第5話 川澄家は、思ったより生活感がひどい
亮間が門扉を開けたとき、ミオは本当に入っていいのか、冗談だったのか、それとも罠なのかを見極めるように黒いフードの奥からこちらを見上げていた。
星屑ヶ丘住宅街の外れにある川澄家は、築年数だけならまだ古民家と呼ぶほどではない二階建ての一軒家で、道路に面した小さな門扉から玄関までは大人が五歩で通り過ぎられる程度の短いアプローチがあり、そこには母親がいつ買ったのか分からない枯れかけの鉢植えと、自治会から配られたまま放置されている「界材混入ごみゼロ運動」のステッカーと、雨の日に誰かが倒してそのままになっている傘立てが並んでいた。家そのものは普通だった。少なくとも外から見れば、夜の街で公安に追われているかもしれないダークエルフの少女を一時的に放り込むには、あまりにも普通すぎる家だった。
「……ほんとに入っていいの?」
「そこで倒れられたら困るって言っただけだ。歓迎はしてない」
「歓迎してない相手に扉を開けるんだ」
「日本語の細かいところを突く元気があるなら帰れ」
「ごめん、今のボクは帰れって言われるとわりと詰む」
「その冗談、笑いどころが分かりにくいんだよ」
亮間は玄関の鍵を開け、先に中へ入って灯りをつけた。玄関には亮間のスニーカー、母親のヒール、いつから置いてあるのか分からない男物の革靴、折り畳み傘、空のペットボトルが一本、ついでに郵便受けから回収したまま誰も開けていない封筒の束が置かれている。人の家に初めて入る少女を迎える場所としては、かなり点数が低い。
ミオは敷居の前で固まった。
「どうした。入れよ」
「……いや」
ミオは玄関の中を覗き込んだまま、少しだけ目を細めた。
「普通の家だなって思って」
「悪かったな。地下に違法術式工房も、屋根裏に封印された魔王もいなくて」
「そういう意味じゃないよ。もっとこう、キミみたいな顔の人が住んでる家って、玄関を開けた瞬間に木刀とか、呪符とか、謎のトレーニング器具とかが落ちてくるものだと思ってた」
「人を何だと思ってる」
「野良の第三等級」
「俺は無等級だ」
「顔だけなら第四等級くらいある」
「顔に等級をつけるな」
言い返しながら、亮間は足元のペットボトルをつま先で端に寄せた。隠せる散らかり方ではないし、今さら取り繕う気にもなれない。それでも、母親のヒールと男物の革靴だけは視界から外したくて、亮間はそれとなく自分のスニーカーで革靴の先を押しやった。
ミオは小さく笑い、靴を脱ごうとしてふらついた。亮間が反射的に腕を伸ばすと、彼女はその手を取らずに壁へ指をついて体勢を戻した。強がりというより、支えられることに慣れていない動きだった。
「触ってないからな」
「別に触ってもよかったけど?」
「そういう返しをする余裕があるなら、やっぱり帰れ」
「今のは社宅のお姉さんたちの真似。言えば男の子が動揺するって聞いた」
「相手と場面を選べ。俺は今、玄関のペットボトルを踏まないようにするので忙しい」
「キミ、ほんとにムードってものを知らないね」
「自分の家の玄関で赤の他人の女子とムードを発生させる方が怖いだろ」
亮間はペットボトルを拾い、封筒を下駄箱の上へ寄せ、ミオを中へ入れた。廊下は短く、右手にリビングとキッチン、左手に洗面所と風呂場、奥にトイレ、その先の階段を上がると二階に亮間の部屋と母親の寝室、使われていない物置部屋がある。家族がきちんと暮らしていれば扱いやすい構造なのだろう。現実には、洗面所のドアノブに母親のストールがかかり、階段の一段目には通販の箱が積まれ、廊下の隅には掃除機が途中で力尽きたみたいな角度で放置されていた。
ミオはきょろきょろと周囲を見回しながら、感心しているのか困惑しているのか分からない顔をした。
「普通の家って、もっと整ってるものだと思ってた」
「普通の家を見たことないのかよ」
「あるよ。テレビで」
「それは見たことがあるんじゃなくて、視聴したことがあるって言うんだよ」
