11. 初回
夕方、窓を開けると、丘の上の廃タワーが茜に灼けていた。ガラスの落ちた展望室に西日が差し込んで、あの箱は日没前の三十分だけ、灯が点いているように見える。二十四年、俺はあの中で夕方を迎えていた。いまは四畳半から、点いた振りをする箱を眺めている。
網戸の向こうで蝉が鳴きやみ、代わりに風鈴でもない金物の音が、どこかで一度鳴る。
昼のうちに、会社サイトの隅の表を確かめてある。五つの口は、全部が開。夕方の現況板も同じ報告で揃った。今夜に限っては、俺の商売道具に使い道がない。
八月八日、土曜。星穴ナイトウォーク、初回である。
二十二時四十分、窓が開く。同接は三分で四千を超えた。短冊は一枚も切らず、白湯だけを卓に置く。
「今夜は、便の予定がありません。……今夜は、何もないことを祈る放送です」
〈金曜日: 出た、不吉〉
〈よるくま: 祈るって言い方がもう〉
「祈ると言いました。呪うとは言っていません。私はあの企画に出資も反対もしていない、ただの視聴者です」
〈回送: 一番うるさい視聴者〉
「否定はしません」
会社の発表と現況板を突き合わせ、今夜の行程を読み上げる。日没前に入域、参加三十一名、添乗二名、委託の先導ガイドが二名。星穴広場は第八環、三四主廊から一本道――開域以来、道替えの記録がない区画である。脇道はすべて柵。ターミナル口には保安部が一名、時間外で残っている。
「災害時の規定も公表されています。壁鳴りが鳴ったら全員が集合し、座って待つ。集合点は広場の三四主廊口。前兆が二度あれば行程を打ち切る。班ごとにホイッスルと合図灯。……これは、よく書けています」
〈金曜日: 褒めた〉
〈回送: 珍しいこともあるもんだ〉
〈よるくま: 素直でこわい〉
「規定を書いた人と、値段を決めた人は、たぶん別人です。書いたほうの人には、現場を知っている匂いがします」
〈ひばり: 会社の人にも味方がいるってことですか?〉
「味方かどうかは知りません。持ち場が違うだけです」
波多野の名前が浮かんだ。今夜の委託ガイドは、あの一門の若手二人である。
〈波多野先導・波多野: うちの若いのを二人出しとる。仕事じゃ。断る義理はない〉
〈波多野先導・波多野: ……鳴っとるのは、まだ鳴っとる〉
「壁鳴りの集計を読み上げます。お願いしたのは昨夜ですが、皆さん、覚えている分を遡って書いてくださいました。日付と時刻のはっきりしているものだけ数えて、今週の水曜から昨夜までの三晩で、十二件。第七環と第八環に寄っています。多いのか少ないのかは、分かりません。……分からないものを、数えています」
〈宿六: 数えとくのはええことじゃ。わしらの頃は、誰も数えんかった〉
「宿六さん。七年前は、何日前から鳴っていましたか?」
〈宿六: 前の晩からじゃ。三度鳴いて、そんで終いよ〉
「三度。……書きとめます」
〇時十分、会社の公式が写真を一枚上げてきた。数十秒に一枚しか通らない細い帯を、宣伝のために使っている。腹は立つが、それでも写っているものは本物だった。
天井いっぱいの灯石の群落。地の底に逆さに吊られた星空。俺の知っている琴浜の、地面の下側である。二十四年、俺は同じ場所の上側だけを見ていた。滑走路の白線と、誘導灯の並びと、雨の日の水たまりの形。その真下に、こんな空がぶら下がっていたわけだ。
画面の向こうで三十五人が、いま同じものを見上げている。うらやましい、と思う気持ちが少しあって、それを認めるのに一拍かかった。
〈ひばり: きれいですね。……わたし、あそこは入ったことないです〉
「一万二千円ですからね」
〈ひばり: それです〉
〈金曜日: 拾う側と見る側で値段が逆〉
一時〇二分、退域完了の一報が出た。参加三十一、添乗二、ガイド二。全員が地上へ戻っている。
俺は姿勢を直し、マイクを引き寄せる。
「本日の星穴ナイトウォーク初回、三十五名、全員地上へ戻られました。……おめでとうございます。よい興行でした」
コメントが一瞬止まり、それから流れ出した。皮肉だと思った人が半分、思わなかった人が半分である。
「皮肉ではありません。今夜の行程は悪くありませんでした。私の心配が外れたのなら、それがいちばんいい」
〈金曜日: 素直だ〉
〈波多野先導・波多野: 若いのが二人、無事に上がっとる。それでええ〉
〈ひばり: よかったです。ほんとうに〉
「よかった、を言える夜は、月に何度もありません」
言いながら、喉の奥がわずかに苦い。俺の仕事は、俺が間違っていることを願う仕事である。二十四年、荒れると読んだ空が晴れるたび、この苦さを飲んできた。当たれば人が痛い目に遭い、外れれば俺が滑稽になる。滑稽でいるほうが、ずっといい。
参加者の投稿が流れてくる。一生の思い出、という言葉が並ぶ。売り物になる。それも、認める。
閉窓は三時五十九分。窓が切れて、部屋がただの四畳半に戻ったあと、会社の増便発表が届いた。第二回は八月十一日、第三回は十三日。加えてお盆の十四・十五・十六日を三夜連続、各回とも定員を増やすという。
その下に、常連の書き込みが積んである。今夜の壁鳴り報告、七件。遡って集めた三晩は、一晩あたり四件だった。
俺は数字を書き写し、短冊を卓の隅へ足す。四文字の短冊が、また一枚ぶん遠くなる。




