第3話 釈然としない放課後
◇
川澄亮間の一日は、だいたい朝から少しだけ間違っている。
目覚ましは七時に鳴るよう設定しているのに、実際に目を開けるのは七時三十八分で、洗面所へ向かう途中の廊下には母親が昨日の夜に脱ぎ捨てたらしいヒールが片方だけ転がり、キッチンのテーブルには空になった缶チューハイと、誰かが吸った煙草の箱と、コンビニのレシートが置きっぱなしになっている。母親の姿はなかった。寝室の扉は半分開いていたが中を覗く気にはならず、代わりに亮間はキッチンへ戻った。
こういう時、寝室を覗いたところで良いものが見つかった試しはない。まだ眠っている母親か、眠っていない母親か、あるいは昨日ここにいた誰かの気配か。どれにしたって朝の七時三十八分に相手をするには少しばかり重すぎる。だから亮間は、テーブルの上の缶チューハイを指先で横へ押しやり、レシートの下敷きになっていた冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
中にあったのは、賞味期限が昨日で切れた惣菜と半分だけ残った炭酸水と、どこかの店の持ち帰りらしい透明な容器だった。朝飯と呼べるものは見つからず、亮間は少し考えてから炭酸水を直接飲み、喉の奥に冷たい刺激が落ちるのを感じながらこれで腹の中に何か入ったことにしておいた。
制服に袖を通そうとして、胸元のボタンがひとつないことを思い出す。
黒羽横丁で酔っ払いを殴った夜から、二日が経っていた。なくなったボタンは、たぶん横丁の排水溝のどこかに落ちている。亮間はクローゼットの奥から安全ピンを取り出し、胸元の布を雑に留めた。遠目にはわからないだろうが、近くで見ればすぐにわかる。つまり教師には見つかり、生徒には笑われるくらいの応急処置だった。
まあ、今さらだ。
そう思いながらネクタイを引っかけ、洗面所へ戻る。
鏡の中の自分は、いつも通り目つきが悪かった。寝不足でさらに悪く、頬の赤みは薄くなっている。拳の絆創膏は貼り替えていないせいで端がめくれている。教師が見れば眉をひそめ、不良が見れば勝手に仲間か敵かを判断し、普通の生徒が見れば少し距離を取る、そんな顔だった。
「……別に、こっちが好きでこうなってるわけじゃねえんだけどな」
誰もいない部屋で呟いた声は、驚くほど情けなく響いた。
家を出ると、星屑ヶ丘住宅街の朝は妙に平和だった。隣の家の獣人の母親が子どもの尻尾にリボンを結び直しており、向かいの竜人混血の会社員が翼を畳みながら自転車に乗ろうとして苦戦しており、ゴミ捨て場の横では自治会の老人が「可燃ごみに界材混入禁止」と書かれた新しい貼り紙をまっすぐに直している。百年以上前に地球と異世界がうっかり混ざったところで、朝の住宅街がやることはあまり変わらない。子どもは学校へ行き、大人は仕事へ行き、自治会はゴミ出しのルールに命を懸ける。
駅前通りには魔導バスの停留所に学生たちが並んでいた。人間、獣人、角つき、長耳。眠そうな顔でスマホを見ている限り、種族が違っても朝のだるさは共通らしい。亮間はその列を横目に見ながら、徒歩で学校へ向かう。定期代を浮かせたいわけではない。浮かせたところで浮いた金が自分の財布に残るとは限らないから、単に歩くほうが考えなくて済むだけだ。
御影南高校に着くと、校門前の界素検知ゲートがいつもより長めに光った。
『未申請術式反応なし。携帯魔導具反応なし。右拳部、軽度炎症反応継続。保健室利用を推奨します。制服前面、規定備品欠損を確認』
「そこまで見るなよ」
「機械の方が俺より仕事熱心で助かる」
倉橋が脇から現れ、亮間の胸元を見下ろした。逃げる間もなかった。
「川澄、ボタンはどうした」
「旅に出ました」
「呼び戻せ」
「たぶん遠いところに」
「購買で予備を買って昼休みに縫え。縫えないなら家庭科室で針を借りて誰かに教わる。高校二年生にもなってボタンひとつ付けられないという顔をするな」
「してないっす」
「している。あと昨日の生活指導記録、まだ反省文が出ていない」
「昨日は忙しかったんで」
「お前の忙しさは、だいたい反省文を増やす方向に働いている」
倉橋の言葉は正論だった。正論というものは、言われた側に逃げ場を与えないから嫌いだ。
校門のやり取りは周囲の生徒にとっていつもの朝の風景らしく、誰かが小さく笑った。亮間は笑われたことに腹を立てるほど子どもではないつもりで、腹の奥に細く刺さるものを無視できるほど大人でもなかった。自分が問題児扱いされているのは分かっている。喧嘩をすれば教師は怒るし、服装が乱れていれば指導されるし、成績が悪ければ進路面談で渋い顔をされる。全部、理屈としては正しい。正しいことを言われ続けるほど、自分の中で何かが少しずつ薄く削れていく感じがした。