「じゃあ、これが現実の男子高校生の家?」
「男子高校生を代表させるな。これは川澄家の問題だ」
「なるほど。川澄家、なかなか興味深いね」
リビングの灯りをつけると、部屋の輪郭があらわになった。中央には低いテーブルがあり、その上にはテレビのリモコン、開封済みのスナック菓子、母親の化粧ポーチ、亮間の反省文の下書き、誰かの忘れ物らしいライターが雑に乗っている。壁際には古いソファがあり、背もたれには洗濯したのかしていないのか判断が難しいパーカーがかかっていた。テレビ台の横には家庭用魔導電池の空き箱と、使いかけの界素浄化フィルターが積まれている。キッチンはリビングと一体になっていて、シンクにはマグカップが二つ、皿が一枚、箸が三膳、なぜかフォークが一本だけ水に浸かっていた。
ミオはリビングの入り口で立ち止まり、部屋全体を見渡したあと、真剣な顔で言った。
「ここ、魔獣出ない?」
「出るか」
「いや、旧境界地区の空き家って、こういう生活感の乱れから異界化が始まるって聞いたことあるから」
「人の家を災害予備軍みたいに言うな」
「ごめん。災害まではいってない。まだ前兆くらい」
「謝れてないぞ」
亮間はテーブルの上のものを端へ寄せ、ソファにかかったパーカーを拾って洗濯かごの方へ投げたが、うまく入らなかった。ミオはそれを見て、なぜか少し安心したように笑った。
「キミ、喧嘩は強いのに洗濯物は倒せないんだね」
「洗濯物は殴れないからな」
「殴れば片づくと思ってる?」
「思ってないから困ってる」
ミオはソファの端に座ろうとして、いったん手で座面を押した。埃を確認しているらしい。亮間はその様子を見て、腹が立つより先に少し恥ずかしくなった。
「心配すんな。変なもんはついてねーよ」
「変なものじゃなくて、普通に汚いものを心配してるんだけど」
ミオは座面をもう一度押し、指先についたものを確認するように目を細めた。褐色の指に目に見える埃がついたわけではない。けれど、彼女はまるで危険な術式陣でも見つけたみたいな顔をしていた。
「ダークエルフだからって、暗くて湿った場所なら何でも平気ってわけじゃないからね。ボク、洞窟育ちじゃないし。ちゃんと清潔な布団で寝たいタイプだし」
「要求水準が高いな」
「最低限だよ。あと、床に落ちてるスナック菓子の欠片は魔獣の餌になる」
「ならねえよ」
「なるかもしれないじゃん。界融都市なんだから」
「便利な言葉みたいに界融を使うな」
ミオは真面目な顔でうなずいた。
「つまりボクは、今、未知の室内環境に対して慎重なだけ。これは生存本能で、衛生上清潔かどうかを調べてる段階」
「玄関前でうずくまってたやつが清潔を語るな」
「玄関前は外だから、汚れる前提で心の準備ができてる。室内の汚れは裏切りだよ」
「うるせえ客だな」
「歓迎してないんでしょ?」
「そうだな。なんなら客ですらない」
「じゃあ何?」
「……拾った不審物」
「ボク、もう少し可愛い分類がいい」
ミオは文句を言いながらも、ソファの端へ腰を下ろした。座った途端に身体の力が抜けたらしく、細い肩がほんの少し落ちる。亮間はそれを見て、冗談でごまかせる状態ではないことをあらためて思い知らされた。
「水でいいか」
「炭酸ある?」
「人の家に保護されかけてる立場で注文するな」
「保護って言葉、やっぱり嫌い」
「じゃあ一時置き場」
「雑貨みたいに言わないで」
「玄関前に置かれてたからな」
亮間はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。朝とほとんど同じ中身だった。賞味期限が昨日で切れた惣菜、半分残った炭酸水、透明な持ち帰り容器、母親が買ったらしい低糖質プリン、正体不明の小瓶。かろうじてミネラルウォーターが一本見つかったので取り出し、ついでに炭酸水も持って戻る。
ミオは炭酸水を見ると、分かりやすく目を輝かせた。
「あるじゃん」
「半分飲んだやつだぞ」
「キミが?」
「俺が」
