第1話 御影市の日常は、少しだけ面倒くさい
川澄亮間が通う御影南高校の校門前には、毎朝七時五十分になると、生活指導の教師が三人、警備員が二人、魔導式の界素検知ゲートが一基、ついでに遅刻寸前の生徒を精神的に追い詰めるためだけに存在しているような大型時計が並ぶ。
普通の学校と違うところがあるとすれば、校門の横に人間用の通路とは別に、角のある鬼人や、翼を畳みにくい竜人混血や、尻尾の太い獣人のための広幅ゲートが設置されていることくらいで、普通の学校と同じところがあるとすれば、どれだけ世界が異世界と融合しようが、朝のホームルームに遅れれば普通に怒られるという点だった。
「川澄、ネクタイ」
校門の前に立っていた生活指導の倉橋が、目だけで亮間の胸元を指した。
「してますけど」
「結んでいるとは言わん。首に布を引っかけているだけだ」
「暑いんすよ」
「十一月だ」
「心が」
「面白くないうえに服装違反だ。直せ」
亮間は舌打ちを飲み込み、ゆるんだネクタイを片手で引き上げた。制服のシャツは昨日の喧嘩で少し伸びており、右手の拳には絆創膏が二枚、左頬には殴られた痕を隠しきれない薄い赤みが残っている。倉橋はその顔を見て深くため息をついたものの、朝から校門前で説教を始めるほど暇ではないらしく、界素検知ゲートへ向かうよう顎をしゃくった。
御影南高校は、御影市月森台にある普通科高校である。普通科といっても、百年以上前に起きた《大界融災変》以降、この国で本当に普通だけを教える学校はほとんどなくなっている。数学、現代文、英語、日本史に混じって、術式安全基礎、異種族共生学、界素災害避難訓練、未成年能力者倫理などの授業が並び、体育祭では人間と獣人の短距離走を同じ基準で採点するかどうかで毎年揉め、文化祭では調理部が精霊族向けの香草菓子を焦がして小さな結界事故を起こす。
地球と、隣界アルヴェリア。
本来なら交わるはずのない二つの世界が、百年以上前にうっかり重なった。歴史の教科書には、そう書かれていない。正式には《大界融災変》という堅苦しい名前がついており、当時の都市の一部が森に変わったこと、海上に浮遊大陸が現れたこと、空に見知らぬ月がうっすら重なって見えたこと、人間以外の知的種族が地球側へ流入したこと、地球人の中にも魔力や異能を発現する者が出たことが、写真と年表と眠くなる注釈つきで載っている。
もっとも、亮間たちの世代にとって、それは遠い昔の災害というより、最初からそういうものとして存在している少し面倒な日常だった。駅には角や尻尾を挟まないための広幅改札があり、コンビニには魔力回復ゼリーと人間用エナジードリンクが同じ棚に並び、病院には内科や外科のほかに魔力循環科と呪症外来があり、市街地で攻撃術式を使えば無免許運転と傷害未遂を足して二で割らないくらい面倒な扱いになる。
つまり、魔法があるからといって宿題が消えるわけではなく、異能があるからといってバイト代が増えるわけでもなく、エルフが電車に乗っているからといって満員電車の不快さが薄まるわけでもない。
亮間は検知ゲートをくぐった。青白い光が足元から頭の上まで走り、機械音声が無感情に告げる。
『未申請術式反応なし。携帯魔導具反応なし。右拳部、軽度炎症反応。保健室利用を推奨します』
「余計なお世話だよ」
「機械に悪態をつくな、川澄」
倉橋の声を背中で聞きながら、亮間は校舎へ向かった。
彼は御影南高校二年三組の生徒で、成績は下から数えた方が早く、遅刻回数は担任の頭痛の種で、喧嘩の強さだけなら近隣校の不良の間でもそれなりに名前が通っている。もっとも、本人はチームを作って街を仕切りたいわけでも、弱い相手を囲んで威張りたいわけでもない。売られた喧嘩を買い、通りがかった面倒ごとに余計な首を突っ込み、気づけば先生と警備員と母親の誰かに怒られているというだけで、本人に言わせれば運が悪いということになる。