二年三組の教室に入ると、祐介が机に突っ伏したまま片手を上げた。
「おはよう、御影南高校の拳」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ御影南高校のヤンキー」
「もっとやめろ」
祐介は起き上がり、亮間の胸元を見て笑った。笑ったあとで、自分のバッグから小さな裁縫セットを取り出す。
「ほら、貸してやるよ」
「なんで持ってんだよ」
「うちの妹が家庭科で余ったやつを入れっぱなしにしてたんだ。別にお前がボタンを失くす未来を予知していたわけじゃないぞ?そこまでお前に人生割いてないからな」
「誰が付けるんだよ」
「自分で付けろ。針に糸通すところから人生を学べ」
亮間は裁縫セットを受け取り、机の上に置いた。中には針と糸と小さなボタンがいくつか入っている。制服のものとは微妙に色が違う。付けたところで倉橋にはばれるだけだが、付けないよりはましという程度だった。
白井郁が、隣の席から端末を覗き込みながら言った。
「川澄くん、黒羽横丁の件、ニュースになってなくてよかったね」
「酔っ払い殴ったくらいでニュースになるかよ」
「殴ったことより、その近くでまた違法界材の摘発があったらしいよ。黒羽の裏手にある小口配送の中継倉庫、魔対課が入ったって」
亮間は針を指先で摘んだまま、少しだけ動きを止めた。
「魔対課って、魔獣とか異界化のやつだろ」
「公安境界災害対策局・魔獣事案対処課。正式名称長すぎるから、みんな魔対課って呼ぶやつ。昨日の夜から旧境界環地区周辺で車両が多いって投稿が増えてるし、廃ビル地下の異界化事故と関係あるんじゃないかって噂」
「お前、朝からよくそんなもん見てんな」
「ニュースと噂と校則違反者の観察は、学園生活を豊かにする三大要素だから」
「最後のやつが妙に引っかかるな?」
白井は悪びれもせず、紙パックのカフェオレを吸った。
違法界材の摘発。小口配送。黒羽横丁。亮間の頭の中に、あの少女が持っていた小さな耐界ケースが浮かんだ。ケースの表面に走っていた薄い術式紋、持ち手を握る指の力、荷物について少し触れたときの警戒した目。関係ない。自分には関係ない。そう思うには、偶然が少しだけ近すぎた。
それでも、亮間にできることは何もなかった。
一限の術式安全基礎では、教師が界材管理法の基本について説明した。強い界素を含む素材は保管基準、輸送許可、管理記録が必要であり、未成年が非認可の界材を所持した場合は保護対象であると同時に事情聴取の対象にもなる、という話だった。亮間はノートを取るふりをしながら、窓の外を見ていた。校庭の隅にある銀杏の葉が、風に揺れている。ゲートの向こうを、公安車両らしい黒いワゴンが一台、月森台の坂を下っていった。
昼休みには、購買のパンが売り切れていた。祐介は最後のカレーパンを手に入れた勝者の顔をしており、亮間は自販機の栄養ゼリーを握って負けた顔をしていた。
「お前さ、今日ずっと変じゃね?」
「いつも通りだろ」
「いつもより眉間が険しい。あと針を三回指に刺してる。ボタン付け向いてないんじゃねえの」
「人生に必要な技術じゃねえ」
「先生に必要だって言われただろ」
「先生は俺の人生を知らない」
「お前もだいぶ知らないと思うぞ、自分の人生」
祐介の言葉は軽かった。軽いから、時々変なところに刺さる。亮間は栄養ゼリーを吸い込みながら、家庭科室で適当に付けたボタンを見下ろした。色が微妙に違う上に、少し斜めについている。自分で見ても雑だった。
亮間の人生は、何かを丁寧に直すより、壊れたまま着て歩く方に慣れていた。母親との距離も、学校での評判も、拳を握る癖も、全部そうだった。どこかで一度ほどけたものを、正しい場所へ戻す方法が分からない。分からないまま、見た目だけ取り繕って、先生に見つかれば怒られ、友人に笑われ、家に帰れば誰も気にしない。
釈然としない、という言葉がある。
亮間の日常は、だいたいいつもそれだった。ものすごく不幸というわけではない。明日食べるものが完全にないわけでも、学校に行けないわけでも、誰からも名前を呼ばれないわけでもない。祐介はうるさいし、白井は余計なことまで観察してくるし、倉橋は面倒なくらい見ている。家に帰れば電気はつく。風呂も使える。布団もある。足りないものは形がはっきりしないから、何が不満なのか自分でもうまく説明できない。
家庭にも学校にも居場所がない、などと言えば大げさに聞こえる。実際、亮間の席は教室にあるし、家には自分の部屋がある。居場所と呼ばれるものが、物理的な面積だけで決まるなら、彼は十分に持っている側だった。中に座ったときに息が詰まるかどうかまで数えるなら、話は少し変わる。
