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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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第十章 言わない優しさ

 七月の中頃になると、夏の気配が濃くなった。

 梅雨が明けて、道後の空が急に高くなった。朝から日差しが強く、石畳が白く光る。観光客の服装が薄くなって、温泉本館の前に並ぶ人たちが、扇子や団扇を手にしている。宿の仕事も、夏仕様に少しずつ変わっていく。部屋の冷房の確認、冷たいお茶の準備、夕食のメニューの切り替え。

 白石さんが再び来たのは、その頃だった。

 今度は五泊の予約で、黒い鞄を持って、前回と同じようにそっと引き戸をあけた。帳場にいたわたしが顔を上げると、白石さんは軽く会釈した。

「また来ました」

「お待ちしておりました。お部屋は前回と同じ二号室をご用意しています」

「ありがとう」

 短いやり取りで、白石さんは廊下の奥へ歩いていった。その背中が見えなくなってから、おばあちゃんが厨房から出てきた。

「白石さん、いらした?」

「今、部屋に向かいました」

「夕食のあと、少しご挨拶してくる」

 おばあちゃんはそう言って、また厨房へ戻った。白石さんとおばあちゃんの間には、長い付き合いの人同士の、説明を必要としない了解がある。それを見るたびに、時間をかけて作られたものの重さを感じた。

  

 翌日の昼過ぎ、白石さんが帳場の前を通りかかった。

 散歩から戻ってきたらしく、日に少し焼けた顔をしていた。帳場の前でわたしと目が合うと、足を止めた。

「先日はありがとうございました。ことば帳のことを考えることが増えました」

 わたしからお礼を言うと、白石さんは眼鏡の奥で、少し目を動かした。

「何か書きましたか」

「まだ書けていません」

「書けない、ですか。書かない、ではなく」

 鋭い問いだった。前回も感じたが、白石さんは言葉の選び方を聞いている。書けないと書かないは違う、と指摘している。

「……書かない、の方が正確かもしれません」

「そうでしょう」

 断定ではなかったが、やはり見透かされている感じがした。

「怖いんです、書いてしまうと」

「何が怖い」

「書いたことが、自分の現実になる気がして。今は曖昧なままにしておけば、まだどちらにも転べるような気がしていて」

 白石さんはしばらく黙った。帳場のカウンターに目を落として、何かを考えているようだった。それから顔を上げた。

「言葉にしない優しさ、というものがある」

「はい」

「傷つけたくないから言わない。混乱させたくないから言わない。相手のためを思って、黙っていることを選ぶ。それは確かに優しさの一形態です。でも、それは優しさかもしれないし、怠慢かもしれない」

 怠慢。

 その言葉が、すとんと落ちてきた。落ちてきて、どこかに刺さった。

「言わないことで、関係が止まることがある。相手も、自分も、その場所に固定されてしまう。動かせるはずのものが、言葉を渡さないことで、動かなくなる」

「でも言葉にすることで、傷つけることもあります」

「あります」

白石さんは即座に認めた。

「言葉は道具で、使い方を誤れば傷になる。でも、あなたが今避けているのは、誰かを傷つけることへの恐れですか。それとも、自分が見えてしまうことへの恐れですか」

 答えが出なかった。

 両方だ、と思った。でも、どちらが大きいか、正直なところ分からなかった。

「若い人はよく、傷つけないことと誠実であることを同じに考える」

 白石さんは穏やかに続けた。

「でも誠実であることは、時に相手を傷つける。傷つけたくないから言わない、はときに、自分が傷つきたくないから言わない、と同じ場所に行き着きます。あなたは、どちらですか」

「分かりません」

「分からなくていい。ただ、分からないまま言わないでいることと、分かっていて言わないでいることの違いは、覚えておいた方がいい」

 白石さんはそれだけ言って、部屋の方へ歩いていった。

 わたしはカウンターの前で、しばらく動けなかった。

 むっとした。先日もそうだったが、白石さんの言葉は、やわらかく慰める方向に来ない。ただ、正確なものを差し出してくる。それが痛いのは、正確だからだ。

  

 その夜、布団の中で白石さんの言葉を繰り返した。

 傷つけないことと誠実であることを同じに考える。

 お父さんに、本当のことを話せない。壊れていたこと、駅のホームで足が動かなくなったこと、壊れた自分を認めることが怖かったこと。言えないのは、お父さんを傷つけたくないからだ、とわたしは思っていた。

 でも本当に、そうだろうか。

 お父さんを傷つけたくない。それは本当だ。でも同時に、話してみて「そんなことで」と受け取られることが怖い。あるいは、心配をかけることで、余計に追い詰められることが怖い。話して、また何か言われることが怖い。

 どこまでが相手のためで、どこからが自分のためなのか。

 境界が、思っていたより曖昧だった。

 言わないことで関係が止まる、という白石さんの言葉も、引っかかっていた。

 お父さんとわたしの間には、何年もの言えなかったことが積み重なっている。大学を選ぶとき、就職先を決めるとき、仕事が辛くなっていくとき。全部、表面だけで話してきた。本当のことは、いつも少し後ろに引っ込めてきた。

 それはお父さんも同じで、お父さんもわたしに、本当のことを話してきたかどうか分からない。

 止まっている。確かに止まっている。言葉を渡さないことで、動かせるはずの何かが、そのまま固まっている。

  

 三日後の朝、宿に手紙が届いた。

 差出人は宮内澪、とあった。

 封筒を開けると、便箋が二枚入っていた。丸みのある、丁寧な字で書かれていた。

 最初の一段落は、先日の宿泊へのお礼だった。女将さんとお手伝いの方にお世話になったこと、温泉が気持ちよかったこと、ことば帳のことが帰ってからも頭に残っていること。

 でも、二枚目に入ると、文章の調子が変わった。

 志望校への出願について、少し考えが変わってきたこと。県外の大学に行きたい気持ちは変わらないが、どう家族に言えばいいか、まだ分からないでいること。宿で過ごした一泊が、何かの整理になった気がすること。でも、整理できたからといって、言葉が出てくるわけではないこと。