教室に入ると、窓際の席に座っていた友人の榊祐介が、亮間の顔を見るなり机に突っ伏した。
「お前、その頬どうしたんだよ。昨日は早く帰るって言ってただろ」
「帰る途中で絡まれた」
「誰に」
「知らん。青陵のやつら」
「知らんやつに殴られて、知らんやつを殴り返して、知らんうちに学校中で噂になる男、川澄亮間」
「詩みたいに言うな」
祐介は背が高く、髪を軽く染め、見た目だけなら亮間と同じ種類の問題児に見える。中身は意外と小心者で、喧嘩の気配を察すると誰より早く距離を取るくせに、なぜか亮間のそばには残る妙な男だった。反対側の席では、白井郁という人間とエルフの混血の女子が、朝から端末で魔導ニュースを流しながらパンをかじっている。
「川澄くん、今日の一限、術式安全基礎の小テストだよ」
「聞いてない」
「昨日の帰りに先生が三回言ってた」
「俺は帰ってた」
「だから聞いてないんだね」
白井は涼しい顔で頷いた。尖った耳の先に小さな銀のイヤーカフをつけ、長い白髪を校則ぎりぎりの位置で結んでいる彼女は、見た目だけなら絵画に描かれた森の姫君みたいな雰囲気をしている。口を開くと、だいたい身も蓋もない。
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。朝のホームルームでは、旧境界環地区で小規模な異界化反応が確認されたため、放課後に不要な寄り道をしないこと、黒羽横丁方面では無許可の魔導薬物らしきものが出回っていること、未成年が興味本位で界材に触れた場合は停学だけでは済まないことが告げられた。
教室の中で、誰かが小さく「またかよ」と呟いた。
御影市は、日本でも有数の境界共生指定都市である。表向きは学生と研究施設の多い地方都市で、駅前には大型商業施設があり、川沿いには遊歩道があり、住宅街には普通に回覧板が回ってくる。少し奥へ入ると、異世界側の地形や魔力が濃く残った境界域が点在し、旧境界環地区の路地では地球の建築基準法とアルヴェリアの石造文化が途中で喧嘩をやめたような建物が並び、空き地の隅には見たことのない花が季節を無視して咲いている。
その便利さと危うさは、同じ根から生えていた。魔導工学の研究所があるから街は潤い、隣界種向けの店があるから夜は賑わい、界材が流通するから医療も建築も交通も発展する。管理の外へ漏れた界材は、異界化や魔獣発生の火種になる。廃ビルの地下が森に変わったり、商店街の倉庫の奥に存在しないはずの空間が開いたり、住宅街の空き家の部屋数が勝手に増えたりするような出来事は、ニュースの見出しになるくらいには重大で、御影市民が驚いて一日中その話だけをするほど珍しくはなかった。
昼休みになると、祐介が購買で買った焼きそばパンを片手に、亮間の机へ寄ってきた。
「なあ、今日の放課後、黒羽横丁行かねえ?」
「行かない」
「返事早すぎだろ。新しくできた竜人系の揚げ肉屋、五時から学生割引なんだよ。骨付きのやつ、手のひらくらいあるらしいぞ」
「金ない」
「俺もない」
「終わりだろ」
「見るだけなら無料」
「腹減るだけだろ」
亮間はコンビニで買った安いおにぎりを食べながら、窓の外を見た。月森台の校舎からは、御影中央区のビル群と、その奥にある旧境界環地区の不揃いな屋根が見える。昼の光の下では、どちらも普通の街に見える。夜になれば、黒羽横丁の看板がぎらぎら光り、路地の奥には地球のものではない香辛料の匂いが流れ、駅前の大通りから一本外れただけで、教師が言うところの「不要な寄り道」に分類される景色へ変わる。
「川澄くんは、夜の街似合いそうだよね」
白井が、紙パックのカフェオレを飲みながら言った。
