6. 貨物口
七月十日、金曜。梅雨は明けきらないまま、四畳半は夜になっても蒸している。扇風機が首を振るたび、卓の端で短冊の束が小さくそよぐ。同接は千百。ひばりの夜から三週間で、俺の持ち場は少しずつ、確かに広くなっていた。
〇時五十八分、〇時五十八分。見慣れない名前が流れる。
〈ひうち: 第十環の〇四側です。はぐれました。電池は五割あります〉
「まず、遭難を宣言してください」
〈ひうち: 遭難しました。宣言します〉
順番が逆だが、気持ちは買う。チラシの短冊を切り、ひうち、第十環、電池五割、一時〇二分、と書いて卓に貼る。
「あなたを本日の第一便とします。本日の閉窓は三時三十六分。時間はあります。いま見えているものを三つ。動かないもの、文字、音。この順で」
〈ひうち: 床に大きな金属の台が埋まってます。縁に目盛りがある。柱に黄色いペンキで3。音は、高いところで金属が風に鳴ってます〉
目盛りの付いた台。ペンで問いを書き足すより先に、手が答えを書いていた。
「それは秤です。貨物上屋、三番ゲートの計量台――貨物をトラックごと量る台でした。毎朝あの台の前にトラックが列を作るのを、空港時代の十二年、タワーの窓から見ていた男の見当です。あなたの現在地は第十環〇四側、貨物上屋の残骸。最寄りの口は貨物口、およそ九百メートルです」
〈金曜日: 出た、地上二十四年の見当〉
「風に鳴っている金属を背にして、広いほうの道へ。環廊に出たら右です」
〈ひうち: 了解です。歩きます〉
返事も足取りもいい。灯石拾い半年の二十代、水も予備電池もある。今夜は楽な便だ――と、思っていた。
〈ひうち: 環廊です。ひろい〉
「そのまま右へ。突き当たりの坂を上れば貨物口です」
九百メートルに二十五分。順調すぎるほどである。だから次の一行の意味を、すぐには呑み込めずにいる。
〈ひうち: 着きました。……シャッター、閉まってます〉
写真を頼む。数十秒後に届いた画像には、下りきった鋼のシャッターと、真新しい南京錠が写っていた。貼り紙が一枚。当面のあいだ閉鎖、株式会社琴浜ゲートウェイ。
蒸し暑い部屋で、指先だけが冷えていく。俺の空港が、俺の知らないうちに変わっている。三月まで、あの口は確かに開いていた。タワーから毎日、出入りの作業車を見ていた――だがそれは、三月の話だ。俺の琴浜は、退職の日で止まったままの琴浜なのだ。
「ひうちさん。訂正します。私の案内が、間違っていました」
声を平らに保つのに、訓練の全部が要った。空の世界で最初に叩き込まれるのは、誘導の腕前ではない。間違えたら、即座に、聞いている全員の前で訂正すること。訂正を恥だと思う声から、事故は始まる。
「あなたはいま、安全な場所にいます。間違えたのは道ではなく、私の古い頭です。……ここから先の案内には、出典を付けます。宿六さん、いらっしゃいますか?」
〈宿六: おるよ。第十環の環廊なら心配いらん。素直な道じゃ。外へ外へ辿りゃ、南口へ回れる〉
「古参の、十年の歩き覚えです。距離は地上の見当で、貨物口から南口までおよそ一・三キロ。……回送さん。南口がいま開いているか、外から見えますか?」
〈回送: ちょうど南口方面で客待ちです。五分ください〉
五分ののち、車載カメラの映像が届いた。夜霧の奥に常夜灯がひとつ。柵は、開いている。
〈回送: 南口、灯あり。柵、開いてます。ついでに車もつけときます〉
「確認しました。ひうちさん、改めてご案内します。出典は、宿六さんの十年の足と、回送さんのいまの目です」
〈ひうち: ……ほんとに、今度は大丈夫なんですか?〉
文字が、初めて震えていた。当然の震えである。
「大丈夫、とは言いません。さっき私は間違え、その間違いは全部、記録に残りました。残した上で、確かめられることを確かめてから言っています。選択肢は二つ。いまの場所で朝を待つか、南口へ歩くか。決めるのは、あなたです」
長い間があった。
〈ひうち: 歩きます。宣言します。南口へ〉
「復唱、確かに」
環廊は宿六の言葉どおり素直で、若い足は速い。二時四十一分、夜霧の先に常夜灯。
「出口の灯を確認。第一便、着陸です」
〈回送: お客さん一名、確保。メーター、倒してません〉
「便名を返納します。ここからは、ただの帰り道です」
短冊を剥がし、裏に時刻を書いて箱へ落とす。いつもの手つきの、いつもより重い一枚である。俺はマイクの角度を直し、今夜のぶんの白状をした。
「皆さん。私の空港は、三月で止まっています。口の開け閉めは会社の都合で変わります。私はそれを、今夜まで知りませんでした。以後、口の現況は、毎夜、確かめてから案内します」
〈宿六: なら、わしが夕方の見回りついでに書き込んじゃろ。五つの口、全部〉
〈回送: 夜の分はうちで。流しながら見てます〉
〈ひばり: わたしも帰り道に通れます。ターミナル口と南口なら〉
〈金曜日: 名前つけよう。現況板。……真面目か〉
人の善意に名前が付く瞬間を、初めて画面で見る。祭りのように速くなった流れの中に、そんな一行も混ざっていた。
〈mih0: 訂正できるの、えらいと思います〉
返事を書く間もなく、コメントは流れていく。俺は白湯を注ぎ直し、少し冷まして飲む。今夜の白湯は、反省の味がする。
三時三十六分、窓が閉じる。配信を切った画面に、メールの通知がひとつ灯っていた。差出人、株式会社琴浜ゲートウェイ、保安部。件名は前と同じで、括弧の中だけ違う。
「無資格の誘導行為について(再警告)」
本文の末尾に、前にはなかった一行が足されている。貴殿の行為が継続する場合、当社は法的措置を検討します。
――夜の言い分は、少しずつ、書面になっていく。




