プロローグ
御影市では、夜になると影が少しだけ濃くなる。
それは詩的な言い回しではなく、旧境界環地区に残る界素の濃度や、古びた魔導街灯の照度不足や、ダークエルフの瞳が人間よりも暗がりの輪郭を拾いやすいことなど、いくつかの理由で説明できる現象だった。もっとも、ミオにとっては、そんな理屈のひとつひとつに名前をつけることより、昼間よりもずっと息がしやすいという事実の方が大事だった。
夜の街には、制服を正しく着ろとうるさく言う教師も、将来は集落のためにこうあるべきだと決めつける年寄りも、家出した娘を連れ戻すために差し向けられる親族もいない。黒羽横丁の看板は青や紫や毒々しい桃色に光り、人間用の居酒屋、獣人向けの串焼き屋、竜人でも背を丸めずに座れる天井の高いバー、エルフ系の香草茶を出す喫茶店、表通りには大きな看板を出さないいくつかの店が、御影市の夜にしかない温度で息をしていた。
その一角を、ミオは小さな耐界ケースを片手に提げて歩いていた。銀色の髪は雑に結び、黒いパーカーのフードを深く被っている。尖った耳は隠しきれていないものの、この街で長耳がひとり歩いていたところで、誰かがわざわざ振り返るほど珍しい光景ではない。問題があるとすれば、彼女がどう見ても高校生くらいにしか見えないことで、実際に戸籍上もそのあたりの年齢として登録されている以上、そこだけは本人にもどうしようもなかった。
「……今回、やけに軽いな」
ケースを少し持ち上げたミオは、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。中身は知らされていない。知る必要もないと言われている。仕事用アプリに表示されているのは、受け渡し場所、時間、報酬、それから遅延時のペナルティだけ。御影夜間小口搬送組合という名前は、表向きには繁華街の飲食店や隣界種向けの薬局、境界地区の個人商店を相手にした夜間配送業者で、実際にまともな荷物も運んでいる。ミオが何度か届けたことのある荷物の中には、魔導照明の交換部品や、獣人用の外傷薬や、鬼人向けの大型作業手袋なんかもあった。
それだけではないことくらい、ミオにも分かっていた。
許可のない界材、未認可の魔導薬、出どころを聞かない方がいい魔獣由来素材。荷物を受け取る相手は決まって顔を隠しており、端末に残る配送履歴は翌朝には妙にきれいに整理され、報酬だけは笑ってしまうほど早く振り込まれる。まともな仕事ではない。安全な仕事でもない。そんなことは、初めてケースを持たされた夜から気づいていた。
気づいたからといって、明日から急に昼の世界で暮らせるわけでもなかった。ダークエルフの集落を飛び出してきた少女に、保証人はいない。身分証は古いまま。種族登録の更新も中途半端。学校の在籍証明は宙に浮き、正規の賃貸契約など夢のまた夢で、集落に戻れば自由という言葉は最初の三日で没収されるに決まっている。夜の街で働く女たちが使う社宅の一室、その隅に敷かせてもらっている布団一枚分の居場所を守るために、コンビニのカップ麺と安い炭酸を買うために、明日も自分の足でどこかへ行けると思うために、ミオは今夜も黒羽横丁を歩いている。
「ボク、何してんだろ」
口に出してみると、思っていたより情けない声になった。
「おい、そこの長耳ちゃん」
背中に、酒の匂いをまとった声がぶつかった。ミオは振り向かなかった。こういう声は、振り向いた時点で相手に何かを許したことになる場合がある。
「聞こえてんだろ? なあ、どこの店の子?」
「違う」
「違うってことないだろ。その格好でこの辺歩いててさあ」
声の主は中年の男だった。赤い顔、大きい声、足元のわずかなふらつき、こちらの事情を考えるつもりが最初からない目。夜の街には珍しくもない種類の人間で、珍しくないからこそ、面倒だった。
「ボク、仕事中だから」
「仕事? じゃあ客を大事にしなきゃなあ」
「客じゃないし」
「可愛くないなあ。ダークエルフってもっとこう、色っぽいもんじゃないの?」
ミオの足元で影がわずかに揺れた。本気で術式を使えば、酔った男の足を縫い止めるくらい簡単だった。壁に叩きつけずとも、転ばせて、黙らせて、二度と自分に絡もうと思わない程度の恐怖を与える方法はいくつもある。街灯の下でそれをやれば界素監視カメラに反応が残り、警備が来て、端末を確認され、耐界ケースのことを聞かれる。強いことと、今ここで暴れていいことは、まったく別の話だった。
ミオは、できるだけ軽く笑ってみせた。
「悪いけど、ボク、そういうの向いてないから」
