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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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9/12

第九章 雨のなかの路面電車 見えている景色

 七月の初め、梅雨はまだ終わっていなかった。

 朝から雨が降っていた。強くはないが、やむ気配もない。道後の町が白く霞んで、温泉本館の屋根も輪郭が柔らかくなっている。こういう日は、外を歩く観光客が少し減って、宿の中に人がこもる時間が増える。

 おばあちゃんの体調は戻っていた。先週の熱がうそのように、また朝から厨房に立っていた。わたしが早く起きて先に動こうとすると、「もう少し寝てなさい」と言われた。もう少し、の加減がおばあちゃんと違うのか、結局ほぼ同じ時間に起きることになる。

 その日の午前中は宿泊客が少なく、午後に一組チェックインがあるだけだった。午前の仕事が早めに片づいたので、わたしはおばあちゃんに断ってから、少し出かけることにした。

 用事というほどのものはなかった。ただ、雨の日に宿の中だけにいると、考えすぎてしまう癖があると気づいていた。体を動かすか、外の空気を吸うか、どちらかをしないと、頭の中が堂々巡りを始める。

 傘をさして坂を下りた。

  

 大街道まで行くつもりだった。

 道後から大街道へは、路面電車で十分ほどだ。松山の中心部にある商店街で、百貨店や飲食店が並んでいる。特に何かを買いたいわけではなかったが、人の多い場所を歩くと、少し頭が切り替わる気がしていた。

 道後温泉駅のホームで電車を待っていると、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。

 長身で、傘をたたんで手に持っている。薄い上着を着て、肩に小さな鞄をかけている。

 久米湊人さんだった。

 向こうもわたしに気づいた。少し目を大きくしてから、人懐こい笑顔になった。

「二宮さん、お出かけですか」

「少し大街道の方まで。久米さんは?」

「観光協会に書類を届けに。ちょうど大街道の近くなんです」

 電車が来た。二両編成の、黄色い車体。ドアが開いて、乗り込んだ。

 濡れた線路が鈍く光っていた。子どものころは当たり前すぎて気にも留めなかったこの電車を、帰ってきた今は少しだけ特別なものみたいに見ている。観光客に混じって地元の人が何でもない顔で乗り込んでいく、その感じが松山らしいと思った。

平日の昼間で、車内は空いていた。観光客が数人と、地元らしい年配の女性が一人。二人並んで立つ格好になった。吊り革につかまると、電車が揺れながら動き出した。

  

 車窓の外を、雨に濡れた町が流れていく。

 アーケードの屋根、石畳、傘をさした人たち。信号待ちの車。喫茶店の灯り。雨の日の松山は、いつもより地元の顔をしている、と思った。観光地としての明るさが少し引いて、生活の町の顔が出てくる。

「雨の日は電車が好きです」

「どうして」

「車の中と違って、外が見えるから。雨の日の景色って、晴れの日と全然違くて」

「そうですね」

「二宮さんは子どもの頃、乗ってましたか、この電車」

「よく乗ってました。祖母の宿に行くときとか、高校の帰りとか」

「俺も毎日乗ってた。この路線、飽きそうで飽きないんですよね。同じ景色なのに、季節と天気で全然変わるから」

 湊人さんは窓の外を見ながら言った。地元の町を長く見てきた人の、愛着のある目だと思った。

「観光協会の仕事は、今日みたいな感じが多いですか」

「まあそうですね。書類とか、調整とか。地味なことが多いです。旅館の仕事も並行してるので、忙しいといえば忙しいですけど」

「大変そう」

「慣れました」

 そう言ってから、湊人さんは少し間を置いた。窓の外に目をやったまま、続けた。

「慣れた、って言い方、あんまり正確じゃないかもしれないですけど」

「どういうことですか」

 車窓の外を、雨に濡れた町が流れていく。

 湊人さんはしばらく黙っていたが、ふと窓の外を見たまま言った。

「慣れた、っていうのと、やりたい、っていうのは、別なんだなと思う時があります」

 少し意外だった。湊人さんはいつも、自分のことをさらりと流す。今日は少し違う話し方をしていた。

 

