表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/13

第十一章 いよかんの香る夜

 七月の終わりに、家族連れが来た。

 三十代くらいの夫婦と、小学校に上がる前くらいの男の子。チェックインのとき、男の子は帳場のカウンターに手をかけて、背伸びをしてわたしの顔を見た。丸い目で、ほっぺたがまだ子どものやわらかさをしていた。

「ここ、温泉あるの?」

「あります。お風呂が大きいですよ」

「大きいの? どのくらい」

「うーん、そうですね……」

わたしは少し考えた。

「あなたが四人くらい入っても、まだ余裕があるくらい」

 男の子は目を丸くした。「四人分!」

 お父さんが「颯真、邪魔だぞ」と言って、男の子の肩を引いた。颯真くんは引かれながらも、カウンターから目を離さなかった。

 部屋へ案内する道すがら、颯真くんはずっとしゃべっていた。廊下の板の目が面白い、窓から見える松の木がでかい、なんでここ温泉の匂いがするの。矢継ぎ早な問いに、わたしはできる限り答えた。お母さんが「うるさくしてすみません」と何度も言ったが、別に構わなかった。子どもの問いには、余計な間がない。聞きたいことをそのまま聞いてくる。それが、この仕事を始めてから初めての経験で、少し新鮮だった。

  

 夕食の時間、颯真くんはまたよくしゃべった。

 食堂に家族三人で座って、料理が出てくるたびに「これなに」「おいしい」「これはちょっと嫌い」と言う。正直だった。嫌いなものを嫌いと言える年頃だった。

 お母さんが「全部食べなさい」と言って、颯真くんが「なんで嫌いなのに食べないといけないの」と言い返した。その問いに、お母さんは少し詰まっていた。なんで、という問いには、大人でも答えに困るものがある。

 わたしはお茶を注ぎに行きながら、その会話を聞いていた。

 嫌いなものを嫌いと言える。当たり前のことのように見えて、大人になるにつれて難しくなっていく。嫌いと言うことで何かを壊してしまうのが怖くなる。傷つけることへの恐れと、自分が傷つくことへの恐れが混ざって、黙ることを覚えていく。

 颯真くんはまだそれを覚えていない。だから、あんなにまっすぐしゃべれる。

 いつ覚えるのだろう、と思った。そしてそれは、覚えなければいけないことなのだろうか、とも。

  

 翌日の午前中、颯真くんはおばあちゃんに懐いた。

 どこで気づいたのか、厨房の入り口をそっとのぞいていた颯真くんを、おばあちゃんが見つけた。追い払うかと思ったら、「入っておいで」と言った。颯真くんはおそるおそる入って、椅子に座らせてもらって、おばあちゃんが何かを作るのを見ていた。

 わたしは掃除の合間にのぞくと、二人でみかんの皮を刻んでいた。

「何してるの」

 おばあちゃんが振り返った。

「湯上がり菓子の材料。颯真くんが手伝ってくれてる」

 颯真くんは真剣な顔で、小さな手を動かしていた。

「むずかしい」

「うん、難しいね。でも上手だよ」

 おばあちゃんが言うと、颯真くんの手が少し速くなった。褒められると速くなる、素直な反応だった。

 わたしはそのまま掃除に戻った。でも、厨房の方から二人の声がときどき聞こえてきて、その声がどこか温かく、部屋の空気に混じっていた。

  

 夕方、家族がチェックアウトしたあと、厨房はみかんの香りが残っていた。

 皮を砂糖で煮詰めた、甘くほろ苦い匂い。子どものころ、この匂いがこの宿の匂いだと思っていた。帰省するたびに、祖母の宿はこの香りがした。

 みかんの菓子は、ことの葉亭の名物のひとつだった。いよかんの皮を使った自家製のもので、夜の湯上がり茶と一緒に出す。市販のものを使えばもっと楽だが、おばあちゃんは毎回自分で作った。材料費も手間も、たいして効率的ではないと思う。でも、これを目当てに来る常連もいると聞いていた。

 今夜は、夕食の片づけが終わると、おばあちゃんと二人でその菓子を仕上げた。

 皮の砂糖煮を、小さな型に流し込む作業だ。熱いうちにやらないと固まってしまう。二人で向かい合って、黙々と手を動かした。

「颯真くん、かわいかったね」

「ああいう子は元気が出る」

「何でも正直に言うから」

「そうね。正直に言える年頃って、短いから」

「大人になったら言えなくなる?」

「言えなくなるんじゃなくて、言い方を覚えるの。言い方が増える分、どれを選ぶかで迷うようになる」

 型に菓子が流れ込んで、平らになっていく。みかんの香りが立ち上った。

「おばあちゃんは、言えないことある?」

 聞いてから、少し唐突だったかな、と思った。でもおばあちゃんは手を止めなかった。

「あるよ、もちろん」

「どうするの、そういうとき」

「待つ」

「待つ」

「言える時が来るまで、ちゃんと持っておく。言えないからって、なかったことにしない」

 言えなかったことは、消えたことにはならない。

 ことば帳の最初の一行が、頭の中で重なった。

 おばあちゃんがあの言葉を書いたかどうかは分からない。でも、あの言葉とおばあちゃんの今の言葉は、同じ場所から来ている気がした。

「由良は、言えてる?」

「少しずつ」

「少しずつでいいから」

 それだけ言って、おばあちゃんは仕上げの作業に戻った。

  