「へえ。じゃあ何に向いてるんだよ」
男の手が、ミオの肩に伸びる。
「やめとけよ」
横合いから入ってきた低い声に、男の指先が止まった。ミオが顔を上げると、そこには学生服をだらしなく着た少年が立っていた。黒髪に鋭い目つき、緩んだネクタイ、頬に貼られた小さな絆創膏。教師が見れば間違いなく眉間を押さえる顔で、通りの警備員が見れば少しだけ歩幅を変える種類の高校生だった。背後には同じような雰囲気の男子が二人いたけれど、前に出てきたその少年だけは、誰かを威圧して楽しんでいるというより、見たくないものを見つけてしまった人間の顔をしていた。
「なんだ、お前」
男が振り向く。少年は面倒くさそうに頭をかいた。
「そいつ、嫌がってんだろ」
「関係ねえだろ、ガキ」
「関係ないな」
少年はあっさり認め、それから一歩だけ近づいた。
「でも、見えちまったからな」
男が怒鳴りながら腕を振り上げた。少年は避けるために大きく動いたようには見えなかった。半身をずらし、踏み込み、拳をまっすぐ男の顎へ当てる。派手な術式も、魔導具も、異能の光もない。ただの拳。ただの喧嘩。それなのに、男は糸を切られた人形のように膝から崩れ、黒羽横丁の濡れた路面に尻をついた。
「……うわ。亮間、お前またやった」
「向こうが先だろ」
「そういう問題じゃねえんだよ。警備来る前に離れようぜ、マジで」
亮間、と呼ばれた少年は、倒れた男が呻いているのを一瞥してから、ミオに視線を向けた。
「怪我は」
「ない」
「なら帰れ。こんな時間にうろつくな」
助けた相手にかける言葉としては、控えめに言ってもかなり雑だった。絵本に出てくる王子様ならもう少し気の利いたことを言うだろうし、集落の大人なら説教を三倍に薄めたような言葉を並べるところだ。目の前の少年は、そのどちらでもなかった。
「キミに言われる筋合いないんだけど」
「あるだろ。絡まれてたし」
「別に困ってなかった」
「嘘つけ」
あまりにも迷いのない即答に、ミオは言葉を失った。亮間も、それ以上なにかを聞こうとはしなかった。夜の看板の低い振動音と、どこかの店から漏れる笑い声が、二人の間に数秒だけ流れた。
「行くぞ」
亮間が背を向けると、友人たちは慌ててその後を追った。ミオは、三人の背中が人混みに紛れていくのを黙って見送った。正義の味方という感じではない。優しい王子様でもない。見た目だけなら、どう考えても不良で、たぶん学校では先生に目をつけられ、警備員には余計な心配をされ、親にはため息をつかれる側の人間だ。
足元に、小さなものが落ちていた。
拾い上げてみると、学生服のボタンだった。さっきの揉み合いでちぎれたらしい。表面には御影市内の高校の校章が刻まれている。
「御影南高校……?」
ミオは目を細めた。御影市にある普通科高校。人間も、隣界種も、混血者も通っている、いわゆる昼の世界の学校。喧嘩っ早くて目つきが悪くて、どう見てもまっとうな優等生ではない少年でさえ、制服を着て、名前を呼ぶ友人がいて、帰る場所かどうかはともかく明日も行く場所がある。
それが少しだけ、眩しかった。
「……別に、会いに行くとか、そういうんじゃないし」
ミオは誰に聞かせるでもない言い訳を口にして、ボタンをパーカーのポケットにしまった。その夜、彼女は予定通りに耐界ケースを届けた。受け渡し相手は顔の見えない男で、報酬は即日で振り込まれ、仕事用アプリには何事もなかったかのように次の依頼が表示された。
数日後、御影市内で最初の大きな異界化事故が起きた。廃ビルの地下が森になり、壁面が樹皮のように変質し、そこから影虫型の魔獣が発生した。公安境界災害対策局・魔獣事案対処課、通称・魔対課が動き、現場から偽装された境界小口管理票が見つかり、印字パターンと界素残留反応が、いくつかの配送記録と結びつけられた。御影夜間小口搬送組合という名前が、公安の捜査線上に浮かび上がるまで、そう時間はかからなかった。
もちろんその時点で、ミオはまだ何も知らなかった。自分が運んでいた小さなケースの中身がどれほど危険なものだったのか、自分の名前が配送履歴の中に残っていること、もうすぐ社宅にも、組織にも、集落にも戻れなくなること、そのすべてを知らないまま、彼女は夜の街を歩き続けていた。
ポケットの中には、一個のボタンがある。
ただの落とし物だった。安っぽい学生服の、どこにでもあるボタンだった。
それでも後になって思えば、ミオ・ヴェルノワールが川澄亮間の家に転がり込むまでの全部は、たぶんその小さなボタンから始まっていた。