 路面電車が次の停留所に着くと、湊人さんは「じゃあ、ここで」と言って立ち上がった。

「あ、はい」

 降り際に軽く手を上げて、そのままホームへ降りていく。雨に濡れたホームの向こうで、薄いシャツの背中がすぐに人波へまぎれた。

 扉が閉まって、電車がまたゆっくり動き出す。窓に流れる雨粒の筋を見ながら、わたしはさっきの言葉をもう一度思い返していた。慣れた、というのと、やりたい、というのは、別。

 その言い方が、なぜかずっと胸のどこかに残っていた。


 朝まで降っていた雨は昼前に上がり、道後の石畳だけがまだ濡れていた。空は薄い灰色のままだが、雲の向こうが少しだけ明るい。ことの葉亭の玄関先に出ると、湿った空気の中に、温泉の匂いがいつもより濃く混じっていた。

 午前の仕事は早めに片づいた。客は二組だけで、どちらも昼前には出発した。おばあちゃんは厨房で夕食の仕込みを始めていて、わたしは帳場で予約帳を見直していた。外から引き戸の開く音がして、顔を上げる。

「こんにちは」

 入ってきたのは湊人さんだった。薄いグレーのシャツに黒いパンツ。いつものやわらかい笑顔を浮かべていたが、今日は少しだけ目の下に疲れが見えた。

「こんにちは」

「女将さん、いらっしゃいますか。観光協会の件で少し」

 わたしがおばあちゃんを呼びに行こうとすると、奥から声がした。

「由良、先に聞いておいてくれる? 手が離せないの」

「分かった」

 そう返すと、湊人さんは「すみません」と軽く頭を下げた。帳場の脇の小上がりに案内すると、彼は鞄から数枚の紙を取り出した。

「来月の終わりに、商店街と旅館組合で小さな案内を作るんです。夏の終わりから初秋にかけての道後の歩き方、みたいなものを。各宿にも置いてもらえたらと思って」

「案内」

「観光マップというほど大げさじゃなくて。宿の人が一言すすめるなら、みたいな感じです」

 紙には簡単なレイアウト案が印刷されていた。温泉本館、商店街、からくり時計、坊っちゃん列車。定番の名前が並んでいる。その下に、小さく「宿のおすすめコメント」と書く欄があった。

「各宿から一つずつ、短い文をもらえたらと思ってるんです。ことの葉亭さんなら、女将さんの言葉がいいかなと」

「おばあちゃん、こういうの苦手そうだけど」

「そうなんですよね」

 湊人さんは苦笑した。

「なので、もし二宮さんでも何かあれば。外から戻ってきた人の目って、地元の人と少し違うでしょうし」

「わたしの、ですか」

「はい。嫌でなければ」

 嫌というより、少し意外だった。こういう時、わたしは手伝う側で、意見を出す側ではないと思っていたからだ。

 紙を見ながら、少しだけ考える。

「……定番の場所を案内するのもいいけど、雨の日の道後って、いいなって思うんです」

「雨の日」

「晴れてる日より、少し静かで。石畳が濡れて、路面電車の音が遠く聞こえて。急いで歩かなくてもいい感じがして」

 言いながら、自分でも曖昧だと思った。でも湊人さんは途中で遮らずに聞いていた。

「温泉に来るって、元気な時ばかりじゃない気がするんです。観光したい人ももちろんいるけど、ちょっと立ち止まりたい人もいて。そういう人には、にぎやかな場所だけじゃなくて、静かな時間の方が残ることもあるかなって」

「なるほど」

 湊人さんは紙に目を落としたまま頷いた。

「たとえば、朝早い路面電車とか、宿から本館までの短い坂とか。朝の電車は、観光の人より先に町の一日を運んでいる感じがする。本館までの坂も、ほんの少しなのに、上るあいだに息が整っていく。急いで楽しむ場所じゃなくて、少し立ち止まるための時間が、この町にはある気がします。あと、内湯のあとに少し休める場所とか」