「じゃあ平気」
「何が平気なんだよ」
「知らない大人の飲みかけより、高校生男子の飲みかけの方がまだ安心できる」
「なんだよその理屈」
亮間は新品の水を差し出し、炭酸水は自分の方へ置いた。ミオは少しだけ不満そうに唇を尖らせたものの、ペットボトルの水を受け取ると、小さく「ありがと」と言ってキャップを開けた。ひと口飲むだけのつもりだったのかもしれない。実際には喉が渇いていたのだろう。ミオはしばらく黙って飲み続け、半分ほど減らしたところでようやく息をついた。
「飯は」
「え?」
「食ってんのか」
「食べたよ」
「いつ」
「……昼くらい?」
「何を」
「魔力回復ゼリー」
「それは飯じゃない」
「御影市の高校生はみんな試験前に主食みたいに吸ってるじゃん」
「試験前の高校生を基準にするな」
亮間は冷蔵庫の惣菜を見た。昨日で賞味期限が切れている。自分だけなら気にせず食べるところだが、拾った不審物に出すには少し勇気がいる。棚を開けるとカップ麺が二つ出てきた。しょうゆ味と、竜人監修激辛魔導スパイス味。後者は母親が酔った勢いで買ったまま誰も食べていない危険物だった。
「カップ麺ならあるぞ?」
「食べる」
「即答かよ」
「ボク、深夜のカップ麺には敬意を払うタイプだから」
「今はまだ深夜じゃない」
「心が深夜なら時間は関係ない」
「名言みたいに言うな」
亮間はやかんに水を入れ、コンロにかけた。魔導湯沸かし器はあるにはあるものの、調子が悪く、たまに湯ではなく謎のぬるい蒸気を吐くので信用していない。ミオはキッチンまでついてきて、カウンター越しに部屋の中を眺めていた。
「お母さんは?」
「いない」
「帰ってくるの?」
「知らない」
「知らないって、家族でしょ」
「家族だからって、予定表が共有されるとは限らない」
「ふうん」
ミオはそれ以上聞かなかった。聞かないことにした、という沈黙だった。亮間はその気遣いが少し居心地悪く、戸棚から割り箸を探すふりをした。
「お前の方こそ、家は」
「ない」
「じゃあどこに住んでるんだよ」
「住んでる場所なら、いちおうあるよ」
「あるじゃねえか」
「でも、今夜そこに戻るとたぶん面倒なことになる」
「面倒って」
「公安の人が来るとか、保護局の人が来るとか、昔の知り合いが来るとか。そういう、玄関開けた瞬間に人生が事務手続きになる感じのやつ」
「分かりにくいようで嫌に分かる説明だな」
「でしょ」
ミオは笑ったが、目だけは笑っていなかった。水の入ったペットボトルを両手で包み込み、ラベルの端を親指でいじっている。黒いフードの下から覗く耳の先が、ほんの少しだけ下がっていた。
「実家は」
「あるけど、今は家じゃない」
ミオの指が、ペットボトルのラベルを少しだけへこませた。やかんが小さく音を立て始めた。亮間はカップ麺のふたを半分開け、粉末スープを入れ、片方をミオの前へ置いた。
「しょうゆと激辛、どっち」
「しょうゆ」
「遠慮は」
「今のボクに、激辛を受け止める体力はない」
「判断力は残ってるみたいで安心した」
湯を注ぐと、安っぽいスープの匂いがリビングに広がった。ミオはカップ麺を両手で包むように持ち、ふたの上に箸を置いて、まるで何かの儀式でも見守るように三分を待ち始めた。
「そんな真剣に見るものか?」
「カップ麺は、待ってる時間がいちばん尊いんだよ。食べたら減るから」
「食べる前提のものに何言ってんだ」
「キミは情緒がないね」
「カップ麺に情緒を求める方がおかしいだろ」
三分が経つと、ミオはふたを開け、湯気に顔を近づけた。尖った耳がほんの少し上下する。亮間はその動きが犬か猫みたいだと思い、言ったら怒られそうなので黙っておいた。
ミオは最初のひと口をすすり、目を細めた。
「……うま」
「ただのカップ麺だぞ」
「ただのカップ麺がうまい時ってあるじゃん」
「まあ、あるけど」
「今それ」
あまりにも素直な声だった。亮間は文句を言う気をなくし、自分の激辛の方を恐る恐る食べた。一口目から舌がしびれ、喉の奥が熱くなった。
