第九章 雨のなかの路面電車 見えている景色
七月の初め、梅雨はまだ終わっていなかった。
朝から雨が降っていた。強くはないが、やむ気配もない。道後の町が白く霞んで、温泉本館の屋根も輪郭が柔らかくなっている。こういう日は、外を歩く観光客が少し減って、宿の中に人がこもる時間が増える。
おばあちゃんの体調は戻っていた。先週の熱がうそのように、また朝から厨房に立っていた。わたしが早く起きて先に動こうとすると、「もう少し寝てなさい」と言われた。もう少し、の加減がおばあちゃんと違うのか、結局ほぼ同じ時間に起きることになる。
その日の午前中は宿泊客が少なく、午後に一組チェックインがあるだけだった。午前の仕事が早めに片づいたので、わたしはおばあちゃんに断ってから、少し出かけることにした。
用事というほどのものはなかった。ただ、雨の日に宿の中だけにいると、考えすぎてしまう癖があると気づいていた。体を動かすか、外の空気を吸うか、どちらかをしないと、頭の中が堂々巡りを始める。
傘をさして坂を下りた。
大街道まで行くつもりだった。
道後から大街道へは、路面電車で十分ほどだ。松山の中心部にある商店街で、百貨店や飲食店が並んでいる。特に何かを買いたいわけではなかったが、人の多い場所を歩くと、少し頭が切り替わる気がしていた。
道後温泉駅のホームで電車を待っていると、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
長身で、傘をたたんで手に持っている。薄い上着を着て、肩に小さな鞄をかけている。
久米湊人さんだった。
向こうもわたしに気づいた。少し目を大きくしてから、人懐こい笑顔になった。
「二宮さん、お出かけですか」
「少し大街道の方まで。久米さんは?」
「観光協会に書類を届けに。ちょうど大街道の近くなんです」
電車が来た。二両編成の、黄色い車体。ドアが開いて、乗り込んだ。
濡れた線路が鈍く光っていた。子どものころは当たり前すぎて気にも留めなかったこの電車を、帰ってきた今は少しだけ特別なものみたいに見ている。観光客に混じって地元の人が何でもない顔で乗り込んでいく、その感じが松山らしいと思った。
平日の昼間で、車内は空いていた。観光客が数人と、地元らしい年配の女性が一人。二人並んで立つ格好になった。吊り革につかまると、電車が揺れながら動き出した。
車窓の外を、雨に濡れた町が流れていく。
アーケードの屋根、石畳、傘をさした人たち。信号待ちの車。喫茶店の灯り。雨の日の松山は、いつもより地元の顔をしている、と思った。観光地としての明るさが少し引いて、生活の町の顔が出てくる。
「雨の日は電車が好きです」
「どうして」
「車の中と違って、外が見えるから。雨の日の景色って、晴れの日と全然違くて」
「そうですね」
「二宮さんは子どもの頃、乗ってましたか、この電車」
「よく乗ってました。祖母の宿に行くときとか、高校の帰りとか」
「俺も毎日乗ってた。この路線、飽きそうで飽きないんですよね。同じ景色なのに、季節と天気で全然変わるから」
湊人さんは窓の外を見ながら言った。地元の町を長く見てきた人の、愛着のある目だと思った。
「観光協会の仕事は、今日みたいな感じが多いですか」
「まあそうですね。書類とか、調整とか。地味なことが多いです。旅館の仕事も並行してるので、忙しいといえば忙しいですけど」
「大変そう」
「慣れました」
そう言ってから、湊人さんは少し間を置いた。窓の外に目をやったまま、続けた。
「慣れた、って言い方、あんまり正確じゃないかもしれないですけど」
「どういうことですか」
車窓の外を、雨に濡れた町が流れていく。
湊人さんはしばらく黙っていたが、ふと窓の外を見たまま言った。
「慣れた、っていうのと、やりたい、っていうのは、別なんだなと思う時があります」