「二宮さんらしいですね」

「そうですか」

「うん。細かいところを見てる感じがして」

 そこまでは、穏やかな会話だった。

 でもそのあと、湊人さんは少しだけ困ったような顔をして、紙を指で軽く叩いた。

「ただ、案内として出すなら、もう少し分かりやすい方がいいかもしれません」

「分かりやすい」

「初めて来る人には、雨の日の空気とか、静かな坂とかって、まだ想像しにくいので。やっぱり最初は、本館とか、商店街とか、目に入るものがあった方が動きやすいと思うんです」

 言っていることは分かった。分かったのに、胸のどこかが少し固くなる。

「それは、そうかもしれませんけど」

「二宮さんの言うことは、たぶん一度来た人とか、外から見直した人には伝わりやすいと思うんです。でも、最初の案内としては少し内向きかもしれなくて」

 外から見直した人。

 その言い方に、胸が引っかかった。

 悪意がないのは分かる。分かるのに、言われた瞬間、わたしの中で別の意味に聞こえてしまった。戻ってきたから、そう見える。外を知っているから、そう言える。ここにずっといる人とは違うから。

「でも、ずっとここにいると、見えなくなるものもあるんじゃないですか」

 気づいた時には、口に出していた。

 湊人さんが顔を上げる。

「見えなくなる?」

「当たり前すぎて、いいところとして数えなくなるってことです。本館とか商店街とか、そういう分かりやすいものだけじゃなくて、ここにある空気みたいなものも、道後の一部じゃないですか」

「もちろんそうです」

「だったら、そこを書いてもいいと思います」

「ダメだとは言ってないです」

 声は強くなかった。でも、空気は少し変わった。

 わたしも引けなかった。たぶん、案内の話だけじゃなくなっていた。

「外から戻ってきたから見えるって言い方、少し違う気がします」

「……どう違いますか」

「外から見たからじゃなくて、ここにいる時に息ができたから、そう思ったんです」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 湊人さんはしばらく黙った。その沈黙が、前より少しだけ遠い。

「俺も、見えてないつもりはないですよ」

「そんなこと言ってません」

「でも、そう聞こえました」

 低い声だった。怒っているというより、冷ややかに線を引く声だった。

「残ってる人間は、分かりやすいものしか見てないみたいに」

「……そういう意味じゃ」

「二宮さんは一度外へ出て、戻ってきたから見える景色がある。たぶんそれは本当です。でも、残ってる人間にも、残ってる人間なりに見えてるものはあるんです」

 そこで初めて、わたしは自分が刺したのだと分かった。

 さっきまで引っかかっていたのはわたしの方なのに、先に口に出して刺したのも、わたしの方だった。

 小上がりの向こうで、鍋の蓋が鳴る音がした。厨房からだしの匂いが流れてくる。宿の中はいつも通りなのに、ここだけ少し空気が違っていた。

「……すみません」

「いえ」

 湊人さんは紙を整えて、鞄に戻した。

「一度持ち帰って、また考えます。女将さんにも改めてお話しします」

「うん」

「今日はすみません、急に」

 立ち上がる動作まで、いつも通り丁寧だった。だから余計に、さっきのわずかな硬さが残った。

玄関で見送ると、彼はいつものように笑った。でも、その笑顔の下に、今日は少しだけ疲れより別のものがあった。

 引き戸が閉まったあと、わたしはしばらくその場に立っていた。

   


 夕方、カフェ・コウノに行くと、佐和さんはカウンターの中で豆を挽いていた。店の中にはほかに誰もいない。雨上がりの湿った空気が、開けた引き戸から少し入り込んだ。

「顔、分かりやすいね」

「そんなに?」

「そんなに」

 座る前からそう言われて、わたしは苦笑した。コーヒーを出してもらって、一口飲んでから、さっきのことを話した。観光協会の案内のこと。わたしの言い方が少しきつくなったこと。湊人さんの返事。

