3. 短冊
同接八百十二。昨日までの五十倍である。卓の隅では、昨夜のひばりの短冊が、空き箱の中から半分だけこちらを覗いている。
数字を見た瞬間、喉の奥で声が営業を始めたがるのが、自分で分かった。よく通る声を出そうとする。聞かせる声に、なろうとする。――駄目だ。それは管制の声ではない。俺はチラシの短冊を一枚切り、同接の数字の上に貼って隠した。
〈金曜日: あれ、数字隠した?〉
「数字を見ると、声が変わるので。便は数字で管理しますが、数字は便ではありません」
さて、三件だ。
「お三方に同じ質問をします。いま見えているものを三つ。動かないもの、文字、音。この順で」
〈ソロ二年目: 天井に太いパイプ。文字は……赤いバルブに白ペンキで04って。音は風です〉
〈とまり木: 妻と座ってます。柱に、南口まで800の看板。音はないです〉
〈ちくわぶ: 暗くてよく見えない。非常口みたいな板があった気がする〉
気がする、は視認ではない。
「ちくわぶさん。その板まで何歩ですか? 板の色は?」
〈ちくわぶ: 十歩くらい? 緑?〉
「第七環は、空港の残骸が届かない深さです。看板の類いは埋まっていません。緑の非常口の板があるのは――あなたのお近くの、建物の廊下でしょう。お引き取りください。この記録は、警察へ提出します」
名前が、ぷつりと消えた。
〈よるくま: こわ。三問で終わった〉
「嘘の絵は、三つ目の質問で壊れます。見たものは、聞かれた順に言えるものなので」
腹は立っている。あの偽者が名乗った十分のあいだ、本物の二便は暗闇で待たされた。だが怒鳴る声に迷子を帰す力はない。怒りは記録に変えて、警察へ回す。声は、仕事へ戻す。
空にも、偽の救難信号はあった。電波の悪戯は、あちらの世界では立派な犯罪である。地下でも同じに扱うだけの話だ。
チラシの短冊を二枚、切った。
第一便、第九環〇四側。学生、単独、電池残り一割五分。第二便、第十環南口側。夫婦、無傷、水あり。
「第十環のお二方を、本日の第二便とします。ただし出発は、第一便の後です」
〈とまり木: 後回しですか。こっちは二人いるんですが〉
「電池は、命の残量です。第一便は残り一割五分。あなたがたは電池が満ち、水があり、二人でいる。……いま強いのは、あなたがたです。強い便に、待つ役をお願いしています」
短い間がある。
〈とまり木: ……分かりました。待ちます。強いので〉
「感謝します。灯りを一つ消して、お待ちください」
待つ側になった夫婦の画面は、小さな灯りをひとつ残して静かになった。ときどき〈まだですか〉ととまり木の夫が打ち、そのたびに妻が〈すみません、せっかちで〉と謝ってくる。四十年ものの漫才だ、と金曜日が書き、コメント欄が少しあたたまる。いい待機である。
第一便の学生には、まず画面を消させた。ミネルバのゲスト通話――配信に声で出演する機能へ切り替えれば、電池の削れる速さは半分になる。回線がつながると、若い声は思ったより幼かった。
『き、聞こえますか。すみません、俺、軽い気持ちで入って』
「反省は地上でやると長持ちします。いまは目の前だけ。天井のパイプ、太いほうへ歩いてください。あれは昔の消火配管で、〇四主廊まで一直線です」
『……ほんとだ。道が、まっすぐになった』
「その配管は、昔は消火栓へ水を送っていました。いまは、あなたを出口へ送っています。道具の二度目の勤めというのは、あるものです」
言いながら、これは自分の話だと気づいた。四十九歳の中古の声も、いま誰かを出口へ送っている。
声が返る。文字より速く、震えごと届く。震えは、手順が進むたび薄まっていく。復唱、確認、次の一手。二十分で主廊、四十分で整備口の灯。
「出口の灯を確認。第一便、着陸です」
短冊を剥がす。裏に時刻。箱へ。そのまま第二便の誘導に入る。夫婦は健脚で、南口まで三十五分だった。夫のほうは最後まで仏頂面の文字を打っていたが、着陸のあと、妻の名義でひとことだけ届く。
〈とまり木: 主人は素直じゃないので代わりに。ありがとうございました。待つ役、悪くなかったです〉
「よい帰り道を」
深夜二時過ぎ、着陸済みの第一便からも一行届く。
〈ソロ二年目: 家に着きました。親に黙って潜ってた件も、白状済みです。……うちの親、この配信フォローしてるらしいです〉
「世間は、思ったより狭いものです」
二枚目の短冊が箱に落ちて、夜が終わる。
――終わらなかった。
閉窓のあとの静かな画面に、メールの通知がひとつ灯る。差出人、株式会社琴浜ゲートウェイ、保安部。
会社、という二文字は、指先から冷える。整理解雇の面談室の、あの効きすぎた冷房を、体のほうがまだ覚えているのだ。件名は短い。
「無資格の誘導行為について(警告)」