 菓子が固まるのを待つ間、わたしは縁側に出た。

 夏の夜の空気は、昼間の熱が少し残っていて、でも道後の風が流れると涼しかった。虫の声がして、どこか遠くで路面電車の音がした。

 ここにいたころの自分のことを考えた。

 高校生のわたしは、この宿が好きだった。おばあちゃんの厨房の匂いが好きで、帳場の古い木の感触が好きで、縁側から見える松の枝が好きだった。何かを意識して好きだったわけではなく、ただここにいると、体がほっとした。

 でも松山を出るとき、ここへの愛着を、わたしは意識的に薄めようとしていた。残りたくない、という気持ちに正直でいるために、好きな場所に執着しないようにしていた。好きだと思うと、離れにくくなる。だから、好きであることに、少し目をつぶった。

 今から考えると、それは不思議な話だ。好きなものから目をつぶることで、自由になれると思っていた。でも本当は、自分が何を好きかを知らないことの方が、ずっと不自由だ。

 東京で迷子になったのは、そういうことだったかもしれない。何が好きかを後回しにして生きてきた結果、何のために動いているのか分からなくなった。

 ここにいたころの自分は、ちゃんと何かを好きだった。

 その気づきが、胸の奥にじんわりと広がった。痛くはなかった。でも、痛みに似たものが、確かにあった。

 失ったわけではない。好きだという気持ちは、消えていなかった。今もここに立って、縁側から夏の夜を見ながら、体がほっとしている。それは変わっていない。ただ、気づくのが遅くなっていた。

  

 厨房へ戻ると、菓子が固まっていた。

 おばあちゃんが型から外して、小さな皿に並べていた。濃い橙色で、砂糖が表面に薄く光っている。

「食べてみて」

 一つ取って、口に入れた。

 甘くて、少し苦くて、みかんの香りが鼻に抜けた。子どものころから知っている味だった。変わっていない。何年経っても、ここの菓子はこの味だ。

「おいしい」

「そう」

 おばあちゃんは照れるでもなく、そうと言って、残りを皿に並べ続けた。

「好きなものが残っているなら、それはまだ終わっていないんじゃない?」

 おばあちゃんがふと言った。

 菓子を並べる手を止めないまま、でも声は縁側の方を向いていた。さっきわたしが出ていた方向に。見ていたのかもしれない。あるいは、気配で分かっていたのかもしれない。

「好きなものが残っているなら」とわたしは繰り返した。

「うん」

「終わっていない」

「そう思う」

 短い言葉だった。説明もなく、根拠もなく、ただそう思う、と言った。でもその短さの中に、七十九年分の何かが入っていた。

 わたしは皿の上のみかんの菓子を見た。

 好きだという気持ちが残っているなら、終わっていない。東京での日々が終わったとしても、好きだったものが消えたわけではない。この宿が好きで、この匂いが好きで、縁側から見える夜の空気が好きで、それはまだここにある。

 止まっていたものが、わずかに動いた。

 動いた、という確信ではなかった。でも、何かがほんの少し傾いた感覚が、確かにあった。

 おばあちゃんは菓子を並べ終えて、「今夜の湯上がり茶の準備をしましょう」と言った。

 わたしははい、と答えて、湯飲みを出す棚を開けた。

 手が、迷いなく動いた。

  

 その夜、六号室に戻ってから、ことば帳を開いた。

 先日書いた一行が、そこにある。

 大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。

 読み返した。書いた夜と同じ言葉なのに、少し違う場所から読んでいる気がした。一週間の間に、自分の立っている場所が、わずかに変わっていた。

 ペンを取った。

 もう一行、書けるかもしれない、と思った。今夜の縁側のこと、みかんの菓子のこと、おばあちゃんの言葉のこと。全部ではなく、そこから一行だけ。

 でも、手が止まった。

 止まったのは怖さではなかった。まだ言葉になりきっていない、という感覚だった。今夜動いたものは、まだ形になっていない。形になる前に言葉にすると、本当の形と少しずれてしまう気がした。

 もう少し待とう、と思った。

 待つことは、逃げることではない。おばあちゃんが言っていた。言える時が来るまで、ちゃんと持っておく。言えないからって、なかったことにしない。

 ことば帳を閉じた。

 窓の外から、虫の声が続いていた。夏の夜が、宿の周りをやわらかく包んでいた。

 今夜感じたことを、ちゃんと持っておく。なかったことにしない。

 このまま留めておこう。それだけで、心が落ちつく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