放課後、亮間は倉橋に反省文を提出した。内容は「今後は冷静に行動します」という、本人も教師もあまり信じていない一文で締めくくられていた。倉橋はそれを読み、赤ペンで誤字を直してからため息をつく。
「川澄、お前は自分が思っているより目立つ。問題を起こせば、お前だけでは済まないことがある」
「分かってます」
「分かっている顔には見えん」
「顔は生まれつきです」
「そこまで含めて損をしていると言っている」
亮間は返す言葉をなくした。倉橋は怒鳴らなかった。怒鳴らない説教の方が面倒なときもある。
「最近、黒羽横丁周辺で魔対課が動いている。旧境界環地区では異界化反応も出ている。お前の腕っぷしでどうにかなることばかりではない。放課後は寄り道せず帰れ」
「はい」
亮間は返事だけをして生活指導室を出た。
廊下の窓から見える空は、まだ明るかった。秋の夕方は短い。少しぼんやりしているだけで、街灯がつき、商店街の看板が光り、学校帰りの生徒たちはそれぞれの家や塾やバイト先へ散っていく。亮間は下駄箱で靴を履き替えながら、今日は本当にまっすぐ帰るつもりでいた。黒羽横丁には行かない。揚げ肉屋にも行かない。銀髪のダークエルフのことも考えない。
校門を出たところで、その計画はあっさり崩れた。
御影南高校の正門から少し離れた街路樹の下に、黒いパーカーの少女が立っていた。フードは深く被っているものの、銀色の髪が横からこぼれ、長い耳の先が布の下でわずかに形を作っている。彼女は学校の敷地に入るでもなく、通行人に紛れるでもなく、誰かを待っていることが分かる立ち方でそこにいた。
あの“ダークエルフ”だった。
亮間は足を止めた。隣にいた祐介も足を止め、亮間の顔と少女の顔を交互に見て、ものすごく面倒なものを見つけた人間の表情になる。
「……あれ、彼女って…」
「…」
ミオは、こちらに気づくと、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。数日前の黒羽横丁で見たときより、顔色が悪い。目の下に薄い影があり、パーカーの袖口を握る指が落ち着きなく動いている。あのとき持っていた耐界ケースは見当たらない。代わりに、胸元のポケットを片手で押さえている。
亮間は、祐介に「先帰れ」と言おうとして、祐介がすでに半歩後ろへ下がっていることに気づいた。
「俺、空気読める男だから駅前で待ってる。五分で戻ってこなかったら、十七分くらい待ってから帰る」
「待つ気ないだろ」
「事件の匂いがする場所に長居しないのが、俺の長所なんだよ」
祐介はそう言って、こちらを何度か振り返りながら駅の方へ歩いていった。薄情というより、正しい判断だった。亮間は小さく息を吐き、街路樹の下に立つ少女へ近づいた。
ミオは逃げなかった。逃げない代わりに、こちらをまっすぐ見ることもしなかった。視線は亮間の胸元で止まり、微妙に色の違う新しいボタンを見つけたらしく、少しだけ気まずそうな顔になる。
「……付けたんだ」
「何を」
「ボタン」
「お前が拾ったのか」
ミオは答えず、パーカーのポケットから小さな金属の丸いものを取り出した。御影南高校の校章が刻まれた、亮間の学生服のボタンだった。黒羽横丁の夜に落としたものが、彼女の手のひらに乗っている。その小ささに、亮間は妙な気分になった。なくしたものが、思っていたより近くに残っていたという感覚だった。
「返しに来た」
「わざわざ学校まで?」
「校章があったから。御影南って分かったし」
「普通、落とし物ひとつで高校まで来るか?」
「普通じゃないから来たんだよ」
ミオの声は軽く聞こえた。軽く聞こえるように作っている声だった。亮間は、そのことに気づいてしまった。
「……何してんだ、お前」
問いかけると、ミオはボタンを握り込んだまま、ほんの一瞬だけ口を閉じた。答える言葉を探しているのではなく、どこまで嘘を混ぜるか考えているように見えた。
「キミに会いに来た、って言ったら?」
「不審者」
「ひどいな。ボク、けっこう勇気出してるんだけど」
「勇気の使い方を間違えてる」
「じゃあ、ボタンを返しに来た」
「それは今聞いた」
「ついでに、ちょっと話がある」
風が吹き、街路樹の葉がざわりと鳴った。校門からは部活へ向かう生徒たちの声が聞こえ、界素検知ゲートが誰かの通過に反応して青白く光っている。亮間の日常は、いつも通り釈然としない形で続いているはずだった。ボタンの色が少し違う制服を着て、反省文を出し、家に帰って、冷蔵庫の中身に文句を言うだけの放課後になるはずだった。
その日常の出口に、黒いパーカーを着たダークエルフの少女が立っている。
ミオはボタンを亮間へ差し出し、強がったように笑った。
「ねえ、ちょっとだけ時間くれない?」




