だぞ」
「喧嘩しかできない高校生が、ボクを助けたから来たんだけど」
ミオの声は、少しだけ震えていた。本人は気づいていないのかもしれない。亮間は、その震えを聞かないふりができなかった。
それでも、ここで安易に頷いてはいけないことくらい分かっていた。自分の家は、誰かを安全に匿えるような場所ではない。母親はいつ帰ってくるか分からないし、知らない男が出入りすることもある。亮間自身、学校で問題児扱いされている高校生で、公安が関わるような事情に手を出せる立場ではない。ミオがどれだけ困っていようと、できることとできないことがあることくらい頭の中で理解していた。
「俺には無理だ」
ミオの表情が一瞬だけ消えた。
亮間は続けた。
「俺はお前の事情を知らないし、知ったところでどうにもできない。魔対課に追われてるなら、逃げるより話した方がいい。お前が本当に巻き込まれただけなら、保護される可能性もあるだろ」
「保護って言葉、好きじゃない」
「好き嫌いの話じゃない」
「保護って言いながら、ボクの行きたい場所も、会いたい人も、帰りたくない場所も、全部大人が決めるんだよ」
「知らねえよ」
亮間の声が少し荒くなった。ミオが目を上げる。
「俺に言うな。俺はお前の事情なんか知らない。知らないものを全部抱えろって言われても無理だ」
「……うん」
「学校までいちいち来るな。俺なんかじゃなく、ちゃんとしたところに行け」
「うん」
ミオは素直に頷いた。素直すぎて、逆に嘘くさかった。
「分かった。ごめん、変なこと言って」
「本当に分かったのか」
「分かったよ。ボク、そこまで馬鹿じゃないし」
「馬鹿じゃないやつは、不審者みたいに校門前で待ち伏せしないぞ」
「最後までひどいな、キミ」
ミオは笑った。よくできた笑顔だった。亮間は、彼女の作るその笑顔がさっきまでよりずっと苦手になった。
駅前通りの分かれ道で、亮間は足を止めた。
「俺はこっちだから」
「そっか」
「お前は?」
「適当に行く」
「適当に行くな」
「じゃあ、ちゃんと行く」
「どこへ」
「明るい方」
「答えになってねえ」
「ボクの今の人生、だいたいそんな感じだから」
ミオは軽く手を振り、亮間とは反対方向へ歩き出した。夕方の人混みに黒いパーカーの背中が紛れていく。銀色の髪が一度だけ光を拾い、すぐに見えなくなった。
亮間はしばらくその場に立っていた。
追いかけるべきか、放っておくべきか。頭では放っておく方が正しいと分かっている。大人に言えと言ったのも本心だった。自分にできることなどない。自分の家に連れて帰るなんて論外で、そんなことをすれば、彼女の事情も、自分の家庭も、学校の問題も、全部まとめて面倒なことになる。
亮間は踵を返し、家へ向かった。
帰り道の空はすっかり暗くなり始めていた。星屑ヶ丘住宅街へ近づくにつれ、黒羽横丁の派手な光は遠ざかり、代わりに住宅の窓明かりや、自治会が設置した魔導街灯の白い光が歩道を照らす。夕飯の匂いがどこかの家から流れ、獣人の子どもが母親に手を引かれて歩き、向かいの竜人混血の会社員が翼を小さく畳みながら自転車を押している。あまりにも普通の帰り道だった。
亮間の家の前には、玄関灯がついていなかった。
母親はまだ帰っていないのだろう。もしくは帰ってきて、また出ていったのかもしれない。どちらでもいい。亮間はポケットから鍵を取り出し、門扉を開けようとして、そこで足を止めた。
玄関の脇に、黒い影があった。
最初は、捨てられた大きな荷物かと思った。フードを被ったまま膝を抱え、門柱と壁の間に身体を押し込むようにして座っている。銀色の髪がフードの奥からこぼれ、尖った耳の先が夕闇の中で小さく揺れていた。
ミオだった。
亮間は数秒、何も言えなかった。
ミオは顔を上げた。さっき別れたときよりも顔色が悪く、唇の色も薄い。それでも彼女は、亮間を見つけると、無理やり作ったような笑みを浮かべた。
「おかえり」
「……なんでいる」
「迷った」
「俺の家の前にピンポイントで迷うな」
「偶然って、あるよね」
「ない」
ミオは笑おうとして、途中で小さく咳き込んだ。強がりの形が、さっきよりずっと雑になっている。胸元のポケットを押さえる指は白くなっていて、肩はわずかに震えていた。寒さだけではない。疲労と緊張と、たぶん空腹もある。
亮間は門扉を握ったまま、低く言った。
「帰れって言っただろ」
「うん」
「大人に言えって言っただろ」
「うん」
「分かったって言ったよな」
「言った」
「じゃあ、何してんだよ」
ミオは答えなかった。答えないまま、膝に額を少しだけ近づける。黒いパーカーの背中が小さく見えた。黒羽横丁で酔っ払いに絡まれていたときよりも、校門前で笑っていたときよりも、ずっと小さく見えた。
亮間は空を見上げた。星屑ヶ丘の街灯が白く光り、遠くの道路を魔導バスが低い音を立てて通り過ぎる。家の中は暗い。母親はいない。冷蔵庫の中には、たぶん朝のままの賞味期限切れの惣菜しかない。
最悪だ、と亮間は思った。
最悪なのは、この状況ではない。この状況を見て、それでも完全に背を向ける自分を想像できなかったことだった。
ミオが、小さな声で言った。
「……亮間」
「名前で呼ぶな」
「じゃあ、川澄」
「それもなんか腹立つ」
「どっちならいいの」
「今は喋るな」
亮間は深く息を吐き、門扉を開けた。金属の軋む音が、やけに大きく聞こえた。
「そこで倒れられたら、俺が困るだろ」