少し意外だった。湊人さんはいつも、自分のことをさらりと流す。今日は少し違う話し方をしていた。
路面電車が次の停留所に着くと、湊人さんは「じゃあ、ここで」と言って立ち上がった。
「あ、はい」
降り際に軽く手を上げて、そのままホームへ降りていく。雨に濡れたホームの向こうで、薄いシャツの背中がすぐに人波へまぎれた。
扉が閉まって、電車がまたゆっくり動き出す。窓に流れる雨粒の筋を見ながら、わたしはさっきの言葉をもう一度思い返していた。慣れた、というのと、やりたい、というのは、別。
その言い方が、なぜかずっと胸のどこかに残っていた。
朝まで降っていた雨は昼前に上がり、道後の石畳だけがまだ濡れていた。空は薄い灰色のままだが、雲の向こうが少しだけ明るい。ことの葉亭の玄関先に出ると、湿った空気の中に、温泉の匂いがいつもより濃く混じっていた。
午前の仕事は早めに片づいた。客は二組だけで、どちらも昼前には出発した。おばあちゃんは厨房で夕食の仕込みを始めていて、わたしは帳場で予約帳を見直していた。外から引き戸の開く音がして、顔を上げる。
「こんにちは」
入ってきたのは湊人さんだった。薄いグレーのシャツに黒いパンツ。いつものやわらかい笑顔を浮かべていたが、今日は少しだけ目の下に疲れが見えた。
「こんにちは」
「女将さん、いらっしゃいますか。観光協会の件で少し」
わたしがおばあちゃんを呼びに行こうとすると、奥から声がした。
「由良、先に聞いておいてくれる? 手が離せないの」
「分かった」
そう返すと、湊人さんは「すみません」と軽く頭を下げた。帳場の脇の小上がりに案内すると、彼は鞄から数枚の紙を取り出した。
「来月の終わりに、商店街と旅館組合で小さな案内を作るんです。夏の終わりから初秋にかけての道後の歩き方、みたいなものを。各宿にも置いてもらえたらと思って」
「案内」
「観光マップというほど大げさじゃなくて。宿の人が一言すすめるなら、みたいな感じです」
紙には簡単なレイアウト案が印刷されていた。温泉本館、商店街、からくり時計、坊っちゃん列車。定番の名前が並んでいる。その下に、小さく「宿のおすすめコメント」と書く欄があった。
「各宿から一つずつ、短い文をもらえたらと思ってるんです。ことの葉亭さんなら、女将さんの言葉がいいかなと」
「おばあちゃん、こういうの苦手そうだけど」
「そうなんですよね」
湊人さんは苦笑した。
「なので、もし二宮さんでも何かあれば。外から戻ってきた人の目って、地元の人と少し違うでしょうし」
「わたしの、ですか」
「はい。嫌でなければ」
嫌というより、少し意外だった。こういう時、わたしは手伝う側で、意見を出す側ではないと思っていたからだ。
紙を見ながら、少しだけ考える。
「……定番の場所を案内するのもいいけど、雨の日の道後って、いいなって思うんです」
「雨の日」
「晴れてる日より、少し静かで。石畳が濡れて、路面電車の音が遠く聞こえて。急いで歩かなくてもいい感じがして」
言いながら、自分でも曖昧だと思った。でも湊人さんは途中で遮らずに聞いていた。
「温泉に来るって、元気な時ばかりじゃない気がするんです。観光したい人ももちろんいるけど、ちょっと立ち止まりたい人もいて。そういう人には、にぎやかな場所だけじゃなくて、静かな時間の方が残ることもあるかなって」
「なるほど」
湊人さんは紙に目を落としたまま頷いた。
「たとえば、朝早い路面電車とか、宿から本館までの短い坂とか。朝の電車は、観光の人より先に町の一日を運んでいる感じがする。本館までの坂も、ほんの少しなのに、上るあいだに息が整っていく。急いで楽しむ場所じゃなくて、少し立ち止まるための時間が、この町にはある気がします。あと、内湯のあとに少し休める場所とか」
「二宮さんらしいですね」
「そうですか」
「うん。細かいところを見てる感じがして」
