8. 昼
七月二十三日、木曜。その夜の窓は、二時半まで平和だった。
二時三十三分、二時三十三分。
〈ささめ: 第七環の一六側、細い道の網で、はぐれました。電池、一割ちょっとです〉
「毛細――主廊と環廊のあいだの細道の網ですね。まず、遭難を宣言してください」
〈ささめ: 宣言します。遭難しました〉
短冊に、ささめ、第七環一六側、電池一割、二時三十五分。『ともしび』は締める。
「電池の使い道は、私に預けてください。見えているものを三つ。動かないもの、文字、音の順で」
〈ささめ: 壁は乾いた岩だけ。文字はなし。棚も配管もない。音は弱い風だけ。水音なし〉
答えは完璧で、そして使えない。特徴のなさには、印の打ちようがない。
〈宿六: 一六の奥は蜘蛛の巣じゃ。わしの歩き覚えも効かん〉
電池一割の命を、出典のない方角へ歩かせるのか。着陸は燃料のあるうちに限る、と教本は言う――。
二時五十八分。俺は決めた。
「ささめさん。今夜は、帰しません」
「位置が出ないまま歩けば、電池と体温を賭けた博打になります。今夜のあなたの仕事は、歩くことではなく――朝と、明日の夜へ、つなぐことです」
〈ささめ: ……歩けます。まだ歩けます〉
「歩ける人を止めるのが、今夜の私の仕事です」
〈ささめ: プロの言うことは聞きます。わたしも一応プロなので〉
「感謝します。締め切りまで四十七分。三つ、やります」
一つ目、朝への引き継ぎ。蓄光チョークの矢印、三叉に石積み、音の録音をひとつ。二つ目、朝までの手順。水は残り二口――よるくまが保温の定型を、宿六が岩清水を布で漉して飲む知恵を書く。左の壁の隅が湿っていた、と返信が来る。
三つ目に、約束を二度言った。
「窓が開いたら、二十三時に一度だけ、電源を。二十三時に、一度だけ。私は、ここにいます」
〈ささめ: 二十三時に、一度だけ。復唱です〉
三時四十一分、閉窓の四分前。彼女が言う。
〈ささめ: 残りの電池は明日へ取っておきます。切ります。……宣言します。明日、二十三時〉
通知が、途切れる。窓はまだ開いているのに、自分から切ったのだ。その正しさが、画面へ音もなく積もる。
短冊を、剥がす代わりに裏返した。着陸していない札は仕舞えない。朝を待つ札である。
◇
眠らないまま、朝が来る。網代の報せいわく、捜索隊は日の出に整備口から入ったが、既知の経路が前夜の道替えで死に、毛細の入り口へ届かず正午で折り返し。
手帳の今日の欄には、職業安定所。失業給付の認定日である。行かねば、月十七万円が後ろへずれる。規程の外で人を助けるとどうなるか――一月の面談室の冷房を、手の甲がまだ覚えている。あのときは職で払った。今度は給付か。
――安い学費だ。
手帳を閉じ、三月から乗らなかったバスに乗る。日差しと草いきれの終点――退職の日から初めて来る俺の空港は、蝉の声の中の知らない顔をしている。
ターミナル口前、買い取り所のパラソルの下で、親父がこめかみを指で叩いた。
「ささめちゃんなら、ここひと月は一六の奥だね。無茶をしない子だよ。……頼むよ、管制塔さん」
声で、割れた。作業服のままの網代も来て、個人として、入域の記録をひとつだけ教えてくれる。昨日の十四時二十一分、整備口から。
フェンス際にしゃがみ、地面へ指で線を引く。整備口から一六の奥へ入る足の下には、旧空港の暗渠――滑走路の雨を海へ逃がす地下の大水路が走っている。録音の数秒おきの唸りは、風があの吸気口を渡る音だ。
「彼女は幹線の近くにいる。……地上で毎日暮らした男の見当ですが、筋はこの二本に絞れます」
地面の線を、網代は写真に収めた。
「会社としては、受け取れない絵です。……個人として、預かります。朝の隊は、ここから入れます」
夕方、折り返した隊の控えが網代経由で届く。どの角が死んでいたかの記録である。二本の筋のうち北は、入り口の三叉ごと隔壁――入れたはずがない。残るは南の一本。日は傾き、隊を入れ直す往復の時間はない。朝から歩いた足の再投入は、二次遭難の種でもある。
◇
二夜目、二十二時半。配信は無言で開けた。裏返った短冊が一枚、卓の真ん中。同接二千、誰も何も打たない。
二十三時〇二分――通知が鳴った。
〈ささめ: います〉
「……聞こえています」
挨拶に使う電池はない。
「昼のあいだに、道を一本へ絞りました。出典は四つ。買い取り所で聞いた稼ぎ場、入域の口と時刻、足の下の大水路の唸り、捜索隊の死んだ角の控え。……ただし地上の見当です。外れる目はあります。外れは、〇時十分の点灯で分かります」
〈ささめ: 分かった上で、聞きます〉
「選択肢は二つ。歩くか、電池を残して朝の隊を待つか。決めるのは、あなたです」
〈ささめ: 歩きます。宣言します〉
「一度で覚えてもらいます。矢印を背に風上へ。三叉を右、右、左。唸りが強くなる方へ進むと、広い直線――大水路の保守路に出ます。出たら電源を切って道なりに。次の点灯は〇時十分、直線の終わりで一度だけ」
〈ささめ: 矢印を背に風上。右、右、左。唸る方へ。切って、道なり。〇時十分〉
「復唱、完璧です。……行ってらっしゃい」
通知が消える。ここから〇時十分まで、できる仕事はない。祈りに似た書き込みが積もる。
〇時十分――通知。
〈ささめ: 直線の終わり。太い道。天井が高い〉
「一六主廊。骨に乗りました。左へ一・一キロ、突き当たりの坂の上が整備口。電源は、もう入れたままで」
〇時四十分、彼女の画面の先に、四角い光がにじんだ。
「出口の灯を確認。第一便――着陸です」
口の前には回送の車と、毛布を抱えた非番の網代が立っていた。ゲスト通話が最後に、震えた声を運んでくる。
『管制塔さん。昼のあいだ……あなたの手順だけが、そばにいました』
声が、揺れそうになる。揺れる寸前で二十四年の訓練がいつも通り勝つ。勝ってしまう。こういう夜くらい、負けてもいいものを。
「……便名を返納します。よい帰り道を」
裏返しの短冊を表へ返し、時刻を書いて、箱へ落とす。着陸してしまえば、どの夜も、ただの帰り道である。
すっぽかした認定日のぶん、給付は後ろへずれるらしい。夜の商売は、昼の割が悪い。白湯の祝杯の途中、網代のメールが届く。書式は会社、最後だけ、いつもの一行である。
「八月四日、当社主催の安全説明会を開催します。一般参加可。……個人としては、あなたに来てほしいです」
――昼の宿題の、続きが来た。




