1. 最終便
「琴浜タワー、最終便の着陸を確認。……本日をもって、当タワーは業務を終了します」
三月三十一日、十七時〇〇分。最後の交信相手は旅客機ではなく、繋留測量ドローンの索を巻き取る回収便である。十二年前に割れたまま草の生えた滑走路と、その真ん中に口を開けた街ひとつぶんの迷宮を見下ろしながら、俺は自分の声で、自分の職場を閉めた。二十四年、無事故。残った数字は、それだけである。
泣くかと思ったが、泣けなかった。管制官というのは、声を揺らさない訓練を二十四年やる。その訓練が、こういう日にまで効いてしまうとは聞いていない。
◇
二か月半後の話をする。
六月十九日、深夜一時。四十九歳、無職。俺は自宅アパートの四畳半で、マイクの前に座っている。姿勢だけは今も崩れない。崩し方を、習っていないのである。
職業安定所の窓口は、履歴書の「二十四年、無事故」をとても丁寧に眺め、とても丁寧に首を傾げてみせた。
「ご立派なご経歴です。ただ……その、管制のご経験は、何にお使いになれますか?」
答えられなかった。声で飛行機を家へ帰す仕事は、飛行機の飛ばない街では、声の大きい無職と区別がつかない。
それでも夜勤の体は、律儀に真夜中へ目を覚ます。二十四年ぶんの癖だ。冷蔵庫の唸りしか聞こえない部屋で持て余した覚醒に、行き先をくれたのが、この配信である。
題して「帰り道案内」。終電を逃した誰かを、声だけで家まで送る深夜番組だ。開始から四十三日目。同接十六人。世間的には無に等しいが、深夜の十六人は、昼間の十六人より濃い。
〈金曜日: 課長にまた飲まされました。ただいま二軒目を脱出〉
〈よるくま: 夜勤明け。帰って寝るだけの民です〉
「金曜日さん、お疲れさまです。駅はどちらですか?」
〈金曜日: 中央口。終電は、はい、いま見送りました〉
誤字の少ない泥酔である。今夜はまだ浅い。
「では残念ですが、あなたは徒歩圏です。北口を出て二つ目の信号を右、パン屋の角を左。復唱は要りません。転ばないでください」
〈回送: 桜通りに車つけてます。ワンメーターですよ、課長〉
画面の向こうで、夜に起きている人間たちが笑っている。看護師、運転手、酔っ払い。マイクのこちら側で、俺の声には四十三日ぶんの小さな持ち場がある。管制圏と呼ぶには狭すぎる。それでも、悪くない夜だと思っていた。
一時四十七分、一時四十七分。
時刻を二回読むのは職業病である。直らないし、直す気もない。
その画面に、見慣れない名前が流れた。
〈ひばり: 琴浜の第八環からです。冗談抜きで、はぐれました。電池が三割です〉
〈金曜日: 出た、深夜の大喜利〉
〈回送: 琴浜って、あの琴浜? 迷宮の?〉
琴浜。旧琴浜空港。俺が二十四年、声で空を捌いた場所だ。いまは滑走路の裂け目から地下へ、同心円の迷宮が広がっている。
膝の上で、指が勝手にペンを探していた。頭より先に、体のほうが信じたらしい。
「ひばりさん。事実確認をします。いま見えているものを三つ。動かないもの、文字、音。この順でお願いします」
〈ひばり: 壁に青い板が埋まってます。12-14って書いてある。あとローラーみたいな機械の列。音は……ないです。水の音もない〉
数十秒遅れて、写真が一枚届く。粗い画素の暗がりに、青い案内板が斜めに沈んでいた。
搭乗口一二から一四。第二ターミナル、北ウィングの標識である。毎朝その下を通り、階段を上って、俺は自分の持ち場に着いた。壁に呑まれた俺の通勤路が、いま、見知らぬ女の子の遭難現場になっている。
本物だ。
「一一九番は?」
〈ひばり: かけました。つながらない。電話そのものが駄目みたいです〉
〈よるくま: 迷宮の中、通じるのはネットだけなんですよね。それも夜だけ〉
「ご家族には?」
〈ひばり: 母に文字は送れました。警察に電話してくれたけど、区域の中は会社の管轄だからって。会社の番号は……留守番電話でした。営業時間は九時から、って〉
コメント欄が、初めて静かになる。
〈ひばり: この配信、いつも帰り道に聴いてました。書き込むのは初めてです。……助けてもらえるなんて思ってません。ただ、朝まで誰かに、聞いていてほしくて〉
深夜に必ず誰かが起きている場所を、この子は他に知らないのだ。四十三日ぶんの小さな持ち場が、いま、誰かの最後の窓口になっている。
報せることは、できている。届いてもいる。なのに、応える声だけが、この世のどこにもいない。夜間当直は二年前に廃止された――地方欄の隅で読んだ記憶が、いまごろ請求書のように戻ってくる。
俺はマイクの角度を直し、息をひとつ置いて、二十四年使ったほうの声を出した。
「ひばりさん。お願いがあります。まず、遭難を宣言してください」
〈ひばり: え〉
「言葉にした人から、助かる準備が始まります。どうぞ」
〈ひばり: ……宣言します。遭難、しました。管制塔さん、聞いてますか?〉
「聞こえています」
チラシを裏に返し、はさみで細長く切る。ひばり。第八環。電池三割、一時五十三分。書き終えて、卓の端に貼る。空の管制で使う進行札――ストリップという紙の短冊に、こんな再発行の日が来るとは思いもよらない。
「あなたを、本日の第一便とします。本日の夜窓が閉じるのは三時二十五分、三時二十五分。それが締め切りです。……脅しではありません。締め切りというものは、守るためにあります」
〈ひばり: は、はい〉
「では、第一便」
教本にはない言葉を、俺は初めてマイクに乗せる。
「――帰りましょうか」