そこまでは、穏やかな会話だった。
でもそのあと、湊人さんは少しだけ困ったような顔をして、紙を指で軽く叩いた。
「ただ、案内として出すなら、もう少し分かりやすい方がいいかもしれません」
「分かりやすい」
「初めて来る人には、雨の日の空気とか、静かな坂とかって、まだ想像しにくいので。やっぱり最初は、本館とか、商店街とか、目に入るものがあった方が動きやすいと思うんです」
言っていることは分かった。分かったのに、胸のどこかが少し固くなる。
「それは、そうかもしれませんけど」
「二宮さんの言うことは、たぶん一度来た人とか、外から見直した人には伝わりやすいと思うんです。でも、最初の案内としては少し内向きかもしれなくて」
外から見直した人。
その言い方に、胸が引っかかった。
悪意がないのは分かる。分かるのに、言われた瞬間、わたしの中で別の意味に聞こえてしまった。戻ってきたから、そう見える。外を知っているから、そう言える。ここにずっといる人とは違うから。
「でも、ずっとここにいると、見えなくなるものもあるんじゃないですか」
気づいた時には、口に出していた。
湊人さんが顔を上げる。
「見えなくなる?」
「当たり前すぎて、いいところとして数えなくなるってことです。本館とか商店街とか、そういう分かりやすいものだけじゃなくて、ここにある空気みたいなものも、道後の一部じゃないですか」
「もちろんそうです」
「だったら、そこを書いてもいいと思います」
「ダメだとは言ってないです」
声は強くなかった。でも、空気は少し変わった。
わたしも引けなかった。たぶん、案内の話だけじゃなくなっていた。
「外から戻ってきたから見えるって言い方、少し違う気がします」
「……どう違いますか」
「外から見たからじゃなくて、ここにいる時に息ができたから、そう思ったんです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
湊人さんはしばらく黙った。その沈黙が、前より少しだけ遠い。
「俺も、見えてないつもりはないですよ」
「そんなこと言ってません」
「でも、そう聞こえました」
低い声だった。怒っているというより、冷ややかに線を引く声だった。
「残ってる人間は、分かりやすいものしか見てないみたいに」
「……そういう意味じゃ」
「二宮さんは一度外へ出て、戻ってきたから見える景色がある。たぶんそれは本当です。でも、残ってる人間にも、残ってる人間なりに見えてるものはあるんです」
そこで初めて、わたしは自分が刺したのだと分かった。
さっきまで引っかかっていたのはわたしの方なのに、先に口に出して刺したのも、わたしの方だった。
小上がりの向こうで、鍋の蓋が鳴る音がした。厨房からだしの匂いが流れてくる。宿の中はいつも通りなのに、ここだけ少し空気が違っていた。
「……すみません」
「いえ」
湊人さんは紙を整えて、鞄に戻した。
「一度持ち帰って、また考えます。女将さんにも改めてお話しします」
「うん」
「今日はすみません、急に」
立ち上がる動作まで、いつも通り丁寧だった。だから余計に、さっきのわずかな硬さが残った。
玄関で見送ると、彼はいつものように笑った。でも、その笑顔の下に、今日は少しだけ疲れより別のものがあった。
引き戸が閉まったあと、わたしはしばらくその場に立っていた。
夕方、カフェ・コウノに行くと、佐和さんはカウンターの中で豆を挽いていた。店の中にはほかに誰もいない。雨上がりの湿った空気が、開けた引き戸から少し入り込んだ。
「顔、分かりやすいね」
「そんなに?」
「そんなに」
座る前からそう言われて、わたしは苦笑した。コーヒーを出してもらって、一口飲んでから、さっきのことを話した。観光協会の案内のこと。わたしの言い方が少しきつくなったこと。湊人さんの返事。