 佐和さんは途中で口を挟まなかった。最後まで聞いてから、カップを拭きながら言った。

「やっと、ちゃんとぶつかったんじゃない」

「ちゃんと、かな」

「今までお互い、相手のことを少しずつ想像で補ってたでしょ」

 そう言われると、否定できなかった。

 湊人さんのことを、わたしは勝手に「残る側」として見ていた。地元にいて、家業を継いで、観光協会の仕事もして、人当たりがよくて、まぶしい人。そこにある迷いや疲れの重さを、本当には知らないまま。

「由良ちゃんは、戻った側の景色で見てた。湊人くんは、残った側の景色で見てた。それがずれたってだけだよ」

「でも、傷つけた気がする」

「したでしょ。向こうも、ちょっとしたと思う」

 さらりと言われて、わたしは肩を落とした。

「ただ、悪いことばっかりでもないよ。何も言わずに分かったつもりでいるよりは、まし」

「まし、か」

「うん。分かり合うって、たいてい一回くらいずれるから」

 佐和さんはそう言って、カウンターに肘をついた。

「湊人くん、残ってることに自負もあるし、引け目もあるのよ。由良ちゃんが戻ってきたことに引っかかったみたいに、向こうも外へ出た人には引っかかる時がある。どっちが正しいとかじゃないの」

 その言い方に、「戻れる場所があるのはいいですね」と言われた帰り道で考えていたことが、少し違う形で戻ってきた。違う景色を見ているだけ。そう頭では分かっていたのに、実際にぶつかると、すぐに正しさの話にしてしまう。

「……謝った方がいいかな」

「謝るというより、もう一回話せばいいんじゃない。案内のことでも、別のことでも」

「話せるかな」

「話せるでしょ。由良ちゃん、前より逃げなくなったから」

 その言葉に、少しだけ笑ってしまった。前のわたしなら、次に会っても曖昧に笑って終わらせていたかもしれない。


   

 二日後、湊人さんとは商店街の入口で会った。

 夕方前で、人通りはそれほど多くない。みやげもの屋の前を小学生が走っていき、路面電車の音が遠くから聞こえてきた。湊人さんは書類の入った封筒を持っていて、わたしに気づくと少し足を止めた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 そのまますれ違うこともできた。でも、わたしは立ち止まった。