「褒めてんのか」
「半分くらい」
「残り半分は」
「生活指導の先生が聞いたら泣きそう、っていう感想」
祐介が笑い、亮間はおにぎりの最後のひと口を押し込んだ。夜の街が似合うと言われても、別に嬉しくはない。家に帰っても、母親がいるとは限らない。いても、知らない男の靴が玄関に並んでいることがある。キッチンには飲みかけの缶チューハイが転がり、冷蔵庫には賞味期限の怪しい惣菜が残され、リビングのソファには誰のものか分からない上着がかかっている。そんな家より、騒がしくて、危なくて、警備員の目が光っていても、黒羽横丁の方がまだ息苦しくない夜もあった。
放課後、亮間は担任に呼び止められた。
「川澄、昨日の件で生活指導室だ」
「昨日のどれですか」
「その質問が出る時点で問題だと思わないか」
生活指導室では、昨日の青陵高校の生徒との喧嘩について、三十分ほど説教を受けた。亮間は相手が先に手を出したことを説明したものの、教師の顔には「だからといって殴り返していいわけではない」という教科書通りの正論が最初から貼りついていた。亮間も、正論としては分かっている。分かっていても、自分を守るために拳を握ってきた時間の方がずっと長く、急にそれを捨てて大人しく殴られる側になれるほど、できた人間ではなかった。
校舎を出る頃には、空が少し赤くなっていた。校門前で待っていた祐介が、端末を片手に手を振る。
「遅えよ。先生、なんて?」
「殴るなって」
「小学生でも分かる助言だな」
「分かることとできることは違う」
「それを胸張って言うな」
二人は駅前へ向かって歩き出した。途中で白井も合流し、三人で御影中央区のアーケードを抜ける。通りには、制服姿の人間の高校生、角にカバーをつけた鬼人の中学生、背中の翼を小さく畳んだ竜人混血の会社員、耳を動かしながら焼き鳥を選ぶ獣人の親子がいた。路面を低空で滑る小型魔導配送車が、歩行者に向けて「進路を譲ってください」と妙に丁寧な合成音声を流し、コンビニの前では新発売の魔力回復ゼリーが山のように積まれている。
百年以上前の人間がこの光景を見たら、きっと腰を抜かすのだろう。亮間にとっては、いつもの帰り道でしかない。
白井は途中の駅で別れ、祐介はまだ揚げ肉屋を諦めていなかった。
「見るだけ。ほんと見るだけだから」
「お前の見るだけはだいたい買うまで含む」
「一口くらいなら奢る」
「一口のために黒羽まで行くのかよ」
「一口のために人生を賭ける日があってもいいだろ」
「ない」
言い合いながら歩いているうちに、二人は御影中央区の明るい通りから、黒羽横丁へ続く細い道へ入っていた。夕方と夜の境目にあるその道は、昼間の学校とはまるで違う顔をしている。看板に灯が入り始め、香辛料と油と甘い煙草の匂いが混じり、店の奥から笑い声や異国の歌が漏れ、上空を通る浮遊便の影がビルの壁をゆっくり横切る。
亮間は、ふと足を止めた。
理由を言葉にする前に、祐介が半歩先で振り返る。
「どうした?」
「いや」
路地の向こうに、黒いパーカーを着た少女の背中が見えた。銀色の髪を雑に結び、フードの端から尖った耳をのぞかせ、片手には小さなケースを提げている。ダークエルフだろうか、と亮間は思った。御影市では珍しすぎる存在ではないものの、夜の繁華街で一人歩きする高校生くらいのダークエルフの少女は、普通というには少しだけ危うく見えた。
その少女の後ろから、酒に濡れた男の声が飛んだ。
「おい、そこの長耳ちゃん」
亮間は眉をひそめた。祐介が、小さく「あー……」と嫌な予感をそのまま音にした。
黒羽横丁の看板が、青と紫の光を路面に落としている。少女は振り向かない。男は笑いながら距離を詰める。亮間の足は、考えるより先に、一歩だけ前へ出ていた。