佐和さんは途中で口を挟まなかった。最後まで聞いてから、カップを拭きながら言った。
「やっと、ちゃんとぶつかったんじゃない」
「ちゃんと、かな」
「今までお互い、相手のことを少しずつ想像で補ってたでしょ」
そう言われると、否定できなかった。
湊人さんのことを、わたしは勝手に「残る側」として見ていた。地元にいて、家業を継いで、観光協会の仕事もして、人当たりがよくて、まぶしい人。そこにある迷いや疲れの重さを、本当には知らないまま。
「由良ちゃんは、戻った側の景色で見てた。湊人くんは、残った側の景色で見てた。それがずれたってだけだよ」
「でも、傷つけた気がする」
「したでしょ。向こうも、ちょっとしたと思う」
さらりと言われて、わたしは肩を落とした。
「ただ、悪いことばっかりでもないよ。何も言わずに分かったつもりでいるよりは、まし」
「まし、か」
「うん。分かり合うって、たいてい一回くらいずれるから」
佐和さんはそう言って、カウンターに肘をついた。
「湊人くん、残ってることに自負もあるし、引け目もあるのよ。由良ちゃんが戻ってきたことに引っかかったみたいに、向こうも外へ出た人には引っかかる時がある。どっちが正しいとかじゃないの」
その言い方に、「戻れる場所があるのはいいですね」と言われた帰り道で考えていたことが、少し違う形で戻ってきた。違う景色を見ているだけ。そう頭では分かっていたのに、実際にぶつかると、すぐに正しさの話にしてしまう。
「……謝った方がいいかな」
「謝るというより、もう一回話せばいいんじゃない。案内のことでも、別のことでも」
「話せるかな」
「話せるでしょ。由良ちゃん、前より逃げなくなったから」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。前のわたしなら、次に会っても曖昧に笑って終わらせていたかもしれない。
二日後、湊人さんとは商店街の入口で会った。
夕方前で、人通りはそれほど多くない。みやげもの屋の前を小学生が走っていき、路面電車の音が遠くから聞こえてきた。湊人さんは書類の入った封筒を持っていて、わたしに気づくと少し足を止めた。
「こんにちは」
「こんにちは」
そのまますれ違うこともできた。でも、わたしは立ち止まった。
「あの、この前のこと」
湊人さんも立ち止まる。少しだけ間があってから、「はい」と返ってきた。
「わたし、言い方がよくなかったです」
「……俺も、よくなかったです」
「見えてない、みたいに言いたかったわけじゃなくて」
「分かってます」
湊人さんは封筒を持ち直した。
「俺も、外から見た道後っていうのを、ちゃんと考えたことがなかったかもしれません。ずっとここにいると、案内って分かりやすい方がいいって、先にそっちに行くので」
「わたしも、残ってる人のことを分かったような気で見てました」
「分かったような気で」
「うん。迷いなくここにいる人みたいに見えてた。でも、そうじゃないこともあるって、前から聞いてたのに」
湊人さんは少し笑った。いつもの笑顔より、少し力の抜けた笑い方だった。
「迷いなく、ではないですね」
「ですよね」
「二宮さんの案、考えたんです」
そう言って、彼は封筒から一枚紙を出した。前に見せてもらったレイアウト案だ。赤いペンで少し書き込みがある。
「最初の見出しは分かりやすい場所にして、その下に『雨の日の道後は、少し歩く速度がゆっくりになる』って一文を入れたらどうかなと思って」
「……いいですね」
「それと、宿から本館までの短い坂のことも。道順じゃなくて、歩き方の感じとして」
「それ、すごくいいです」
紙をのぞき込みながら言うと、湊人さんは少し肩の力を抜いた。
「二宮さんの言うこと、たぶん俺には最初からは出てこなかったです」
「でも、久米さんの言う分かりやすさも必要だと思いました」