「あの、この前のこと」

 湊人さんも立ち止まる。少しだけ間があってから、「はい」と返ってきた。

「わたし、言い方がよくなかったです」

「……俺も、よくなかったです」

「見えてない、みたいに言いたかったわけじゃなくて」

「分かってます」

 湊人さんは封筒を持ち直した。

「俺も、外から見た道後っていうのを、ちゃんと考えたことがなかったかもしれません。ずっとここにいると、案内って分かりやすい方がいいって、先にそっちに行くので」

「わたしも、残ってる人のことを分かったような気で見てました」

「分かったような気で」

「うん。迷いなくここにいる人みたいに見えてた。でも、そうじゃないこともあるって、前から聞いてたのに」

 湊人さんは少し笑った。いつもの笑顔より、少し力の抜けた笑い方だった。

「迷いなく、ではないですね」

「ですよね」

「二宮さんの案、考えたんです」

 そう言って、彼は封筒から一枚紙を出した。前に見せてもらったレイアウト案だ。赤いペンで少し書き込みがある。

「最初の見出しは分かりやすい場所にして、その下に『雨の日の道後は、少し歩く速度がゆっくりになる』って一文を入れたらどうかなと思って」

「……いいですね」

「それと、宿から本館までの短い坂のことも。道順じゃなくて、歩き方の感じとして」

「それ、すごくいいです」

 紙をのぞき込みながら言うと、湊人さんは少し肩の力を抜いた。

「二宮さんの言うこと、たぶん俺には最初からは出てこなかったです」

「でも、久米さんの言う分かりやすさも必要だと思いました」

「じゃあ半分ずつですね」

「半分ずつ」

 その言い方がおかしくて、少し笑った。

 同じものを見ていたわけじゃない。今もたぶん、少し違う景色を見ている。でも、その違いを消さないまま、一枚の紙の上に並べることはできるのかもしれない。

 商店街の向こうを、路面電車がゆっくり通り過ぎていった。濡れ残った線路が光っている。

「今度、女将さんにも見てもらいます」

「うん」

「あと、佐和さんにも」

「それは厳しそうですね」

「厳しいですよ、たぶん」

 今度は、もう少し自然に笑えた。

 別れ際、湊人さんは紙を封筒に戻しながら言った。

「この前、残ってる側にも見えてるものがあるって言ったじゃないですか」

「うん」

「戻った側にしか見えないものも、たぶんちゃんとあります」

 その一言は、前より確かに、まっすぐ届いた。

 わたしは少しだけ息をついて、「ありがとうございます」と言った。

 湊人さんは「こちらこそ」と返して、商店街の奥へ歩いていった。背中を見送りながら、わたしは坂の上にあることの葉亭の方を思い浮かべた。

 戻ったから見えるものがある。残ったから見えるものがある。

 どちらかだけでは足りないのかもしれない。どちらかを消さなくても、同じ場所のことを一緒に話すことはできるのかもしれない。

 わたしは少し遅れて歩き出した。

 石畳はまだ少し湿っていて、足音がやわらかく響いた。道後の町は今日も変わらずそこにあるのに、見えている景色が、少しだけ前より広くなった気がした。

その日の帰り道、わたしは商店街を抜けながら、また路面電車の窓越しの横顔を思い出していた。

 戻った側にしか見えない景色がある。残った側にしか見えない景色もある。頭では前から分かっていたつもりだった。でも、それを言葉にしてぶつけ合うと、思っていたよりずっと痛かったし、思っていたよりずっと相手の輪郭がはっきり見えた。

 石畳には、昼に降った雨がまだ少し残っていた。踏むたびに、湿った音が小さく返ってくる。ことの葉亭の看板が見えてくると、胸の奥に残っていた硬さが、ほんの少しだけほどけた。

 同じ町にいても、同じ景色を見ているとは限らない。けれど、違う景色を見ているまま、一緒に同じ紙の上へ言葉を置くことはできるのかもしれない。そんなことを思いながら、わたしは宿の引き戸を開けた。

 おばあちゃんが帳場で書きものをしていた。

「どうだった」

「雨の町を歩いてきました」

「電車は乗った?」

「乗りました。花の木の久米さんと、偶然同じ電車で」

 おばあちゃんは筆を止めないまま、「そう」と言った。

「あの人、真面目な人よ」

「そうみたいですね」

「いい顔ばかりしてる人は、本音をどこかに押し込んでるから、気をつけてあげて」

 わたしは少し驚いて、おばあちゃんの顔を見た。おばあちゃんはまだ書きものを続けていた。

 気をつけてあげて、という言葉が、思ったより長く耳に残った。

 おばあちゃんは人を見ている。湊人さんのことも、ずっと見ていたのだ。いい顔をしている人の後ろに、押し込まれているものがあることを、知っていた。

 わたしは帳場の脇に腰を落ち着けて、今日の出来事を少し整理した。

 電車の中で、湊人さんが話してくれたこと。残った人間は最初からそれしかなかったみたいに思われる、という言葉。二宮さんには言いやすかった、という帰り際の一言。

 今日、誰かの本音に少しだけ触れた。

 触れた、というのは大げさかもしれない。ほんのわずか、内側が見えただけだ。でも、それがあったから、帰り道のわたしの頭は、来るときより少し整っていた。

 誰かの迷いを聞くことで、自分の迷いが少し形を持つことがある。湊人さんが言っていた言葉とは逆方向に、今日はわたしが受け取っていた。

 夕方が近づいて、宿が動き始める時間になった。

 わたしは立ち上がって、エプロンをつけた。

 今夜も仕事がある。それが、今は少しだけ、ありがたかった。


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