表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/12

2. 第一便

「最初にやることは、歩くことではありません。止まることです」


 遭難者は動く。動くから、深くなる。空でも同じだった。迷った機体にまず言うべきことは一つ――現在位置を報告せよ。位置が分からなければ、高度を維持せよ。若い俺にそれを叩き込んだ教官は、付け加えたものだ。慌てた人間の耳は半分しか開かん、だから数字を先に言え、と。


「その場に座って、荷物を下ろして、持ち物を声に出して数えてください」


〈ひばり: 端末三割。予備電池がライト一回ぶん。水がペットボトル半分。チョコ一枚〉


 短冊に、水五百、チョコ一枚、と書き足した。


「十分です。あなたの位置から出口まで、およそ二キロ。搭乗口一二から滑走路の端までを、地上で毎日歩いた男の見当です。締め切りまで九十分。走る必要は、どこにもありません」


 不安というのは、数字にすると小さくなる。二キロ、九十分。大きさの分かった不安は、荷物として背負える。


「出発の前に、壁へ蓄光チョークで矢印をひとつ。進む向きへ。あなたが通った印は、朝の捜索への手紙になります」


〈ひばり: 書きました〉


「復唱願います。これからの行き先」


〈ひばり: 青い板を正面に見て、右の道。次の広い通路まで〉


「けっこうです」


 文字の復唱が、少しずつ整っていく。最初の書き込みにあった震えた誤字が、減っていく。ああ、これだ、と思う。復唱が返ってくる。管制という仕事の芯は、指示でも命令でもなく、これだった。声を投げて、確かめられて、戻ってくる。二十四年、俺はこの往復で空を支え、この往復に食わせてもらってきたのだ。


〈ひばり: 出ました。広い通路。床に、手すりみたいな帯が埋まってます〉


「動く歩道の手すりです。昔は、急ぐ旅客がその上に手を滑らせていました。第八環の環廊(かんろう)――環をめぐる周回路です。帯に沿って左へ。八百メートルで大通りに当たります」


〈ひばり: 大通り?〉


三四(さんよん)主廊。昔の滑走路の真下を走る、この迷宮の背骨です。道は夜ごとに替わりますが、骨は替わりません」


 彼女の足音の代わりに、点々と文字が届く時間が続く。マイクの向こうの暗闇を、俺は想像しない。想像の代わりに手順を数える。それが管制の礼儀というものだ。


 ふいに、送られてきた文字が乱れた。


〈ひばり: なんか鳴ってます 壁が 低い音〉


「止まってください。座って、灯りを消して、壁から三歩離れる。……それは道替(みちが)えの前触れの音です。鳴っている間、道は決めごとを変えます。私たちは待ちます。締め切りまで、まだ七十分ある。待てるんです」


〈ひばり: 怖い〉


「怖いでしょう。ですが、あなたはいま正しく怖がっています。パニックとは、怖さに手順を失うことを言います。あなたは手順の中にいる。……私の画面の中に、います」


 三分の沈黙。空にも、こういう沈黙があった。エンジンの数字がおかしいと告げてきた機長と、進入の順番を待つ間の三分。声を出さずに、回線だけ開けておく三分。俺はあの頃と同じ姿勢で、四畳半の暗がりに座っている。


 梅雨の雨が、窓を一定の速さで叩いている。安アパートの四畳半と地の底の暗闇が、いま、ひとつの回線で繋がっている。膝の上の短冊の角を、折り目がつくほど指で押さえていた。声を出さない時間ほど、声の仕事は重い。


〈ひばり: 鳴りやみました。道、あります。さっきのまま〉


「では第一便、運航を再開します」


 三時十二分、三時十二分。


 彼女の写真の隅に、白い点がにじんだ。闇の先、坂の上に、四角い光。ターミナル口の常夜灯である。


「出口の灯を確認。第一便――着陸です」


〈金曜日: 着陸て。地下だぞw〉


〈よるくま: 泣いてる。夜勤明けなのに泣いてる〉


〈回送: 口の前、車まわしてます。メーター、倒してません〉


 俺は短冊を剥がして、裏に時刻を書き、空き箱へ落とした。着陸した便の札を仕舞う。この手つきも、体が覚えていた。


「ひばりさん。便名を返納します。あなたはもう便ではありません。ここからは、ただの、家に帰る人です」


〈ひばり: ありがとうございました。ほんとに、ほんとに〉


「回送さんの車が停まっています。……本日の全便、着陸しました。よい帰り道を」


 言い終えて、胸の真ん中で古い計器がひとつ、静かに針を戻すのが分かる。二十四年、毎晩言っていたはずの、ただの決まり文句である。その決まり文句の本当の味を、今夜はじめて知る。


 三時二十五分。窓が切れて、配信を終えると、部屋はただの四畳半に戻った。白湯はとうに冷めている。窓の外、丘の上には灯の消えた管制塔の影。


 クビになって二か月半。俺の声がまた、誰かを家へ帰した夜だった――。


 翌日の昼過ぎ、俺は電話の振動で起こされる。切り抜き動画が四十万回再生されているという。検索した画面の中で、昨夜の自分の声が流れていた。題は「深夜のガチ管制おじさん、ガチだった」。おじさんの部分にだけ、異議がある。


 画面を閉じる前に、コメントをひとつ見つけた。


〈ひばり: 昨夜の第一便です。今朝、母がわたしの顔を見て泣きました。わたしは泣いていません。まだ、あなたの手順の中にいるので〉


 ――そうか。


 泣かずに済んだか。それは、何よりだ。


 その夜。窓の開く時刻に合わせたように、コメント欄へ三つの名前が並んだ。


〈ちくわぶ: 第七環です。はぐれました〉


〈ソロ二年目: 助けてください、第九環〉


〈とまり木: 第十環です。妻と二人、道が分かりません〉


 さて――どれが、本物の便だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