「辛っ」
「だから言ったのに」
「言ってないだろ」
「言わなくても分かる名前だったよ」
「お前、元気になったら結構うざいな」
「元気じゃなくてもこのくらいは言える」
リビングの空気が、少しだけ緩んだ。玄関前でうずくまっていた少女と、生活感のひどい家に住む問題児の男子高校生が、低いテーブルを挟んでカップ麺を食べている。絵面としてはかなりおかしい。御影市の都市防災上も、青少年健全育成上も、おそらくいくつかの部署が眉をひそめる光景だった。
食べ終わる頃には、ミオの顔色は少しましになっていた。亮間は空になったカップを片づけ、流しに置き、戻ってきたところでミオがソファにもたれたまま目を閉じかけていることに気づいた。
「寝るな」
「寝てない」
「目、半分死んでるぞ」
「ダークエルフは暗所で休眠する文化があって」
「この家のリビングに新しい種族文化を持ち込むな」
「じゃあ眠い」
「最初からそう言え」
ミオは目をこすり、頑張って起きていようとした。亮間は時計を見た。母親が帰ってくるかどうかは分からない。帰ってきた場合、この状況を説明するのはかなり面倒だ。帰ってこない場合も、それはそれで面倒だ。どちらにしても面倒なのだから、もう面倒の種類を選ぶ段階に入っている気がした。
「風呂、使うか」
ミオの目が開いた。
「いいの?」
「玄関前に座ってたやつをそのままソファで寝かせるわけにはいかねーしな」
「心配してくれてるんだ」
「衛生上の問題だ」
「素直じゃないね」
「風呂場は左。タオルは洗面所の棚。勝手に変なもん触るな。あと二階には上がるな」
「キミの部屋、二階?」
「上がるな」
「聞いただけ」
「目が好奇心で光ってる」
「ダークエルフだから暗いところで光るんだよ」
「便利に種族を使うな」
ミオは立ち上がり、少しふらついたものの、今度は壁を使わずに踏みとどまった。リビングを出る前に彼女は振り返り、さっきよりずっと小さな声で言った。
「亮間」
「名前で呼ぶなって言ったろ」
「じゃあ、川澄」
「それも腹立つって言った」
「じゃあ、キミ」
「なんだよ」
「……ありがと」
亮間は、返事に困った。軽口で返せば済むはずなのに、その一言だけは雑に扱いにくかった。ミオもそれ以上は言わず、逃げるように洗面所へ向かった。
亮間はリビングに一人残り、テーブルの上に置いたままのボタンを見た。返してもらった、元の制服のボタン。家庭科室で付けた色違いの代わりに、明日これを縫い直せば、少なくとも倉橋には一つ文句を減らせるかもしれない。
そのとき、洗面所の方からミオの声が飛んできた。
「ねえ、この洗濯機の上にある黒いやつ、触ったら爆発する?」
「しねえよ。それは母親のヘアアイロンだ」
「じゃあ、この魔導石みたいな瓶は?」
「化粧水」
「人間の家、トラップ多くない?」
「お前が知らなすぎるんだよ」
「あとタオル、どれ使っていいの?」
「棚の白いやつ」
「白いの三種類ある」
「一番ましな白」
「その基準やめて!」
亮間は頭を抱えた。
家に入れた時点で分かっていたことではある。いや、分かっていたつもりで、全然分かっていなかった。ダークエルフの少女を拾うというのは、玄関を開けて水とカップ麺を出せば終わる話ではない。風呂場の説明も、タオルの区別も、リビングの片づけも、母親が帰ってきた場合の言い訳も、全部まとめて降ってくる。
それでも、玄関の外でうずくまっていた彼女を思い出すと、やはり追い出す選択肢はどこかへ消えていた。
亮間は大きく息を吐き、洗面所の方へ声を返した。
「一番ふわふわしてるやつ使え!」
「ふわふわしてるの、たぶんキミのじゃない?」
「じゃあ二番目!」
「二番目、ちょっと湿ってる!」
「それは使うな!」
川澄家の夜は、いつもよりずっと騒がしかった。
そして亮間は、今さらになってようやく、自分がとんでもなく面倒なものを家に入れてしまったことを理解し始めていた。