「じゃあ半分ずつですね」
「半分ずつ」
その言い方がおかしくて、少し笑った。
同じものを見ていたわけじゃない。今もたぶん、少し違う景色を見ている。でも、その違いを消さないまま、一枚の紙の上に並べることはできるのかもしれない。
商店街の向こうを、路面電車がゆっくり通り過ぎていった。濡れ残った線路が光っている。
「今度、女将さんにも見てもらいます」
「うん」
「あと、佐和さんにも」
「それは厳しそうですね」
「厳しいですよ、たぶん」
今度は、もう少し自然に笑えた。
別れ際、湊人さんは紙を封筒に戻しながら言った。
「この前、残ってる側にも見えてるものがあるって言ったじゃないですか」
「うん」
「戻った側にしか見えないものも、たぶんちゃんとあります」
その一言は、前より確かに、まっすぐ届いた。
わたしは少しだけ息をついて、「ありがとうございます」と言った。
湊人さんは「こちらこそ」と返して、商店街の奥へ歩いていった。背中を見送りながら、わたしは坂の上にあることの葉亭の方を思い浮かべた。
戻ったから見えるものがある。残ったから見えるものがある。
どちらかだけでは足りないのかもしれない。どちらかを消さなくても、同じ場所のことを一緒に話すことはできるのかもしれない。
わたしは少し遅れて歩き出した。
石畳はまだ少し湿っていて、足音がやわらかく響いた。道後の町は今日も変わらずそこにあるのに、見えている景色が、少しだけ前より広くなった気がした。
その日の帰り道、わたしは商店街を抜けながら、また路面電車の窓越しの横顔を思い出していた。
戻った側にしか見えない景色がある。残った側にしか見えない景色もある。頭では前から分かっていたつもりだった。でも、それを言葉にしてぶつけ合うと、思っていたよりずっと痛かったし、思っていたよりずっと相手の輪郭がはっきり見えた。
石畳には、昼に降った雨がまだ少し残っていた。踏むたびに、湿った音が小さく返ってくる。ことの葉亭の看板が見えてくると、胸の奥に残っていた硬さが、ほんの少しだけほどけた。
同じ町にいても、同じ景色を見ているとは限らない。けれど、違う景色を見ているまま、一緒に同じ紙の上へ言葉を置くことはできるのかもしれない。そんなことを思いながら、わたしは宿の引き戸を開けた。
おばあちゃんが帳場で書きものをしていた。
「どうだった」
「雨の町を歩いてきました」
「電車は乗った?」
「乗りました。花の木の久米さんと、偶然同じ電車で」
おばあちゃんは筆を止めないまま、「そう」と言った。
「あの人、真面目な人よ」
「そうみたいですね」
「いい顔ばかりしてる人は、本音をどこかに押し込んでるから、気をつけてあげて」
わたしは少し驚いて、おばあちゃんの顔を見た。おばあちゃんはまだ書きものを続けていた。
気をつけてあげて、という言葉が、思ったより長く耳に残った。
おばあちゃんは人を見ている。湊人さんのことも、ずっと見ていたのだ。いい顔をしている人の後ろに、押し込まれているものがあることを、知っていた。
わたしは帳場の脇に腰を落ち着けて、今日の出来事を少し整理した。
電車の中で、湊人さんが話してくれたこと。残った人間は最初からそれしかなかったみたいに思われる、という言葉。二宮さんには言いやすかった、という帰り際の一言。
今日、誰かの本音に少しだけ触れた。
触れた、というのは大げさかもしれない。ほんのわずか、内側が見えただけだ。でも、それがあったから、帰り道のわたしの頭は、来るときより少し整っていた。
誰かの迷いを聞くことで、自分の迷いが少し形を持つことがある。湊人さんが言っていた言葉とは逆方向に、今日はわたしが受け取っていた。
夕方が近づいて、宿が動き始める時間になった。
わたしは立ち上がって、エプロンをつけた。
今夜も仕事がある。それが、今は少しだけ、ありがたかった。




