5. 先導屋
先導屋。入域証のほかに先導章という資格を持つ、職業の道案内である。日当二万円で客を安全に潜らせ、安全に連れて帰る。波多野先導は、その最大手だ。頭の波多野は五十五、元は山岳ガイドだと聞く。
あの降臨の晩から、一週間。波多野は毎夜、コメント欄の隅で黙って見ていたらしい。そして七月最初の金曜、改めて同じ一行を置いた。
〈波多野先導・波多野: あんた、現場を知らんだろう〉
「知りません」
正直に答える。
「潜ったことは一度もありません。これからも潜りません」
〈波多野先導・波多野: 開き直りか。ええ度胸しとる〉
「開き直りです。私が知っているのは、迷った人間の順番の付け方と、声の落ち着かせ方と、旧空港の間取りだけです」
〈波多野先導・波多野: 山はな、声じゃ守れん。岩の濡れも、風の変わり目も、あんたの画面の外にある。声の届かん場所で人は死ぬんじゃ〉
「おっしゃる通りです」
これも正直に言った。画面の速度が落ちる。九百人が、次の一言を待っている。
「私の声は、現場の代わりにはなれません。昼はあなたがたの仕事です。私にできるのは、あなたがたの入れない夜に、朝までの橋を架けることだけです。……声は人を運べない。現場が来るまでの、時間を運ぶだけです」
〈波多野先導・波多野: わしらは金を取る。金を取るちゅうことは、しくじったら責任を取るちゅうことじゃ。あんたは、何を取る?〉
「記録を、取ります。一言も消さずに。……責任の取り方を、それしか持っていないので」
今度の返事は、来なかった。代わりに三分後、同じ名前が短く打ってくる。
〈波多野先導・波多野: 待て。電話じゃ〉
さらに三分。戻ってきた文字は、もっと短かった。
〈波多野先導・波多野: こんな事言えた義理もないんだが……〉
歯切れの悪いコメントが浮かんだ。
〈波多野先導・波多野: うちの見習いが下におる。日没の点呼を、わしが数え損ねた。第六環、三四側。……頼む〉
九百人の前で、頭を下げる文字だった。五十五年の意地と、十九の命。天秤の答えを、この男は三分で出している。俺は何も言わず、短冊を一枚切る。
「お預かりします。本日の第一便です。……ただし、道はあなたが言ってください。私は迷宮を知りません。順番と時刻と復唱を、私が持ちます」
〈波多野先導・波多野: ……分業か。ええじゃろ。第六環三四側の金網は、崩し土場の柵じゃ。主廊まで千二百、曲がりは二つ、どっちも右〉
餅は餅屋、道は先導屋である。俺は短冊の裏に、千二百、右、右、と書き付けた。
見習いは十九歳で、ゲスト通話の第一声から、返事の良さが際立っている。
『第一便、了解です。現在地、固定します。見えるもの――金網の柵、立入禁止の札、水の音が左から』
「復唱が完璧です。どこで習いましたか?」
『親方です。山じゃ、返事が半分遅れたら死ぬ言うて』
「良い親方です」
通話の奥で、砂利を踏む規則正しい足音が続いている。
『親方、いま見てますよね。……見てますよね、絶対。すんませんでした!』
「通話中の謝罪は、前を向いたままどうぞ。歩幅は一定に」
波多野の言った通りの場所に、波多野の言った通りの角が現れる。若い足は速く、壁鳴りもない。二時七分、ターミナル口の灯。
「出口の灯を確認。第一便、着陸です」
口の前には、白い息を吐く大きな影が待っている。波多野は弟子の頭を一つはたき、深々と下げさせ、それから自分も、同じ深さまで下げた。カメラ越しの音声が、風に混じったひとりごとを拾う。
『……山は、声じゃ守れん。と、思うとった』
訂正はそれだけで、影は弟子を連れて帰っていく。頑固な背中に、なぜだか少し、救われた気分になる。俺は締めの口上を言って配信を切り、冷めた白湯を飲んだ。いい夜だ。文句なしに、いい夜のはずだ。
だから着信の履歴に気づいたのは、ヘッドセットを外した後だった。二十三時五十一分、着信一件。画面に並んだ四文字を、俺は白湯の残りが冷え切るまで見ている。
片瀬未帆。
娘である。十一年、誕生日の定型文だけをやり取りしてきた。名字が変わったのは母親に付いていったからで、番号を消さずにいてくれたことのほうが、俺には奇跡に近い。
最後に聞いた肉声は、十歳の「ばいばい」である。あの日も俺は夜勤で、玄関先の別れに立ち会えなかった。退職の日に持ち帰った段ボールの、その底に入れたクレヨンの絵を、俺はまだ捨てられずにいる。ずんぐりした塔と、丸い顔。おとうさんの、しごとば。あの絵の中でだけ、俺はずっと、いい親父だった。
折り返せばいい。指はそこまで動いて、止まった。かける理由がないのではない。かけて最初の一言が、出てこないのだ。見知らぬ迷子には道を言える男が、たった一人の娘に言う「もしもし」の高さを、決められずにいる。
管制官は、応答のない周波数に慣れている。呼び続けろ、と教わった。応答がないのは、聞いていない証拠ではない――。
窓の外、丘の管制塔は今夜も暗い。あの窓の内側の冷たさを、俺はまだ手の甲で覚えている。俺は短冊を一枚切り、便名の代わりに四文字だけ書いて、卓のいちばん隅に貼った。
数日後、ミネルバのニュース欄に小さな見出しが出る。
「琴浜ゲートウェイ、夜間ツアー事業を検討か」
――夜の迷宮に、客を入れる気だ。