 最後の一文は、こうだった。

「由良さんは、言いたいことが言えないとき、どうされていますか」

 わたしは手紙を持ったまま、帳場の椅子に腰かけた。

 澪さんからの問いが、まっすぐに届いてきた。礼状のようでいて、その実、まだ迷いの中にいる。ことば帳に書いた言葉の続きが、この手紙の中にあった。

 どうするか。

 今のわたしに、答えがあるだろうか。

 わたし自身、言いたいことが言えていない。お父さんに言えていない。自分のことを、ちゃんと言葉にできていない。ことば帳にも、まだ一行も書けていない。

 でも、澪さんはわたしに聞いてきた。答えを求めているというより、誰かに向かって問いを投げることで、自分の中で何かを確認しようとしているのかもしれない。

 返事を書こう、とわたしは思った。

 今夜、書こう。答えは持っていないが、持っていないまま書ける言葉がある気がした。

  

 夕方、白石さんが縁側で何か書いているのを、廊下から見かけた。

 原稿用紙ではなく、普通のノートだった。万年筆で、黙々と書いている。邪魔をするつもりはなかったが、お茶を持っていく時間だったので、部屋の入り口で声をかけた。

「失礼します、お茶をお持ちしました」

 白石さんは顔を上げた。

「どうぞ」

 お盆を持って縁側に入ると、白石さんはノートを閉じた。書いているものを見せたくないのかもしれない、と思って、視線をそちらに向けないようにした。

 お茶を置いて、下がろうとすると、白石さんが「少し聞いてもいいですか」と言った。

「はい」

「あなたは以前、どんな仕事をしていましたか」

「広告の制作会社で、コピーや企画の仕事を」

「言葉を作る仕事ですね」

「はい、一応」

「一応」

 白石さんはその言葉を繰り返した。先日も感じたが、この人は言葉の端を拾う。一応、という逃げ道のある言い方を、そのまま流さない。

「言葉を作ることが好きでしたか」

「……好きだったか、今は分からなくて」

「分からなくなるほど、やりすぎた」

「そうかもしれません」

「それは惜しいことです」

 白石さんは湯飲みを持ち上げて、一口飲んだ。それから縁側の外を見た。夏の夕方の光が、松の葉を照らしている。

「言葉を作る仕事をしていた人が、自分のことば帳に書けないでいる」

「恥ずかしいですね」

「恥ずかしくはない。でも、興味深い」

 白石さんは縁側の外を見たまま言った。

「人のために言葉を作ることと、自分のために言葉を書くことは、全く違う作業です。人のためには、相手の形に合わせた言葉を選べばいい。でも自分のために書くとき、合わせる形がない。自分の輪郭を、言葉で初めて作ることになる」

「自分の輪郭を」

「言葉にする前は、自分の感情や考えは、形のない塊です。書くことで、初めて形になる。だから怖い。形になったら、目をそらせなくなる」

「それが怠慢、と言われた理由ですか」

「怠慢というのは言いすぎたかもしれません」

珍しく、少し引いた言い方だった。

「ただ、形にすることを避け続けることで、失われるものがある。それだけです」

 わたしは空になったお盆を持って、部屋を出た。

 廊下に出ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。自分の輪郭を、言葉で初めて作る。その言葉が、歩きながら頭の中で繰り返された。

  

 その夜、澪さんへの返事を書いた。

 便箋を出して、ペンを持って、少し考えてから書き始めた。

 うまいことを書こうとしなかった。答えを持っているふりをしなかった。ただ、今のわたしが思っていることを、正直に書いた。

 言いたいことが言えないとき、どうしているか。

 正直に言えば、わたしもまだできていない。言えないまま、ここにいる。でも、言えない理由が少しずつ分かってきていて、分かってきたことで、少しだけ次の場所が見えてきている気がする。

 言えなくていい場所で、言えないまま待つことも、一つの方法だと思う。ことの葉亭はそういう場所だった、わたしにとって。澪さんにとっても、少しそうだったなら、うれしい。

 言葉が出てくるのを、焦らないで。言えるときに、言える人に、言える言葉で。それだけでいいと思う。

 書き終えて、読み返した。

 うまくない文章だった。でも、書いたことは全部本当のことだった。

 封筒に入れて、宛名を書いた。明日、出しに行こう。

 それから、ことば帳を手に取った。

 余白のページを前にして、今夜はペンを握った。

 自分の輪郭を、言葉で初めて作る。

 どんな形が出てくるか、書くまで分からない。でも、形にすることを避け続けることで、失われるものがある。

 ペンを紙に当てた。

 手が止まらなかった。

 一行だけ、書いた。


 大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。


 読み返した。

 これだ、と思った。うまくはない。詩的でもない。でも、これがわたしの今の輪郭だった。大丈夫じゃなかったことを認めることが、誰かへの甘えのような気がして、ずっと言えなかった。言わないことで、誰も傷つけないで済むと思っていた。でも本当は、自分が見えてしまうことが怖かった。

 白石さんが言っていた。傷つけないことと誠実であることを同じに考える、と。

 今夜、この一行を書いたことは、誰かへの誠実さではなく、自分への誠実さだった。

 ことば帳を閉じた。

 窓の外で、夏の虫が鳴いていた。道後の夜に、初めて聞く音だった。季節が動いていた。

 わたしの中でも、何かが一目盛り動いた気がした。ことば帳に初めて書いた夜のことを、しばらく覚えていると思った。


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